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「とりあえず温泉入ってきな〜」
薬師堂は、まるで近所の銭湯でも勧めるような軽い調子で言う。
「……温泉?」
「そうそう。ちゃんとあるんだよ、ここ」
「いや、ダンジョンの中に温泉があること自体がおかしいんだけど……」
「細かいことは気にしない気にしない」
薬師堂は笑いながら、今日回収した魔物の肉をケットシーたちへ渡していく。
「オレはこっちで飯作っとくからさ」
「え?」
「初めての深層で、いきなりあんな目に遭ったんだし。今日はもう頑張らなくていいよ?」
薬師堂はそう言って、あたしの顔をちらっと見る。
その視線は一瞬だった。
けれど、さっきまで笑っていた表情が、ほんの少しだけ真面目になっていた。
「風呂入って、飯食って、寝る。それでオッケー」
「…でも、あたしも何か手伝ったほうが…」
「ダメダメ」
「なんで!?」
「新人にいきなり厨房仕事させるほど、うちブラックじゃないから〜」
「……ぷっ」
思わず吹き出す。
「何それ?」
「でしょ?」
薬師堂も笑う。
「だから今日は客扱い。朱音ちゃんは歓迎される側ね」
「……客、か」
「うん」
薬師堂はケットシーから受け取った肉を確認しながら、軽く手を振る。
「遠慮しなくていいよ。帰る方法とか、この先どうするとか、そういう面倒な話は明日考えればいいから」
「……」
「今日は疲れてる顔してるしねぇ」
「そんな顔してる?」
「してるしてる」
「マジ?」
「マジマジ。ちなみにオレ、こういうの見るの得意なんだよね」
「斥候だから?」
「それもあるし、オレが人の顔色見るタイプだから」
「……意外」
「ひどくない?」
薬師堂が肩をすくめる。
「オレ、結構優しいんだよ?」
「自分で言う?」
「言わないと伝わらないこともあるからねぇ」
そう言って、薬師堂は笑った。
「ほら。行っておいで」
「……うん」
「温泉、熱いから気をつけてね〜」
「…子どもじゃないんだけど」
「知ってる知ってる」
薬師堂が手をひらひらさせる。
「じゃ、いってらっしゃい。戻ってきたら飯できてるから」
「……何作るの?」
「秘密〜」
「えー」
「歓迎祭りだから、楽しみにしててよ」
その言い方があまりにも自然であたしは少しだけ笑ってしまった。
「……じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃ〜い」
ミノリが隣から手を上げる。
「朱音ちゃん、行こ!」
「うん!」
二人で歩き出すと後ろで薬師堂は小さく息を吐いた。
「……さてぇ」
そして、いつもの気だるい笑顔に戻る。
「せっかくの新人歓迎会だし、張り切りますかぁ」
「仁くん、何からやるニャ?」
「まず肉の下処理かなぁ。あと、朱音ちゃん辛いの苦手そうだから、香辛料は控えめで〜」
「分かったニャ!」
薬師堂は楽しそうに袖をまくった。
◆◇◆◇◆
ミノリに案内されて、あたしは拠点の奥へと歩いていく。
足元には、何度も踏み固められた土の道が続いていた。ところどころに小さな石が埋まり、靴底が触れるたび、乾いた音を立てる。拠点の中心から離れるにつれて、ケットシーたちの話し声や、畑仕事に使う道具の音が少しずつ遠ざかっていった。
「こっちだよ、朱音ちゃん」
ミノリは振り返りながら手招きする。夕暮れのような淡い光がその横顔を照らし、長い髪の先が歩くたびに揺れていた。
「温泉って、どんな感じなの?」
「んー……入ってみれば分かる!」
「説明になってないじゃん」
「えへへ」
ミノリは楽しそうに笑いながら、先を歩いていく。
