第12話 【転落現場】
四階西病棟の廊下は、異様な静けさだった。
さっきまで騒然としていたのに、今は皆が声を潜めている。
「……高坂師長、生きてるんですか」
遥が小さく聞く。
岸本が短く答えた。
「集中治療室です」
その声には苛立ちと焦りが混じっていた。
刑事の男――柴崎は、休憩室の窓際を見ている。
床に散らばった書類。
倒れた椅子。
割れたスマホ。
そして窓の鍵部分。
「榊さん」
柴崎が低く言う。
「どう見ます?」
遥は緊張した。
だが榊は即答しなかった。
数秒間、床を見ている。
やがて窓際へしゃがみ込み、小さく言った。
「争った跡はありますね」
岸本が顔をしかめる。
「憶測はやめてください」
「憶測じゃない」
榊は床を指差した。
白い擦れ跡。
靴底のゴム痕。
さらに、床には不自然な水滴が残っている。
柴崎刑事も気づいていた。
「誰かが引きずったようにも見えるな……」
岸本が強く言う。
「転落直後の混乱でしょう!」
だが榊は別の場所を見ていた。
休憩室の机。
その上に、小さな注射キャップが落ちている。
透明なプラスチック。
医療者しか気づかないような小さな部品。
遥の顔が変わる。
「これ……」
榊は拾い上げた。
「病棟で使うやつですね」
遥は頷く。
「静脈注射とか筋注の時の……」
岸本が険しい顔になる。
「医療現場なら落ちていても不自然じゃない」
「そうですね」
榊は否定しない。
だが、そのまま続けた。
「問題は、“なぜ休憩室にあるか”です」
空気が止まる。
柴崎刑事がゆっくり榊を見る。
榊はさらに床を見る。
「あと、高坂師長の靴」
「靴?」
「片方しか落ちてない」
遥が息を呑む。
転落事故では、靴が両方脱げることは珍しくない。
でも片方だけ。
しかも窓から少し離れた位置。
まるで途中で脱げたような。
柴崎が低く言う。
「誰かともみ合った可能性か」
岸本が苛立ちを隠せなくなる。
「だから憶測は――」
その時だった。
若い看護師が駆け込んできた。
「岸本事務長!」
「なんだ!」
「高坂師長、意識戻りました!」
全員の空気が変わる。
だが次の言葉で、さらに凍る。
「でも……混乱状態で、“あのUSBを消せ”って叫んでます」
榊と柴崎の視線が重なる。
やはり。
高坂はUSBの存在を知っていた。
つまり地下倉庫の件に関与している。
遥が震える声で言う。
「じゃあ……師長が消そうとしたんですか」
榊は首を横に振った。
「いや、違う」
「え?」
榊は静かに言った。
「“消せ”って言い方は、自分でやる側の言葉じゃない」
柴崎も気づいたように眉を動かす。
「命令されてた側、か……?」
その瞬間。
廊下の奥で、誰かが走り去る音がした。
全員が振り向く。
白衣姿の人物。
帽子を深く被っていて顔が見えない。
その人物は、階段方向へ消えていく。
柴崎が叫ぶ。
「止まれ!!」
だが相手は振り返らない。
榊の目が細くなる。
そして小さく呟いた。
「……まだいるな」




