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第2話 玉座の上

 意識が浮上した瞬間、まず感じたのは、冷たいタイルの硬さではなく、信じられないほどの「柔らかさ」と「温かさ」だった。


 まるで雲の上にいるかのような浮遊ふゆう感。

 ふかふかのクッションに包まれた感触。

 背中全体を包み込む、優雅な曲線をえが高座椅子たかざいすの安定感。

 俺は座っていた。

 いや、玉座ぎょくざ鎮座ちんざしていたと言った方が正しいかもしれない。


(……え?)


 薄れゆく意識の中で「逃げなければ」と必死だった思考が強制停止される。

 ゆっくりとまぶたを開けると、そこは教室の蛍光灯の下ではなく、天井まで届くかのような壮麗そうれいな石造りの大広間だった。


 見上げれば、複雑な模様が刻まれた丸天井が広がっている。

 無数の燭台しょくだいと巨大なクリスタルのシャンデリアによって照らされ、黄金の装飾がきらびやかに輝いている。

 窓の外には城壁と、その先に見渡す限りの緑豊かな大地が見えた。


(どこだ、ここ?)


 俺は視線をゆっくりと下ろした。

 教室の床にいたはずのクラスメイトたちが、今は遥か下の位置に、混乱した様子で散らばっている。

 誰かが床にうずくまり、誰かが頭をかかえ、呆然ぼうぜんと周囲を見回している。

 彼らの顔には、恐怖と困惑こんわくが入り混じった表情が浮かんでいた。


 俺は彼らを完全に見下ろす位置にいた。

 まるで神殿の祭壇に飾られた彫像ちょうぞうのように、圧倒的な高さと威厳いげんを誇る玉座に座っているのだ。


(座高が、高すぎる。俺は座っているのか?)


 違和感はそれだけではない。

 身にまとっているのは、あの安っぽい学校の制服ではない。

 深紅の裏地が覗く、重厚な黒ベルベットのローブ。

 首元には刺繍された金糸が輝き、袖口には宝石が散りばめられている。

 中世の王族がまとうような、豪華絢爛な「王衣おうのころも」だ。


(……いや、服だけじゃない)


 袖から伸びる手を見た。

 それは、俺が知っているあの、痩せて青白いひょろひょろの手ではない。

 ごつりと筋肉がついた、たくましい手。肌は日焼けしたように浅黒く、血管が浮き出ている。


 座高のせいで、手を見る視線の高さが違う。見下ろす景色がまるでことなる。

 俺は、自分の身体ではない「何か別の、巨大な誰か」の身体に、無理やり押し込められたような強烈な違和感に襲われた。

 サイズの合わない他人の服を着ているのではなく、身体そのものが「すり替わった」感覚だ。


 首元には宝石を埋め込んだ金の首飾り。

 右手には黒曜石の杖。

 その先端には、脈打つような光を放つ巨大なルビーが埋め込まれていた。


(……なんで、こんな……)


 混乱しているなかで、何とか考えをまとめてみようとする。

 たしかに、さっきまで「ゼロ票のいじられ役」だった。

 今、俺はクラスメイトたちを、まるで動物園のペンギンでも見るような高い位置から見下ろしている。


 そして、クラスメイトたちの視線が一斉に俺へと突き刺さっていることに気づいた。

 その視線は、教室での「嘲笑」ではない。

 怖れと困惑、そして自分たちとは種族が違う何かを見るような、本能的な戦慄の色だった。


(……そっか。俺は、俺じゃなくなってるんだ)


 圧倒的な優位性。文字通りの上から目線。

 これは、異世界「チート」というやつなのか?

 だが、俺はそんなものを求めていない。

 ただ、あの地獄のような教室から逃げ出したかっただけなのだ。


「王女殿下、準備は整いましたかと存じます」


 隣から、壮年男性の緊張を含む落ち着いた声が響いた。

 視線を向けると、漆黒の燕尾服を着用した年配の執事のような男が、深く頭を下げている。


 その奥には、プラチナブロンドの髪を複雑な編み込みでまとめ、深青色のシルクのドレスを纏った少女が立っていた。

 王族特有の気品に満ち溢れているが、そのエメラルドグリーンの瞳には、隠しきれない緊張が宿っていた。


(王女……?)


