第103話 【退職者】
十二月。
高梨の最後の勤務日だった。
朝はいつもと変わらなかった。
申し送り。
処置。
記録。
利用者との会話。
全部同じだった。
違うのは。
今日で終わることだけだった。
昼過ぎ。
西田が声を掛ける。
「高梨さん」
「はい」
「最後なんだから定時で帰ってくださいよ」
高梨は笑う。
「そのつもりです」
「絶対ですよ」
「分かってます」
西田も笑った。
だが。
その笑顔は少し寂しそうだった。
夕方。
退勤前。
利用者の家族が高梨を呼び止めた。
「本当に辞めるんですね」
「はい」
「残念です」
高梨は頭を下げる。
家族は続けた。
「主人ね」
「はい」
「高梨さんが来ると安心するって言ってたんですよ」
高梨は言葉を失った。
看護師として。
それ以上の言葉はない。
「ありがとうございました」
家族はそう言って帰っていった。
ロッカー室。
私物は少なかった。
名札。
ボールペン。
ノート。
それだけだ。
ロッカーを閉める。
施設で過ごした時間が終わった。
玄関。
施設長が待っていた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
二人は頭を下げる。
しばらく沈黙。
やがて施設長が言った。
「今でも」
高梨は顔を上げる。
「あなたは間違っていないと思っています」
高梨は少し驚いた。
施設長は続ける。
「でも私は残ります」
「はい」
「利用者も職員もいますから」
高梨は頷く。
それも理解できた。
どちらも間違いではない。
ただ。
選んだ道が違うだけだ。
施設を出る。
冬の空気が冷たい。
駐車場へ向かう途中。
高梨は振り返った。
明かりのついた建物。
利用者が暮らしている場所。
職員が働いている場所。
嫌いになれなかった。
最後まで。
だからこそ苦しかった。
車へ乗り込む。
エンジンはかけない。
しばらく沈黙。
そして助手席の封筒を見る。
中には資料。
訪問実績。
勤務記録。
会議資料。
自分で集めたものだった。
高梨は封筒を見つめる。
施設を辞めた。
もう職員ではない。
だから終わりにすることもできる。
見なかったことにもできる。
だが。
できなかった。
ゆっくりとスマートフォンを取り出す。
画面には保存したままの連絡先。
公益通報相談窓口。
まだ電話はしない。
指も動かない。
ただ。
消すこともしなかった。
高梨は小さく息を吐く。
自分がこれから何をするのか。
まだ決め切れていない。
だが。
考える時間はできた。
それだけは確かだった。




