第3話 深遠なる沈黙
「さて、勇者の皆様方。混乱されているのもお察しいたします。しかし、まずはこの世界の理をご承知ください」
場を鎮めたのは、汚れひとつない漆黒の燕尾服を纏った執事風の男だった。
「申し遅れましたな。私はこの国の政務を司る宰相、バルトと申します。陛下のお傍で、この国の秩序を維持することが私の唯一の務め。……以後、お見知り置きを」
宰相は、さっきまでの血みどろの光景がまるで幻だったかのように、白手袋をはめた手で床にひれ伏す兵士たちに合図を送る。
兵士たちは、水を打ったような静寂の中で、音もなく一斉に立ち上がり、整列した。
その動作は機械的だが、彼らの瞳の奥には、玉座の俺に対する絶対的な畏怖が宿っていた。
宰相は俺に一礼し、クラスメイトたちへと視線を向けた。
「皆様方は、この王国――エルグ王国を救うために、天より選ばれし『勇者』です」
宰相の声は滑らかだが、どこか冷徹な響きを帯びている。
「勇者である皆様方には、世界の理に則り、それぞれ特別な『スキル』が与えられています。それが、大陸各国の脅威に対抗する唯一の武器となるのです」
「スキル……?」
クラスメイトの一人が、震える声で呟いた。
さっきまで教室を騒がせていたショート動画の早送り音や、嘲笑の連呼はもうない。
広間は、まるで巨大な重力に押しつぶされたかのような重苦しい空気に包まれている。
俺は視線を回した。
いじりグループのリーダー格だった田中は、さきほど切られた肩を押さえ、土気色の顔で地面に這いつくばっている。
肩から滲む鮮血を袖で押さえつけ、荒い呼吸で悲鳴を飲み込んでいる。あの威勢の良さはどこへやら、今はただの怯えきった弱小動物だ。
他のクラスメイトたちも同様だ。
多くは顔を覆い、互いに寄り添いあってがたがたと震えている。
男子たちの一部も強がった笑顔を貼り付けようとするが、口角が引き攣り、恐怖で顔が歪んでいる。
彼らの瞳は、剣を構えた兵士たちへと震える視線を投げかけていた。
真面目に話を聴こうとする者もいた。
学年トップの成績を誇り、先ほど委員長に選ばれた西園寺唯だ。
彼女は長い黒髪を整え、恐怖を必死に理性で抑え込もうとしている。
その瞳は、宰相の言葉を一字一句漏らすまいと食い入るように見つめている。
しかし、その膝は小刻みに震え、指先が白くなるほど強く握りしめられていた。
そして、教室の隅には、担任の山田先生が濡れ雑巾のようにぐったりと横たわっていた。
腹を突かれた衝撃と、現実を受け入れられない精神ストレス。
口から泡を少し飛ばし、白目を剥いて完全に気絶している。
教師としての威厳も、ドッキリ番組への期待も、今の彼には何の意味も持たない。ただの肉の塊だ。
(……惨状だ)
俺は玉座からその光景を見下ろした。
息が止まりそうだ。喉の奥が乾き、唾を飲み込むことさえ難しい。
数十分前まで、俺を嘲笑い、消費していた彼らが、今は完全に無力な「被害者」に成り果てている。
だが、俺もまた、安全地帯にいるわけではない。
というよりもむしろ、火薬庫の真ん中に座らされているようなものだ。
「では、スキル鑑定の儀を執り行います」
宰相がそう告げた瞬間。
広間の空気が、ピリリと張り詰めた。
「この儀式には、国の最高権力者である『王』の承認と監督が不可欠でございます。陛下におかれましては、勇者たちの資質を見定め、その適切な処遇を決定していただけると光栄に存じます」
宰相は恭しく、俺の方へと視線を向けた。
「いざ、ご鑑定を、賜りたく存じております」
王女もまた、エメラルドグリーンの瞳に熱っぽい期待を込めて俺を見つめている。
兵士たち、神官たち、そして震えるクラスメイトたち。
数百の視線が、一斉に玉座の俺へと突き刺さる。
(……え?)
俺の思考が停止した。
心臓が、早鐘を打ち始める。
ドクン、ドクン、ドクン。
(鑑定? 俺が? やるの?)
待て待て待て待て、待てよ。
俺もまた、自分で決めたわけでもなく、何のルールも教えられず、この世界に連れてこられたのは同じだ。
攻略サイトはない。魔法の教科書もない。
白紙状態。頭の中は、真っ白だ。
そもそも、俺自身が「王」なのは、さっきの「王命」という謎スキル、あるいはこの玉座という舞台装置がそう見せかけているだけだ。
中身は、投票数ゼロ票の、ビビりの、臆病な自覚は人一倍ある小谷正平だ。
(どうすればいい? 鑑定? 本当のお値打ちは、とでも言うのか? いや、魔法か? そもそも俺にそんな力があるのか?)