道の両脇には、低い木の柵で囲まれた畑が広がっていた。葉の大きな野菜が風に揺れ、土の匂いに混じって、どこか甘い果実のような香りが漂っている。遠くではケットシーが何匹か集まり、収穫した作物を籠に詰めていた。こちらに気づくと、手を振る者もいる。
あたしが軽く手を振り返すと、ミノリが満足そうに頷いた。
「みんな、温泉好きなんだよ」
「ケットシーも入るの?」
「うん。小さい子たちは、よく泳いでる」
「泳ぐって……温泉で?」
「泳ぐよ?」
想像すると、湯船の中を猫みたいな生き物がぱちゃぱちゃ泳いでいる光景が浮かんだ。あまりに場違いで、あたしは思わず苦笑する。
やがて木造の建物が見えてきた。
建物は周囲の家よりも少し大きく、太い柱と濃い色の板壁で組まれていた。屋根の隙間からは白い湯気が絶えず立ちのぼり、風に押されてゆっくりと拠点の奥へ流れている。軒先から落ちた水滴が地面に小さな染みを作り、そこから細い水の筋が石の間を縫うように伸びていた。
その周囲には白い湯気が漂っている。鼻先をくすぐる硫黄のような匂いと、湿った木の香りが混じっていた。湯気の向こうからは、絶え間なく湯が流れ落ちる音が聞こえてくる。近づくほどに空気は暖かくなり、冷えていた指先までじわじわと熱が戻ってきた。
「……本当に温泉だ」
「でしょ?」
「いや、そうじゃなくて……」
あたしは周囲を見回す。
ここはダンジョンの55階層。
しかも、地上ではまだ誰も到達していないはずの場所。
なのに。
畑があって。
家があって。
ケットシーが暮らしていて。
そして温泉まである。
建物の脇には薪がきれいに積まれ、壁には木製の桶や柄杓が並べられていた。誰かが毎日使い、掃除し、手入れしている場所なのだと分かる。ダンジョンの中にあるはずなのに、そこだけは人の暮らしの匂いが濃かった。
「……何なの、ここ」
「仁くんの拠点!」
「答えになってない!」
「えー?」
ミノリは楽しそうに笑った。
その笑い声が湯気の向こうへ吸い込まれていく。あたしは呆れながらも、建物の中へ続く木の扉に手をかけた。扉は湿気を含んで少し重く、開けると、さらに濃い熱気が顔へ押し寄せてくる。
脱衣所には木製の棚が並び、籠がいくつも置かれていた。壁には簡素な明かりが灯り、湯気で曇った窓の向こうに、ぼんやりと浴場の影が見える。床板は濡れていたが、足を置くと不思議なくらい温かかった。
ミノリは慣れた様子で服を脱ぎ、先に温泉へ入っていく。
「あったか~い!」
浴場へ続く戸を開けると、白い湯気が一気に流れ出した。奥には大きな岩風呂があり、湯が縁から静かにあふれている。壁際には小さな滝のような流れが作られていて、そこから落ちた湯が水面を細かく揺らしていた。
「……本当に普通に温泉なんだ」
あたしも恐る恐る湯に足を入れる。
じんわりとした熱が足先からふくらはぎへ広がり、冷えていた身体をゆっくりとほどいていく。肌を撫でる湯は柔らかく、肩まで浸かると、全身がふわりと浮かぶようだった。湯の底には丸みを帯びた石が敷かれていて、足の裏に触れる感触が心地いい。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「気持ちいい……」
耳元では湯のさざめきが静かに響き、立ちのぼる湯気が頬をしっとり濡らしていく。熱いはずなのに息苦しさはなく、胸の奥まで温かくなるようだった。肩に残っていた力が抜け、張りつめていた背中が湯の中へ沈んでいく。
目を閉じると、遠くで水が流れる音がした。木の壁が熱気を含んで軋み、どこかで桶が触れ合う小さな音がする。戦闘の最中には聞こえなかった、穏やかな音ばかりだった。
「でしょ?」
「……これ、反則じゃない?」
