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温泉から上がる頃には、身体の芯までじんわりと温まっていた。


 さっきまで戦闘の緊張で強張っていた肩や背中も、湯に浸かっている間にすっかり力が抜けている。


 湯気の向こうに見える岩壁を眺めていると、ここがダンジョンの中だという感覚さえ薄れていく。


 聞こえてくるのは、湯が流れる音と、時折響くヴォルホエールの低い呼吸音。


 その巨大な身体が湯の中で動くたび、水面がゆっくりと揺れる。


 最初はあれだけ驚いたのに、今ではその音さえ、この温泉には昔からあったもののように思えてきた。


「……なんか、変な感じ」


 あたしはそう呟きながら、脱衣所へ戻った。


 身体を拭いて、さっきまで着ていたローブを探す。


 棚の上。


 籠の中。


 脱衣所の隅。


 どこにもない。


「……あれ?」


 少し慌てて周囲を見回す。

 確か、脱ぐときにはここに置いたはずだ。


 ローブだけじゃない。いつも腰につけていたメリケンサックも見当たらない。


「あれ…?」


 もう一度、棚の中を確認する。


 ない。


 床にも落ちていない。


「ない!?なんでぇ!?」

「どうしたの?」


 隣で髪を拭いていたミノリが振り返る。


「あたしの服と武器…」


「ああ、それならたぶんこっち」


 ミノリが指差した先。そこには、見覚えのない木製の籠が二つ置かれていた。


 中を覗き込む。


「……え?」


 入っていたのは、ローブではなかった。


 綺麗に畳まれた浴衣。


 その下には、新しい下着まで用意されている。


 浴衣は温泉街で旅館に泊まったときに出てきそうな、ごく普通のものだった。


 派手すぎず、かといって地味すぎもしない。


 帯まできちんと揃えられている。


 その横には、新品らしい下着が袋に入った状態で置かれていた。


「……これ、誰が?」


「ケットシーだよ?たぶん」


「……いつの間に?」


「温泉に行く前じゃないかな」


 ミノリは当然のことのように答える。


「あたしたちも最初、同じことされたよ」

「……マジ?」


 あたしは浴衣を手に取った。布地は柔らかく、まだほのかに温かい。まるで、出てくる時間まで計算して用意していたみたいだった。


 その瞬間、温泉へ来る前の薬師堂の言葉が頭に浮かぶ。


『今日は客扱い』


 ……そういうことか。


 あたしが着てきたローブや装備を、そのまま着させて帰すつもりじゃなかったらしい。


 少なくとも、今日くらいは戦闘のことを忘れてほしい。


 そんな意図が、言葉にされなくても伝わってくる。


 あたしは自分の手を見る。メリケンサックがない。


 いつもなら腰や手元にあるはずの武器がないだけで、妙に落ち着かない。


 けれど、不思議と不安にはならなかった。


 むしろ、今だけは持っていなくてもいいのだと思えた。


「……なんか」


「ん?」


「完全に旅館じゃん」


「でしょ?」


 ミノリが笑った。


「仁くん、こういうところ妙に気が利くんだよ」


「……意外」


「私も最初そう思った」


 二人で浴衣に着替える。


 袖を通した瞬間、戦闘装備とはまったく違う感覚に戸惑った。


 身体が軽い。というより、何かを身につけていないことが軽く感じる。


 メリケンサックもない。


 ローブもない。


 冒険者としての装備もない。


 ただの浴衣姿。


 鏡代わりになりそうな磨かれた金属板に自分の姿を映す。


「……あたし、変じゃない?」

「似合ってるよ」


「そう?」


 ミノリは自分の浴衣の帯を直しながら頷いた。


「なんか、温泉旅行に来たみたい」


「ダンジョンの55階層なのに?」


「そこは考えちゃダメ」


「……それもそうか」


 思わず笑ってしまう。


 脱衣所の扉を開ける。


 外へ出ると、先ほどまでの熱気が少しずつ引いていく。


 温泉から離れるにつれて、夜の空気が肌に触れた。


 ダンジョンの中だというのに、ここには不思議な夜がある。


 拠点の周囲には小さな明かりが灯されていた。


 木造の家々。


 畑。


 倉庫。


 道の脇に並ぶランタン。


 その間をケットシーたちが行き交い、どこかから夕飯の匂いが漂ってくる。


 湯上がりの身体には、その匂いがやけに美味しそうに感じられた。


「……いい匂い」


「でしょ?」


 ミノリが笑う。


「仁くん、もう作り始めてると思う」


「何作ってるんだろ」


「秘密って言ってたよ」


「本人が?」


「うん」


「……気になる」


 自然と歩く速度が少しだけ速くなる。


 けれど、そこであたしは足を止めた。


 温泉の建物の脇。


 木箱の上に、見覚えのあるものが置かれていた。


「あ」


 あたしのローブ。


 その横にはメリケンサック。


 どちらも綺麗に拭かれ、乾かされている。


 メリケンサックには薄く油まで塗られていた。


「……」


 武器を大切に扱ってくれている。


 ただ預かっただけじゃない。


 使った後の状態まで確認している。


 その瞬間、遠くから声が飛んできた。


「朱音ちゃーん!」


 振り返る。


 ミノリが手を振っていた。


「早く行こ! ご飯できちゃうよ!」


「うん!」


 あたしはローブとメリケンサックを一度だけ振り返った。


 そして、今はそのまま置いておくことにした。


 武器がそこにある。


 戻ればいつでも手に取れる。


 そう分かっているだけで十分だった。


 今はそれよりも温かい飯が待っている。


 それだけで、少しだけ足取りが軽くなった。


 拠点の中央へ向かう道を歩いていると、夜の冷たい空気の中に、肉を焼く香ばしい匂いが混じってくる。


 ケットシーたちの声も聞こえる。


 鍋をかき混ぜる音。


 食器を並べる音。


 誰かが笑う声。


 どれも、ダンジョンの中では聞くはずのない音だった。


 今のあたしには、その全部が妙に心地よかった。


 ミノリと並んで歩きながら、あたしは小さく息を吐く。


「……今日だけは」


「ん?」


「本当に何も考えなくていいのかな」


 ミノリは少しだけ考えてから、笑った。


「いいんじゃない?」


「……そっか」


「仁くんも、そう言ってたし」


 その言葉を聞いて、あたしは前を向く。


 少し先。


 明かりの下で、薬師堂がケットシーたちと一緒に料理をしている姿が見えた。


 袖をまくり、鍋を覗き込みながら何かを話している。


 こちらにはまだ気づいていない。


 その横顔は、いつもの気だるそうな顔だった。


 あたしのために浴衣を用意して、武器を手入れして、飯まで作っている。


 それをわざわざ恩着せがましく言うつもりもないらしい。


「……変な人だね」


「うん?」


「薬師堂…さん」


「ああ」


 ミノリが笑う。


「変だけど、優しいよ」


「……うん」


 今度は否定しなかった。そのまま二人で、明かりのある場所へ歩いていった。




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