 彼女は俺の方を一度だけ、恐る恐る一瞥いちべつし、覚悟を決めたように前に進み出た。

 そして、まだ状況を理解できていないクラスメイトたちに向かって、凛とした声で告げた。


「よくぞいらっしゃいました、勇者の皆様方。エルグ王国第一王女フランシーヌ・エルグと申します」


 その声が響いた瞬間、数人の生徒が反射的にスマホを取り出した。

 だが、誰一人として画面を点灯させることができない。


「……電源、入らねえぞ」

「嘘だろ、フル充電してたのに!」


 その静寂は、彼らの薄い理性を焼き切るに十分だった。


「……はあ? 何言ってんだ、コイツ」


 立ち上がったのは、クラスの中心的な男子グループの一人。

 いつも俺をいじるあの男、田中だ。


「勇者? なんで俺たちが。つか、ここどこだよ。コスプレか? マジふざけんな、いい加減にしろよ」


 田中は、玉座の俺を一瞥した。

 その瞬間、彼の眉がピクリと動いた。

 教室では常に俺を標的にしていた彼だが、今の俺には視線を合わせることさえ拒むように、すぐに目をらした。


 全身鎧を身に纏った兵士たちを指差し、田中は嘲笑う。

 磨き上げられた鋼の鎧に身を包み、鋭利な剣を帯びている。

 だが、ショート動画だけで思考が構築されている高校生にとって、それすらも「イベントの演出」にしか見えないらしい。


「おい、先生! これどうなってんだよ!」


 田中は担任の山田先生に声を荒らげる。

 山田先生もよろよろと立ち上がり、周囲の異様な光景に顔を青ざめさせながらも、教師としての威信か虚勢きょせいたもとうと声を張り上げた。


「き、君たち! これはなんだ? それともドッキリのテレビ撮影か……」


 山田先生は表情を作り、急に髪形を整えだした。撮影されていると思って、いい画を狙おうとしているようだ。


「教師として忠告する。君、その格好……ふざけた真似はやめたまえ。わが愛する生徒に手を出すな! 警察を呼ぶぞ!」


 田中も何かを察したようだった。


「なんだよ。つまんねえプロジェクションマッピングかよ」


 もちろんそれは、致命的な勘違いだ。


 田中は近くにいた兵士に詰め寄った。


 その瞬間。

 俺の心臓がバクバクと激しく脈打ち始めた。

 全身の血管を氷水が駆け巡るかのような感覚。


(バカ、やめろ!)


 俺はさっきまで読んでいた異世界小説で知っている。彼らは知らない。誰も「ステータスオープン」と言わなかった。

 この場所で、現代の常識を押し通そうとする者は、必ず痛い目を見る。

 だが、俺の声は喉の奥で凍りついたように出ない。

 恐怖で体が麻痺しているのだ。


 兵士の鋭い瞳が、冷徹に光った。


不敬ふけいである!」


 金属が擦れ合う、不気味な音。

 剣がひらめいた。


 ズシュッ。


 鈍い音が響き、田中の制服の肩口から鮮血が噴き出した。


「あ……?」


 男子生徒の叫び声が、悲鳴に変わる。


「ああああああっ! 肩! 肩がっ!!」


 田中の悲鳴。

 教室が騒がしかったあの時間とは質の違う、切実で絶望的な悲鳴。


「痛い! 痛い痛い痛い痛い!」


 さらに、詰め寄っていた山田先生もまた、別の兵士の槍の柄で腹を突かれ、息も絶え絶えにうずくまる。


「なに? 血? ごぼ……本物? ごぼぼ」


 口からこぼれる血が、石畳の床に鮮やかに広がっていく。


(マズい、これは本当にヤバい! 死ぬ、こいつら死ぬ!)


 俺の思考がパニックにおちいる。

 明らかに、ここはゲームでも夢でもない。

 現実の血と肉と苦痛の世界だ。

 そして、俺は「王」の格好をしている。

 もしかして、この惨状さんじょうを止めるのは、この圧倒的な高みにある「俺」の役なのか?

