第9話 スキル「ダメ人間」
「……さあ、お集まりください。残りかすの方々」
宰相バルトの、氷のように冷ややかな声が広間に響いた。
兵士たちの荒々しい手によって、ランクD以下の生徒たちと、意識を取り戻した山田先生が玉座の前に突き飛ばされる。
ガシャリ、と甲冑の音が鳴るたびに、彼らの肩がびくりと跳ねた。
「効率的に処分しましょう」
宰相バルトは効率を優先して人を殺すようだ。
そこにあるのは、先ほどまでいた「選ばれし勇者」たちの冷静さとは正反対の、泥のような雰囲気だった。
いつも前の席にいた佐藤や、いつも田中の後ろでヘラヘラしていた石川。彼らの顔からは血の気が引き、土気色に染まっている。
「……ふざけるな。いい加減にしろ!」
その中で唯一、声を張り上げたのは山田先生だった。
鼻水を垂らし、よだれで汚れたシャツの襟を正しながら、彼は震える指で俺を指差す。
「私は教育者だぞ。頭がいいんだぞ。こんなくだらん格付けなど認めん。ランクFだろうが何だろうが、お遊びだ。ランクだの廃棄だの、そんな非科学的な基準で……」
喚きちらす声。だが、その響きにはかつての勢いはない。
叫べば叫ぶほど、周囲の兵士たちの冷酷な視線が彼を削り取っていく。
彼を囲む槍の穂先が、わずかに震える彼の喉元に突きつけられていた。
(……最悪だ)
俺は玉座の肘掛けを、指が白くなるほど強く握りしめていた。
目の前に並ぶのは、かつての「同類」たち。
この世界において、底辺であることは死に直結する。
(どうにかして、この場をやり過ごさなければならない)
だが、口を開けば「王命」が発動する。
もし、今の俺のパニックが変換されて、『ゴミを掃除せよ』なんて命令に変わったら――。
想像しただけで、背筋に冷たいものが走った。
俺は反射的に、強く目を閉じた。
視界を遮断し、意識を内側へ潜り込ませる。
(……お願いだ。もう何も起きないでほしい)
「やめてほしいな」
【スキル「ダメ人間」が発動しました】
「……あー、もう無理。全部投げ出して、布団の中でずっと寝てたい」
ぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
結果は、何も起きなかった。
周囲の空気は変わらず、兵士たちの冷徹な視線も、山田先生の絶叫も続いている。
ただ、ほんのわずかに、心地よい微風が吹いた程度にしか感じられなかった。
(……そうか。間違いない。安全だ。誰にも聞こえていないし、影響もない)
俺は確信した。このスキルは、俺を「背景」にするスキルだ。
なら、このまま「ダメ人間」として、この場が自然に解消されるのを待とう。
俺はさらに深く、ダメな思考を加速させた。
「もうやめよう」
【スキル「ダメ人間」が発動しました】
「……自分のこともどうでもいいや。考えるの疲れた。もう、全部どうでもいいよ……」
【スキル「ダメ人間」がランクアップしました:ランクB→A】
(え? 何か聞こえた?)
とりあえず早口のメッセージが聞こえたものの、何も起きなかった。
だが、その瞬間。
「……ふぅ」
【ダメ人間が感染しました】
不意に、山田先生の口から、深い溜息が漏れた。
激しく喚き散らしていたはずの彼が、急に、肺の中の空気をすべて出し切ったかのように、がっくりと肩を落とした。
「……あー。もういいや」
山田先生が、ぽつりと呟いた。
その瞳から、怒りも、虚勢も、生存本能さえもが消え失せていた。
彼はそのまま、泥のような心地よさに身を任せるように、ゆっくりと膝をついた。
「私はダメだ……もうダメだ……。いいよ、もう。誰がなんと言おうと、私はただの……ダメな人間なんだ……」
壊れたレコードのように、けれど至福に満ちた顔で呟き始めた。
(え? 山田先生……?)
俺は恐る恐る周囲を見まわした。
すると、奇妙な光景が広がっていた。
「……おい、どうした」
兵士の一人が、槍を構えたまま、不思議そうに宙を見ている。
「……なんか、槍を構えてるのが、しんどくなってきたな」
(……え? 何が起きてる? 先生だけじゃない。兵士まで……?)
彼の目や表情から、先ほどまで持っていたはずの「殺意」や「緊張感」がこぼれ落ちていく。
気づけば、隣の兵士が、そしてその隣の兵士が、まるでドミノ倒しのように、どろどろに溶けた脱力感に飲み込まれていく。
この無気力は、もはや俺一人の問題ではなく、周囲を巻き込む疫病へと進化していた。
(……まさか。もしかして、これ……)
【ダメ人間が伝染しました】
(伝染してる……!?)
「そうだな……。そもそも、なんで俺たち、こんなところで立たされてるんだっけ」
取り囲んでいた兵士たちが、一人、また一人と、構えを崩し始めた。
彼らの顔からは、冷酷な処刑人の面影が消え、ただの「仕事をしたくない社畜」のような、虚ろで穏やかな表情が浮かんでいる。
その伝染は、ついに頂点へと達した。
「……ふむ」
【ダメ人間が伝染しました】
宰相バルトが、眼鏡を指で押し上げた。
いつもなら、効率的に「廃棄」の手続きを進めるはずの彼が、ひどく面倒くさそうに眉をひそめている。
「……考え直しました。今ここでこの者たちを処刑するのは、あまりに面倒です」
(え、急に?)
「死体を集め、処理し、報告書を作成し、さらにその分の人員を補充する……。考えただけで、気が遠くなるほどの事務作業が待っている。……ああ、面倒だ。耐え難い」
宰相バルトという男が、さきほどまで重視していた「効率」よりも「面倒くささ」を優先するようになった瞬間だった。
彼は、深い溜息をつきながら、投げやりな口調で指示を出した。
「……もういい。当面は『経過観察』ということで、適当に別棟に放り込んでおけ。死なない程度に餌を与えておけば、それで十分でしょう」
「はーい」
兵士たちが、やる気のない返事をしながら、生徒たちをズルズルと引きずり始めた。
処刑されるはずだった佐藤や石川たちが、なぜか心地よい脱力感に包まれながら、眠そうに連行されていく。
最後尾では、山田先生が「布団……布団がいい……」と呟きながら、幸せそうに運ばれていた。
広間に、かつてないほどの「だらしなさ」が充満していた。
(……助かった。本当に、なんとなく助かった)
俺は玉座の上で、緊張のあまり限界まで強張っていた肩の力を抜き、深く、深くため息をついた。
誰も死なず、誰も傷つかず。
ただ、全員が「どうでもいい」という心地よい虚脱感に包まれて、場が収まったのだ。
変だが、ハッピーエンドと言えなくもない。いや、王命スキルよりもこちらで行こう。
みんなダメになろう。今の俺にはそれが最高に心地よかった。
そこへ、広間の大きな扉が、静かに開いた。
「陛下。お食事の用意が整いました。本日のお部屋へご案内いたします」
白衣を纏った侍女が、恭しく一礼して告げる。
その声さえも、どこか眠たげに聞こえるのであった。