汗が、額から滲み出る。
背中のベルベットが、冷や汗で冷たい鉄のように張り付く。
手の中の黒曜石の杖が、やけに重く感じる。
俺は、ただ恐怖で動けない。
言葉が出ない。
喉の奥が砂紙で擦られたように痛み、鼓動が耳元で轟音を鳴らしている。
顔は引きつり、口元は震えているはずだ。
「……」
俺は、玉座の肘掛けを、指先が震えるほど握りしめたまま、ただ黙って見下ろすことしかできなかった。
口がパクパクと金魚のように開閉する。
逃げ出したい。出口へ今すぐ駆けだしたい。
しかし、逃げれば「偽物」だとバレる。バレれば、あの兵士たちの剣の餌食になるかもしれない。
広間に漂うのは、息を吸うことさえ重荷となるような、粘着質な沈黙。
誰もが、俺を見つめ、俺の次の一言を固唾を飲んで待っている。
その静寂が両側の鼓膜を圧迫する。
秒針が止まったような、永遠に続くかのような時間。
俺が恐怖で声を出せない時間。
どれくらい経っただろう。
「……ああ、やはり」
王女が、小さく、しかし感極まった声で呟いた。
「父上は、今、深遠なる策を廻らせていらっしゃるのですね」
(は?)
俺は内心で素っ頓狂な声を上げた。
策? 何の?
彼女は、震えるクラスメイトたちに向かって、諭すように語りかける。
「ご覧なさい。陛下は、勇者たちの動揺や恐怖を、すべてご洞察あそばされている。あの静寂は、無慈悲な審判を下す前の、慈悲深き『猶予』の時間。己の力を過信し、無礼を働いた者への警告と、これから目覚める力への期待……それら全てを内包した、王の深き沈思であり黙考であらせられます」
(違う……違うから! ただただ、声が出ないだけだから!)
俺の心の叫びなど、届くはずもない。
宰相も、深く頷きながら、俺の震える汗を「叡智の汗」とつぶやき、姿勢を正した。
「左様でございます。陛下は、言葉よりも雄弁なる『無言』をもって、勇者たちの資質を試しておられるのです。早々に力を開示せず、自らの意志でその身を委ねることを待っておられる……なんという格別な御心」
宰相は、感動した表情で眼尻を拭う仕草を見せた。
(格別な御心って、聞いたことない言葉だ!)
俺は、引きつった笑みを浮かべることすらできない。
表情筋が硬直している。
だが、周囲から見れば、それは「冷徹な観察眼」や「圧倒的な威圧感」に見えるらしい。
「なんと恐れ多い……」
兵士たちが、俺の「沈黙」に耐えきれなくなったのか、地面に額を擦り付けた。
「我々如きが、陛下の深き思慮を測り知ることなどできません」
クラスメイトたちの反応も変わってきた。
最初は「なんだあの王、黙ってるだけじゃん」と思っていたかもしれない。
しかし、王女や宰相の言葉、そして兵士たちの過剰なまでの崇拝を見るにつれ、彼らの顔色が変わっていく。
「あの王、何かすごいことをするのかもしれない……?」
「怒ってる? 殺される?」
こそこそと話す声が聞こえる。
「すごい迫力だ。震える」
「これがオーラってやつか……、やっば」
かなり距離があるのに、はっきり聞こえる。
彼らの声質が、俺への「恐怖」と「畏怖」へと変質していく。
俺が何も言わないことが、かえって彼らの想像力を刺激し、俺をオーラとか持っている「絶対的な存在」へと祭り上げていっているようだ。
宰相が、俺の沈黙が十分すぎるほどに効果を発揮したと判断したのか、恭しく一礼し、場の空気を支配するような声で告げた。
「陛下におかれましては、勇者たちの未熟な魂を、その御眼をもってご確認あそばされました。では、皆様。陛下の御前で、恥じることなくその力を示すよう」
宰相は、俺の方を向き、深く頭を下げた。
「陛下、儀礼の開始を、お命じ下されんことを」
一同は、再び、こちらに視線を投げかける。
(え、開始? 俺が何か言わなきゃいけない?)
俺の心臓が跳ねた。
ただ頷けばいいのか?
頷いたら、それで「開始」になるのか?
俺は、恐怖で首の筋が強張っている。
しかし、これ以上沈黙を続けるわけにはいかない。
宰相の「開始を命じる」という言葉に乗っかるしかない。
とにかく、この場を収めるために、何かアクションを起こさなければ。
俺は、強張って痛む首の筋を、無理やり動かした。
骨がきしむ音が耳に響く。
「力が……」入らない……。
それでも縦に、たった一度。カクン。首が、自らの意志とは裏腹に重く下った。
【スキル「王命」が発動しました】
――『汝らの力、今、示せ』――
その瞬間、俺の首の振りが、またしても世界を変える「王命」として認識された。
俺の心の中で「はい」と頷いただけで、口からは威厳に満ちた雷鳴が轟く。
轟いた声に呼応し、背後の巨大なステンドグラスが激しく鳴動した。色鮮やかなガラス片がリード枠の中でガチガチと震え、鋭い共鳴音が空間を塗り潰す。
「仰せのままに!」
宰相は、深く礼をし、広間に向かって宣言した。
「陛下より、勇者諸君へその力を示すよう、王の御命令が下りました! 勇者諸君、今よりその身に宿りし奇跡の力を、王の御前で披露せよ!」
広間に、兵士たちの金属音が響き渡る。
クラスメイトたちは、俺のたった一度の頷きに、圧倒されたように縮み上がった。
すると、クラスメイトたちの頭の上に、ホログラムのように鮮明な赤く光る文字が、重力を完全無視して浮かび上がってきた。
俺は、玉座の肘掛けにしがみつきながら、必死に呼吸を整える。
(助かった……? いや、ここからが本番か?)