 いやいや、無理だ。俺はただの一高校生だ。

 王なんて、どうすればいいのか分からない。


 恐怖で身体が震え、冷や汗が背中を伝う。失禁しそうだ。

 だが、俺は必死に口を開いた。

 いちおう俺は善良な高校生だと自分で思っている。

 嫌いなクラスメイトとはいえ、あんな理不尽りふじんな形で流れる血を、ただ見過ごすことはできなかった。


「ちょ、ちょっとやめ、て……!」


 俺は震える口調で、精一杯の声を張り上げたつもりだった。

 言葉は、情けない悲鳴に近かったはずだ。


【スキル「王命」が発動しました】


 ――『其処まで。やめよ』――


 喉から出た音は、俺のものではなかった。

 震える喉元が、固い鉄の管に変わったかのような感覚。

 低く、威厳に満ちた雷鳴らいめいのような声だった。

 広間全体を圧し潰すような低音が響き渡り、石の壁まで微かに震えた。

 壁に掛けられた古代の戦記を描く巨大なタペストリーが、激しく身震いした。


 広間の空気が、一瞬にして凍りついた。

 構えた剣の刃先から、一滴の汗が落ちる音が聞こえるほどの静寂。

 まるで、時間が止まったかのように。


(え……)


 俺自身が一番驚いた。

 俺は「ち、ちょっと待って」と言ったはずなのに。


 なぜ、あんなに立派で厳かな言葉が?

 まるで、俺の情けない言葉を強制的に「王の言葉」に変換する翻訳機能が、脳内にインストールされたかのようだ。


「……!」


 兵士たちは、一斉に剣を収め、その場にひざまずいた。

 その動作は、まるで神に祈るかのように洗練されていた。

 彼らの顔には、深い畏敬の念と、絶対的な忠誠心が刻まれている。


 隣で、金髪の王女が驚愕きょうがくした表情で俺の方を向いた。

 彼女は、恐怖で強張った俺の顔を、震える瞳でじっと見つめている。

 やがて彼女の瞳に、ある種の確信のような色が宿った。


「……かしこまりました、父上」


 王女フランシーヌは深く、優雅に頭を下げた。


(父上? 娘? 女の手を握ったこともないこの俺に?)


 執事も、感極かんきわまった様子で口を開く。


「深遠なる御英断……。さすがは陛下でございます。あの者どもの無礼を王の威光でねじ伏せ、その後に命を救われる……深遠なる御配慮、恐れ入りました」


(いや、違うから! ただビビっているだけだから。そういうのじゃないから! 『深遠なる』って二回も言うし)


 王を取り囲む彼らの過剰な解釈に内心でツッコミを入れるが、口からは出ない。

 王女は兵士たちに向かって、りんとした声で指示を飛ばした。


「スキル鑑定までは殺さないように。プリースト、速やかに負傷者の治療を実施せよ」


「はっ!」


 白い法衣を着た神官たちが走り寄り、男子生徒や先生の傷に手をかざす。

 傷が、みるみるうちに眩い光と共に塞がっていく。

 まるで、時間が巻き戻っているかのような光景だ。


(……魔法)


 俺はその光景を見つめるしかなかった。

 本当に異世界に転移してしまったことが、実感に変わっていく。

 そして、俺は気づかぬうちに「王」を演じさせられており、その「王」が発する言葉が、周囲に絶対的な命令として浸透していくようだ。


「……」


 俺は、王座の肘掛けを、手汗で湿るまで強く握りしめた。


 これからどうなる? どうする?


 彼らは誤解している。

 しかし。もし、この誤解が解けたら……偽物だとバレたら。

 あの兵士が気軽にやっていたように切り殺されるのだろうか?


 バレたらまずい。


 バレたら死ぬ。


 しかし俺はそこらじゅうに転がっているただのビビり、か弱く卑屈な凡人だ。

 王なんて、一度も演じたことがない。感情移入したこともない。

 どうすればいい?


「絶対権力者の王」


 俺の、謎と恐怖に満ちた異世界ライフが、最悪の形で幕を開けたのだった。

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