第101話 【退職願】
施設長室。
夕方。
窓の外はもう暗かった。
高梨は椅子に座っている。
向かいには施設長。
机の上には一枚の紙。
退職願。
施設長は黙っていた。
高梨も黙っている。
しばらく沈黙が続いた。
やがて施設長が口を開く。
「本当に辞めるんですか」
高梨は頷いた。
「はい」
「まだ間に合います」
高梨は小さく笑った。
「施設長らしいですね」
施設長は笑わない。
本気だった。
「あなたは必要な人です」
「ありがとうございます」
「利用者さんも困ります」
「そうかもしれません」
「職員も困ります」
「そうですね」
高梨は否定しない。
全部事実だからだ。
だから苦しい。
施設長は続ける。
「だったら」
言葉が止まる。
施設長自身、
何を言えばいいのか分からなくなっていた。
高梨は静かに答える。
「私もここが嫌いじゃありません」
施設長が顔を上げる。
「むしろ好きです」
それは本心だった。
利用者。
家族。
職員。
西田。
全部好きだった。
「でも」
高梨は続ける。
「私は見ないふりができません」
施設長は目を閉じる。
その言葉が来ると思っていた。
そして。
何も言い返せなかった。
夜。
西田は食堂で記録をしていた。
そこへ高梨がやってくる。
「西田さん」
「ん?」
「少し時間あります?」
珍しかった。
二人で話すのは久しぶりだった。
ラウンジ。
利用者も家族もいない時間。
静かだった。
「辞めることにしました」
西田の手が止まる。
「え?」
それが最初の言葉だった。
「何で」
高梨は少し笑う。
「色々です」
「色々じゃ分からない」
珍しく西田の声が強い。
高梨は黙る。
西田も続ける。
「嫌なことされた?」
「違います」
「人間関係?」
「違います」
「給料?」
「違います」
西田は困った顔をする。
理解できなかった。
この施設には問題がない。
少なくとも、
前にいた場所よりずっと良い。
だから余計に。
理解できない。
「高梨さん」
西田が言う。
「俺、この施設好きなんですよ」
高梨は頷く。
「知ってます」
「救われたんです」
その言葉は重かった。
以前の施設を知っているものなら
なおさら。
西田は続ける。
「利用者も」
「……」
「家族も」
「……」
「職員も」
そして。
「俺も」
高梨は何も言えなかった。
言葉が見つからない。
その夜。
宮本はいつものように掃除をしていた。
高梨は退職願を出したことを話した。
宮本は驚かなかった。
「そうですか」
ただそれだけだった。
「止めないんですか」
高梨が聞く。
宮本は笑う。
「止めても辞めるでしょう」
「……」
「高梨さん」
モップを動かしながら言う。
「辞めるのは逃げじゃないですよ」
高梨は黙る。
宮本は続ける。
「残るのも正解」
「……」
「辞めるのも正解」
「……」
「どっちも大変です」
高梨は少し笑った。
その言葉が一番救われた。
ホテル。
榊のもとへメールが届く。
件名。
『退職願受理予定』
本文は短い。
対象者が自主退職を申し出ました。
榊は画面を見つめる。
依頼は終わる。
そのはずだった。
だが。
なぜだろう。
全く終わった気がしなかった。
むしろ。
何かが始まろうとしている気がした。




