第102話 【最後の勤務】
十一月末。
高梨の退職日が近付いていた。
残り勤務。
あと三日。
施設はいつも通りだった。
利用者は笑う。
家族も来る。
職員も働く。
何も変わらない。
それが少し寂しかった。
朝。
高梨は佐伯が使っていた部屋の前を通る。
今は別の利用者が入居している。
時間は進んでいる。
自分が辞めても。
施設は続く。
それが現実だった。
昼休み。
西田が隣へ座る。
しばらく無言。
やがて西田が言った。
「まだ辞めるの反対ですよ」
高梨は笑った。
「知ってます」
「本当に」
西田は続ける。
「もったいないです」
高梨は窓の外を見る。
「西田さん」
「はい」
「この施設好きですよね」
「好きです」
即答だった。
迷いがない。
高梨は頷く。
それが西田らしかった。
「辞めないでほしい利用者さんたくさんいますよ」
高梨は少しだけ笑う。
「ありがとうございます」
それ以上は言わなかった。
夕方。
利用者の家族から声を掛けられる。
「辞めるって聞きました」
七十代の女性。
夫が入居している。
「はい」
「残念です」
高梨は頭を下げた。
「お世話になりました」
女性はそう言った。
そして少し考える。
「でも」
高梨が顔を上げる。
「看護師さんならどこでも働けるんでしょう?」
突然だった。
高梨は少し驚く。
女性は続ける。
「娘も看護師なんです」
なるほど。
「病院辞めても次があるって」
女性は笑う。
「羨ましいですよ」
高梨も少し笑った。
「そうかもしれませんね」
女性は知らない。
その言葉が、
今の高梨を支えていることを。
もし他の仕事だったら。
住宅ローンがあったら。
子どもの学費があったら。
同じ決断ができたか分からない。
夜。
宮本が掃除をしていた。
「あと三日ですね」
「そうですね」
宮本はモップを止める。
「後悔してます?」
高梨は少し考える。
長かった。
そして首を横に振る。
「まだ分かりません」
正直な答えだった。
後悔するかもしれない。
しないかもしれない。
未来は分からない。
ただ。
一つだけ分かることがある。
ここに残る選択はしなかった。
それだけだ。
同じ頃。
施設長室。
榊が最終報告書の確認をしていた。
机の上には契約書。
報告書。
面談記録。
退職届の写し。
依頼内容。
対象者への対応支援。
結果。
自主退職。
依頼は完了だった。
施設長は書類を閉じる。
「終わりましたね」
榊は頷いた。
「ええ」
短い返事。
施設長は窓の外を見る。
なぜだろう。
達成感がない。
利用者は守られた。
施設も守られた。
職員も守られた。
理屈ではそうなる。
それなのに。
何か大切なものを失った気がしていた。
榊は黙って席を立つ。
仕事は終わった。
いつも通り。
それだけだった。
だが。
施設を出る直前。
玄関の向こうで、
高梨が利用者と話している姿が見えた。
榊は立ち止まらない。
振り返らない。
そのまま外へ出る。
冬の風が吹いていた。
依頼は終わった。
だが。
本当に終わるのは、
まだ少し先の話だった。