「何が?」
「ダンジョン攻略してる途中に温泉とか……」
「あはは!」
ミノリが笑うと、水面が小さく揺れた。
「最初は私もそう思ったよ」
「最初?」
「うん」
ミノリは湯船に肩まで浸かりながら、少しだけ遠くを見る。
その視線の先には、湯気に霞んだ岩壁があった。壁の隙間から細い水が流れ、明かりを受けて銀色に光っている。ミノリはしばらくその流れを眺めてから、ゆっくり口を開いた。
「私と幻魔もね、朱音ちゃんと同じなんだ」
「……え?」
「あたしたちも、転移魔法の罠に引っかかってここに来たの」
「……!」
思わずミノリを見る。
湯気の向こうにあるその表情は、さっきまでの明るさとは少し違っていた。笑っているようにも見えるけれど、その奥には、長い時間をかけて飲み込んできた不安が残っているようだった。
「じゃあ……」
「うん。あたしも幻魔も、ここに来るつもりなんてなかった」
「……幻魔も?」
「うん」
ミノリは頷く。
「気づいたら知らない階層に飛ばされてて。最初は戻ろうとしたんだけど……」
湯の表面に浮かんだ水滴が、ミノリの肩から腕へ流れていく。彼女はそれを気にする様子もなく、遠い記憶を探るように目を細めた。
「戻れなかった?」
「そう」
その言葉に、あたしの胸が少しだけ重くなる。
温泉の熱で身体は温まっているのに、胸の奥だけが冷えたようだった。帰る方法がない。どこへ続いているのかも分からない。そんな場所に突然放り出されたときの心細さは、あたしにも覚えがある。
「……あたしと同じだ」
「うん」
ミノリは笑わなかった。
湯気が二人の間をゆっくり流れていく。さっきまで近くに感じていた浴場の明かりも、白い膜の向こうでぼんやりと滲んでいた。
「だから朱音ちゃんが不安なのも、ちょっと分かるよ」
「……」
「突然知らない場所に放り出されて、帰り道も分からなくて」
「……うん」
「しかも、見たことない魔物ばっかり」
「そう、それ!」
思わず声が大きくなる。
声が浴場の壁に反響し、湯気の向こうへ広がっていった。
「何なのあの階層! 魔物デカすぎるし、数も多いし! あたしなんて最初、普通に死ぬかと思ったんだから!」
思い出しただけで、背中に冷たい汗が浮かぶ。巨大な足音。地面を揺らす咆哮。視界を埋め尽くす魔物の群れ。あのときは逃げることしか考えられなかった。
「分かる分かる」
「分かるんだ……」
「私も最初は怖かったよ」
ミノリは苦笑する。
「幻魔もいたから何とかなったけどね」
「……二人で?」
「うん」
「じゃあ、仁先輩は?」
「私たちがここに来た後に会ったの」
「そっか……」
少しだけ意外だった。
仁先輩が最初からこの場所を作ったわけじゃない。
ミノリと幻魔も、ここに流れ着いた側だった。
そう考えると、拠点の景色が少し違って見えた。整えられた畑も、並んだ家も、温泉も、最初からそこにあったものではないのかもしれない。誰かが迷い、立ち止まり、それでも生きるために少しずつ手を加えてきた結果なのだ。
「……なんか」
「ん?」
「ちょっと安心した」
「え?」
「あたしだけじゃないんだなって」
ミノリが優しく笑う。
その笑顔は、さっきまでのからかうような笑い方とは違っていた。湯気の中で柔らかくほどけるような、静かな笑顔だった。
「うん。だから大丈夫」
「何が?」
「帰るまで、一緒に頑張ろう?」
「……」
その言葉に、あたしは少しだけ目を丸くする。
帰れるかどうかも分からない。いつになるのかも分からない。それでも、ひとりではないと言ってくれる人がいる。その事実が、冷えていた胸の奥に小さな火を灯した。
「……うん」
その瞬間。
湯船の向こう側から、
――ザバァッ!
巨大な何かが水面から顔を出した。
大量の湯が弾け、熱いしぶきが頬にかかる。
水面が大きく揺れ、岩風呂の縁から湯が一斉にあふれ出した。低く重い波音が浴場いっぱいに響き、足元の石まで震えたように感じる。
「……え?」
あたしは固まった。
湯気の向こうに、巨大な頭が浮かんでいる。
丸い目。
濡れた皮膚。
そして、クジラのような身体。
その巨体が身じろぎするたび、湯船全体がゆっくりと押し広げられていく。
水面は相手の背中に押されて高く盛り上がり、岩風呂の端から細い滝になって流れ落ちた。
巨大なヴォルホエールは、温泉の水面をほとんど埋め尽くしていた。濡れた皮膚が淡い明かりをぬらりと反射し、近くにいるだけで圧倒されるような存在感を放っている。鼻先からは白い湯気が流れ、丸い目がゆっくりとこちらを向いた。
「ミノリ」
「ん?どーしたの?」
「あれ何?」
「ヴォルホエール」
「……は?」
「ヴォルホエールだよ?」
「いや名前じゃなくて!」
巨大なヴォルホエールが、温泉の奥でのんびりと泳いでいる。尾びれが動くたびに湯がうねり、熱気を含んだ水がゆっくりとこちらへ押し寄せてくる。
波があたしの胸元に届き、身体がふわりと揺れた。
「なんで温泉にクジラがいるの!?」
「温泉に住んでるから?」
「それ説明になってないって!」
ミノリが笑い出す。
その声に反応したのか、ヴォルホエールがゆっくりと瞬きをした。大きな目がこちらを見ているのに、敵意はまったく感じられない。ただ、いつもの場所でいつものように湯に浸かっているだけ、という顔をしていた。
「大丈夫だよ。ヴォルホエールは人を襲わないから」
「いや、そういう問題じゃなくて!」
あたしが指を震わせる。
「で、でか……」
「初めて見たとき私も驚いたよ」
「そりゃ驚くでしょ!」
ヴォルホエールはそんなあたしたちを気にする様子もなく、ゆっくりと身体を傾けた。
巨体が湯の中へ沈み、次の瞬間、鼻先だけを水面から出す。
「ぐぅ?」
と水面に息を吐いた。
白い湯気の中へ、温かな息が大きく噴き上がる。湿った低い呼吸音が浴場に響き、その振動が湯を通して身体にまで伝わってきた。噴き上がった湯気が天井へ届き、しばらくそこに留まってから、ゆっくりと降りてくる。
「……なんか可愛いかも」
「でしょ?」
ミノリが笑う。
「慣れると可愛いよ」
「いや、慣れるかなぁ……」
あたしは苦笑しながら、もう一度ヴォルホエールを見る。
巨大なのに、不思議と怖くない。
その身体から伝わる振動も、最初は驚いたけれど、しばらくすると温泉の流れる音に混じってしまった。
ヴォルホエールが尾びれを動かすたびに湯が揺れ、その波が足元を撫でていく。
まるで大きな生き物が、ここにいることを知らせるために静かに呼吸しているようだった。
むしろ、この場所では当たり前の存在みたいにのんびりしている。湯気と温泉の匂いをまとったその姿からは、獣の荒々しさよりも、深い水底のような穏やかさが感じられた。
「……変な場所」
「うん」
ミノリは湯船の縁に背を預け、目を細めた。湯気の向こうでは、ヴォルホエールがゆっくりと水面を回っている。壁に反射した明かりがその背中を滑り、波紋の上で細かく揺れていた。
「でも……」
湯気の向こうを見る。
聞こえてくるケットシーたちの声。
遠くから響く幻魔の声。
温泉の外では、誰かが桶を運んでいるらしい。木の床を踏む足音が近づいて、また遠ざかっていく。
そして、たぶん今頃は薬師堂が夕飯を作っている。拠点のどこかでは、鍋が煮立ち、食器が並べられ、帰りを待つ人たちの気配が漂っているのだろう。
「……悪くないかも」
「ふふっ」
「何?」
「朱音ちゃん、ちょっと笑った」
「……!」
あたしは慌てて顔を背ける。
頬が熱いのは、温泉のせいだけではなかった。
「笑ってないし」
「笑ってたよ?」
「笑ってない!」
「笑ってた~」
「もう!」
二人の笑い声が、温泉の湯気の中に溶けていった。
今日くらいはあの子が何も考えずに笑っていられる飯を作ってやろう。
そんなことを、わざわざ口にするつもりはなかった。




