第8話 瞑想する王
「ひゃはははは! 見ろよあの顔! 最高に笑える!!」
広間に、下品な笑い声が響き渡った。
自爆の勇者――ランクAの称号を得た田中が、腹を抱えてのたうち回っている。
彼の視線の先には、鎖に繋がれ、泥にまみれて聖域へと引きずられていく「俺の身体」があった。
かつての教室で、俺が味わわされていた屈辱。
それが今、そのままの形で、あるいはそれ以上の残酷さで、俺の身体(中身は元王)に返っている。
田中にとって、それは最高の娯楽のようだった。
だが、その笑い声を切り裂くように、重苦しい空気が場を支配した。
「……っ」
小さな、押し殺したような啜り泣き。
ふと視線を向けると、そこには暗黒の聖女、月城陽菜がうずくまっていた。
彼女の肩が激しく震えている。
そして、彼女の足元から、どろりと濃厚な、インクのような黒い魔力が溢れ出していた。
それは静かに、けれど確実に周囲の温度を奪い、石畳を侵食していく。
絶望と悲しみが形を成したような、禍々《まがまが》しい波動だった。
「――魔力反応! 聖女が暴走しかけているぞ!」
兵士たちが即座に反応した。
ガチン! と鋭い金属音が響き、月城を囲むように十数本の槍が突き出される。
彼女の細い首筋に、冷徹な鋼の刃が突きつけられた。
「動くな! 抵抗すれば即座に排除する!」
兵士たちの怒声が飛ぶ。
月城はそれに気づかない。ただ、遠ざかっていく「俺の身体」を、泣きそうな、それでいて酷く切なげな瞳で見つめていた。
その時だった。
「待ってください!!」
鋭い声が響き、一人の女生徒が兵士たちの間に割り込んだ。
委員長の西園寺唯だ。
彼女は震える足で、けれど真っ直ぐに俺――玉座の王へと向き直り、深く、深く頭を下げた。
「陛下! お慈悲を! お願いいたします、月城を処刑しないでください!!」
広間に、緊張が走る。
王女が不快そうに眉をひそめている。
宰相バルトが冷徹な眼差しで西園寺を見下ろした。
「……勇者は至高の存在。しかし、今の彼女の魔力は明確な敵意と不安定さを孕んでいる。排除も選択肢に」
宰相の言葉は、効率的な事務処理のように冷たかった。
だが、西園寺は諦めなかった。
彼女は顔を上げ、必死に言葉を紡ぐ。
「彼女は、……彼女は、ただ、心を痛めているだけなのです! 共に過ごした大切な友を、あのような無惨な姿にされたことが、耐えられないだけなのです!」
(……え?)
俺は玉座の上で、思考が停止した。
大切な友人?
今、この状況で、誰のことを指して?
まさか。
「彼女は、その、……小谷君のことを、誰よりも想っていました。今の彼女の乱れは、彼への深い情愛と、彼を救えなかった後悔によるものです。どうか……、どうか彼女の心に慈悲を!」
(……は?)
心臓が爆発しそうなほど跳ね上がった。
月城陽菜が、俺を?
あのミステリアスで、誰にも心を開かなかった月城さんが、投票数ゼロの俺を「想っていた」?
混乱で頭が真っ白になる。
だが、周囲の反応は違った。
「……なるほど。情愛による暴走ですか」
王女フランシーヌが、ふっと表情を緩めた。
彼女の瞳には、先ほどまでの冷酷さはなく、どこか甘美な好奇心が宿っている。
「面白い。愛ゆえに理性を失い、闇に飲まれる……。なんと素敵な。父上、このような情熱的な魂を持つ者は、我が国にとっても興味深い蒐集品になるかと存じます」
宰相バルトも、眼鏡を押し上げながら同意した。
「左様でございますな。ランクA、B、Cの個体は、その精神状態に関わらず、国家的な戦略資源として丁重に扱うべきでしょう」
宰相は、淡々と指示を出した。
「メイドたちよ。ランクA、B、Cの勇者諸君を、用意した客室へ案内せよ。十分な休息と、精神的なケアを施すように」
「はっ!」
白衣を着たメイドたちが、畏まって彼らに歩み寄る。
田中は、まだニヤニヤとした笑みを浮かべながら、勝ち誇った足取りで案内された。
西園寺も、安堵で崩れ落ちそうになりながら、月城の肩を抱き寄せ、共に退室していく。
月城は最後まで、こちら――ではなく、聖域へと消えた「俺の身体」の方を振り返っていた。
やがて、広間には俺と、宰相、王女、そして少数の兵士だけが残された。
「……さて、陛下」
宰相バルトが、静かに俺の前に跪いた。
その声から、先ほどの配慮は消え、純然たる「処理」のトーンに戻っている。
「今回はランクAが二人、ランクBが二人。ランクCもまずます。非常に有意義な召喚となりました。……して、それ以外の、価値なき残滓たちは、いかがいたしましょうか」
(……っ!)
心臓が、ドクンと跳ねた。
「価値なき残滓」。
それは、ランクD以下のクラスメイトたち。そして、気絶している山田先生のことを指しているようだ。
この男は、迷いなく彼らを「廃棄」しようとしている。
ここで口を開けば、またあのスキル「王命」が発動する。
ここまでの王命変換で知る限り、結果は思い通りにならない。
もし、変換されて『すべて斬り捨てよ』なんて言葉が出たら――。
俺は反射的に、強く、強く目を閉じた。
視界を遮断し、意識を内側へ潜り込ませる。
(彼らには何も……しないでほしい。廃棄とか、絶対に、そんなこと……!)
喉の奥で、消え入りそうな、震える声で呟いた。
「……しないで」
【スキル「ダメ人間」が発動しました】
「ああ、なんにも、したくなーい」
――静かだった。
雷鳴のような轟音も、空間を揺らす威圧感もない。
ただの、ひょろひょろとした、情けない高校生の独り言。
目を閉じれば何も起きなかった。
しかし、臣下たちの反応は予想を絶していた。
「……!」
王女が、感極まったように胸に手を当てた。
「……なんと。ここで、父上、いや、陛下は深い瞑想に入られました」
宰相バルトは、深く、深く、額を石畳に擦り付けた。
そしてささやく。
「左様でございます。存在と非存在のはざまにいらっしゃるようです。神聖な瞑想。答えを口に出さず、ただ心の中で慈悲を完結させる……。なんと深遠なる無の境地。我々凡夫には、その御心の深さを推し量ることすら叶いませんな」
(違う。ただ目を閉じて喋っただけなんだが)
内心でため息をつくが、口からは何も出ない。
俺はただ、震えながら目をつぶっていた。スキル「王命」が発動しないように。
けれど、彼らにとって、その震えさえも「神聖な瞑想による無の境地」に見えているようだった。あるいは何も見えていないのかもしれない。
(スキル「王命」がなくても崇めてくるのは同じようだ……)
広間に、居心地の悪い静寂が満ちていく。
俺は玉座の上で、絶望的なまでの勘違いの渦に飲み込まれながら、ただ、目を開けるタイミングをうかがうのだった。




