第105話 【送信】
十二月下旬。
休日。
朝。
高梨は自宅の机に座っていた。
窓の外は曇り空。
静かだった。
机の上にはノートパソコン。
そして封筒。
何度も開いた。
何度も閉じた。
資料の順番も覚えている。
訪問実績。
会議資料。
勤務表。
自分のメモ。
全部見慣れた。
だからこそ。
決断できずにいた。
時計を見る。
午前九時。
何も特別な日ではない。
家族も外出している。
一人だった。
高梨は深く息を吐く。
そしてパソコンを開く。
検索画面。
以前保存したページを開く。
行政機関の公益通報相談窓口。
通報フォーム。
説明文を読む。
対象となる法令違反。
通報者保護。
調査について。
何度も読んだ内容だった。
それでも。
最後まで読む。
送信ボタンは遠かった。
高梨は画面を閉じる。
立ち上がる。
コーヒーを入れる。
また座る。
再び画面を開く。
そして思う。
本当にこれでいいのか。
施設長。
西田。
主任。
利用者。
家族。
たくさんの顔が浮かぶ。
嫌いな人はいなかった。
一人も。
だから迷う。
その時だった。
机の上のノートが目に入る。
以前書いたメモ。
自分自身へのメモ。
ページを開く。
そこには短い文章。
『満足と納得は違う』
高梨はしばらくその言葉を見つめる。
利用者は満足している。
家族も満足している。
職員もやりがいを感じている。
それは事実。
だが。
説明されていないこと。
曖昧な運用。
拡大解釈。
積み重なった例外。
それも事実だった。
高梨はキーボードへ手を置く。
ゆっくりと入力を始める。
事実だけを書く。
感情は入れない。
推測も入れない。
見たこと。
聞いたこと。
記録として残っていること。
それだけ。
文章は短かった。
むしろ短すぎるくらいだった。
一時間後。
入力は終わった。
画面の下。
送信ボタン。
高梨は見つめる。
数秒。
いや。
数分だったかもしれない。
やがて。
静かにクリックした。
それだけだった。
音もしない。
画面が切り替わる。
受付完了。
たったそれだけ。
世界は変わらない。
何も起きない。
部屋も静かだ。
だが。
高梨は椅子にもたれた。
長く息を吐く。
終わったのか。
始まったのか。
まだ分からない。
ただ。
自分がやるべきだと思ったことはやった。
それだけだった。
夕方。
住宅型施設。
西田は利用者家族へ説明をしていた。
いつもの業務。
いつもの笑顔。
いつもの施設。
まだ誰も知らない。
今日。
一つの通報が行政へ届いたことを。
そしてその通報が、
数か月後、
多くの人の運命を変えることを。
まだ誰も知らなかった。




