第10話 王妃の食卓
「陛下、お食事の用意が整っております」
案内役の侍女が、重厚な白銀の扉の前で深く頭を下げた。
扉の向こうから漂ってくるのは、食欲をそそる芳醇な香りと、それとは対照的な、肌を刺すような張り詰めた空気だ。
「本日は、王妃イザベラ様がお待ちでございます」
侍女の声には、敬意と共に、どこか不可解な緊張が混じっていた。
王妃イザベラ。
当然俺はこの国の王妃を知らない。
だが、案内されるまでの侍女の振る舞いから、彼女がこの宮殿において、王と同等か、あるいはそれ以上の「不可侵の領域」を持つ人物であることは容易に想像がついた。
(やばいな。危険な気がする)
胸がソワソワする。心臓が苦しく脈打つ。
兵士や宰相、王女は「王」の見た目と王命スキルとで狂信的に心酔していた。
だが、もし王妃が、かつての「本物の王」とより近く、癖や思考を熟知していたら?
会った瞬間に、俺が偽物であることを見抜かれる可能性がある。
俺は俺の異世界知識を総動員して解決策を練らなければならない。
(……記憶喪失だ。そうしよう)
知っている限り、異世界ファンタジーの登場人物は記憶を喪失している場合が非常に多い。とても自然な状況のはずだ。記憶喪失を装えば、多少の違和感はごまかせるはずだ。
俺は、震える膝に力を込め、覚悟を決めて扉が開くのを待った。
扉が開くと、そこには、息を呑むほどに静謐な美しさを湛えた空間が広がっていた。
天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが、鋭い光を食卓に投げかけている。
そして、その中心に彼女はいた。
深い紫色のドレスに身を包み、銀色の髪を完璧にまとめ上げた女性。
氷のように澄んだ青い瞳が、俺を射抜く。
彼女が王妃イザベラか。
その佇まいは、まるで精巧に作られた氷の彫像のようで、周囲の温度を数度下げているのではないかと思わせるほどの威圧感があった。
俺は、彼女の視線に射すくめられ、喉が凍りついた。
挨拶をしなければならない。だが、口を開けばあの「雷鳴」が轟く。
俺は、精一杯の勇気を振り絞り、言葉を発する代わりに、小さく、ぎこちなく会釈をした。
王妃は何も答えなかった。
ただ、冷徹な瞳で俺の全身を、まるで品定めするようにゆっくりと眺めた。
(……何も言わないで)
俺は逃げるように席に着いた。
目の前には、芸術品のような料理が並んでいる。
金色の皿に盛られた、濃厚な香りを漂う黄金色のスープ。表面には繊細な金箔が散らされ、一口啜るだけで脳が痺れるほどのバターとクリームのコクが押し寄せてきた。
深い紅色のソースで塗り固められた巨大な肉塊。蜂蜜と未知の香辛料が混ざり合った、暴力的なまでに濃厚な香りが鼻を突く。
一口飲んでみる。
(うまい!)
杞憂にすぎたのかもしれない。
俺は、彼女と目を合わせないように、ひたすら料理に没頭した。
銀色のカトラリーの使い方は分からない。俺は一番使いやすそうなスプーン一本で、繊細な盛り付けを完膚なきまでに破壊しながら、あらゆる料理を強引に口へ運んだ。
贅沢な味が口いっぱいに広がるが、心には一抹の不安が残る。腹が満たされるにつれ居辛さが勝ってくる。
静寂が支配する食卓。聞こえるのは、俺が料理を咀嚼する情けない音だけ。
その時だった。
「……あなた」
氷の刃のような、静かな声が響いた。
俺は、肉を口に含んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
王妃イザベラは、ワイングラスを指先で軽く回しながら、残酷なまでに澄んだ瞳で俺を見つめていた。
「以前のあなたとは……ずいぶんと『中身』が変わったようね」
(……!!)
ドキッと心臓が跳ね上がった。
ど、どういうことだ?
彼女は、俺が偽物であることに気づいたのか。それとも、本物の王が入れ替わったことを察したのか。
(記憶喪失だ! 今だ、記憶喪失を言い出す!)
安易な計画を思い出し、俺は、慌てて口の中の肉を飲み込み言おうとした。
「こ、ここは、どこ……」
そう言おうとした。
だが、焦りが勝ち、喉に肉が詰まった。
ごふっ……!!
激しくむせ返った俺は、口に含んでいた黄金色のスープを、盛大に噴き出した。
真っ白なテーブルクロスに、黄金色のシミが広がる。
静寂に包まれていた食卓に、最悪に不格好な音が響き渡った。
(ああああ! 終わった! 完全に終わった!)
しまった。
記憶喪失のふりをするどころか、ただの「行儀の悪い馬鹿」を晒してしまった。
自分の馬鹿さを隠すことに専念しなければならなかった。
もうバレた。このままここにいたら処刑されかねない。
逃げなきゃ。今すぐここから逃げ出さなきゃ。
俺は、椅子をガタガタと鳴らして立ち上がった。
逃げ出す直前、長年の習慣のせいか、この場を早く切り上げるための合図としてか、俺は震える声で、精一杯の礼儀を口にしたのだった。
「……ごちそうさまでした」
その瞬間。
【スキル「王命」が発動しました】
――『この宴は、我が飽くなき渇望を満たすに十分であった。……して、今宵の主菜は、いかような愉悦を我に提供してくれるのか』――
広間に、地鳴りのような重低音が轟いた。
あまりの圧力に、テーブルの上のクリスタルグラスがチリンと共鳴し、壁の燭台の炎が激しく揺れる。
「ごちそうさま」という卑屈な挨拶は、今夜のメインディッシュ、夜の営み(?)を暗示する、傲慢極まりない「王の誘い」へと変換されていた。
(……は?)
俺は呆然と立ち尽くした。
今、なんて言った? 主菜? 愉悦?
小説の知識でなんとなく意味はわかる。だが、よくわからない。
こんな、ダメダメの俺に、この国の王妃との心臓が止まるようなミッションが課せられたのか?
(無理だ! 絶対に無理! 死ぬ! 精神的に死ぬ!!)
パニックが頂点に達した。
記憶喪失だ。今すぐ記憶喪失のふりをしないと、俺の人生とか貞操とか何かが終わる。
俺は必死に、震える手で頭を押さえ、記憶を失ったかのような困惑した表情を作ろうとした。
あたりをきょろきょろ見回した。
だが、王妃イザベラは、一瞬だけ、驚いたように目を見開いた後――。
その唇に、薄く、氷のような微笑を浮かべた。
「……ふふ。記憶喪失のふりをして、私を試しているのかしら」
(違う! 違うから!!)
俺の絶叫は、心の中だけで空回りした。
彼女は、俺の「スープ噴射」から「唐突な夜の誘い」、そして「急な混乱」までを、すべて何らかの高度な心理戦の一環として解釈したらしい。
王妃は、ゆっくりと席から立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄った。
彼女から漂う、冷たくも甘い香りが鼻腔をくすぐる。
彼女は俺の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「面白いわ。以前のあなたよりも、ずっと、刺激的よ」
俺が絶望に染まり、ガタガタと震えていることに気づいているのかいないのか。
彼女はふっと身を引き、見たこともないほど柔らかい、けれど底知れない好奇心を湛えた瞳で俺を見た。
「私はイザベラ。よろしくね」
そう言い残して、彼女は優雅な足取りで食堂を後にした。
俺は、そのままその場に崩れ落ちた。
背後から聞こえる彼女のくすっと静かな笑い声は、どんな脅喝よりも恐ろしく、そして不吉に感じられるのだった。




