第1話 クラス転移
授業終わりの休み時間。
あちこちでショート動画のやかましい早送り音が鳴り響いていた。
スマホの小さな光の四角。
誰もが顔を近づけて、断片的な世界に没頭している。
そんな喧騒の中、俺だけは教室の隅で縮こまっていた。
視界にあるのは、愛すべき異世界ファンタジー小説の文字の羅列。
現実逃避。今の俺に許された唯一の愉しみだ。
俺、小谷正平。
このクラスにおける「いじられ役」と言っておこう。
言葉にするのは簡単だが、それは単なる役割ではない。
俺は、みんながストレスを発散するためのサンドバッグであり、会話のオチを飾るための消費アイテムだ。
(……次は、ホームルームか)
教室に足を踏み入れるたびに、胸が締めつけられる。
埃っぽいチョークの匂い。ジジッ、と不快にちらつく蛍光灯。
日常的に降りそそぐ嘲笑の視線。
どれも不快だ。
そんなとき、チャイムが鳴り、担任の山田先生が気だるげに現れた。
くたびれたネクタイを緩め、眠たそうな目で生徒たちを見回す。
「よーし、みんな静かに。今学期の委員長を決めないとな」
教室の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
全員の視線が一点に集まる。
クラスのヒエラルキーの頂点。
誰もが憧れ、学年トップの成績を誇る委員長的存在――西園寺唯。
彼女の長い黒髪は光を浴びて艶やかに輝き、整った顔立ちは、見た目もまさにランクAだ。
「委員長なら、やっぱ唯ちゃんでしょ!」
「異論なし!」
拍手の嵐が巻き起こる。
だが、山田先生はまだチョークを置いていなかった。
「他にはいないか? 自薦でも推薦でもいいぞ?」
先生の言葉が合図だった。
いつも俺をからかう男子グループが、ニヤニヤと顔を上げる。
斜め上からの見下ろす視線が、俺を射抜く。
「小谷を推薦しますよ、先生! あいつ、マジでやる気満々ですから!」
「そうそう、小谷なら絶対、クソ真面目な委員長って感じ! 見てて面白いっしょ!」
(……今日も、疲れる)
彼らは期待している。
彼らが求めているのは委員長という「期待」ではない。
俺の惨めにうろたえる姿が与える「娯楽」への期待だ。
教室は、再び俺を道化師として消費する空気に満たされていく。
「じゃあ、投票といこうか」
配られた紙切れ。何も書かずに出す。
書く意味なんて、最初からないからだ。
山田先生が黒板の前に立ち、チョークを手に取る。
教室は静まり返った。
チョークが黒板を叩く乾いた音が、教室に響き渡る。
『西園寺 唯 35 票』
『小谷 正平 0 票』
無慈悲な数字が、白いチョークの軌跡として黒板に刻まれた。
その瞬間、教室に爆笑の嵐が巻き起こる。
「ははっ、ゼロ票って! 小谷、お前マジでひどいな!」
「自分くらい投票しろよ! どんだけ顔赤くさせてんだ!」
田中と石川がからかってくる。
山田先生は満面の笑みを浮かべる。
家族的で楽しく和気あいあいとしたこのクラスが先生の自慢だそうだ。
山田先生は満足げだ。
成績優秀な西園寺が委員長になる。予定調和な結果に安堵した顔だ。
「私は小谷君に投票したよ」
小さい声で隣の席の月城陽菜が言ってくる。これは「嘘つけ」と返してほしいのだろうか。
いずれにしても、俺の無効票がないことからわかる通り、ろくに投票紙の中身など見ていないのは確かだ。
学校の評価、評判、世間体、表面上の「ランク」、そして、空気。
どれも俺は考えすぎて何も決まらず、周囲に合わせることができない。
「じゃあ、恒例だ。落選した敗者の弁をどうぞ! ほら、小谷、立ってみんなにアピールしろよ」
先生が顎を突きだし促してくる。
(アピール? 何を?)
「ゼロ票の俺が?」
クラスは爆笑に沸く。受けに受けてる。
(逃げ出したい。でも、逃げ出せないよな……)
表面上は、気まずそうに頭を掻きながら、にやにやとした弱者の笑みを作ってみせる。
だが、喉はカラカラに渇き、心臓が激しく脈打つ。
視線がナイフのように、皮膚をじりじりと焼く。
その時だった。
床のタイルの隙間から、青白い煙が漏れ出した。
冷たい風が、教室の換気扇を逆転させるように吹き抜ける。
「……え?」
最初は目の錯覚かと思った。
疲労が蓄積した結果、視界がぼやけているのだろう。
しかし、光の粒子は複雑な幾何学模様を描き出し、その輪郭を急速に拡大させていく。
光は、まるで生き物のように脈動し、ゆっくりと形を変えていった。
(……これ、なんだ?)
俺の脳裏に、さっきまで読んでいた異世界小説のイラストが鮮明に蘇る。
複雑な紋様が刻まれた魔法陣。
その中心には、輝く宝石の幻影が埋め込まれている。
転生。召喚。魔法陣。
そして、クラス全員で異世界へ旅立つ――あの王道展開だ。
(……まさか、転移の魔法陣!?)
周囲のクラスメイトたちが、
「え、何これ?」「マジかよ!」「バズるかも!」
とはしゃぎ出し、スマホを向け始める。
彼らはまだ、これが単なるエンターテインメントの演出だと信じているようだ。
しかし、俺は知っている。
小説の中で見た。この光の先にあるのは、血なまぐさい戦場か、理不尽な権力が支配する世界だ。
(逃げないと!)
本能が危険を告げる。
俺は反射的に身を翻し、教室の出口へと全力で走り出した。
ここで逃げ切れば、あのおぞましい光の渦に飲み込まれずに済むはずだ。
だが、俺の人生に「幸運な逃走」なんて言葉は存在しなかった。
「おっと、どこ行くんだよ大谷!」
嘲笑を含んだ声。
視界の端に、田中がわざとらしく突き出した足が見えた。
避ける間もなかった。
「うわっ?!」
派手な音を立てて、俺の体は宙を舞った。
重心が完全に崩れ、視界が激しく回転する。
そして、最悪のタイミングで、俺の後頭部は教卓の鋭い角に完璧な角度で激突した。
ゴッ。
鈍い音が脳内に響き、火花が散る。
衝撃で意識が白濁し、そのまま床に崩れ落ちた。
耳の奥で、クラスメイトたちの笑い声と、魔法陣が激しく振動する音が混ざり合って聞こえていた。
巨大化した魔法陣は床から天井までを覆い尽くし、俺の視界だけでなく、意識そのものを強制的に吸い込んでいく。
光の粒子が俺の肌を撫で、強烈な眩暈が襲ってきた。
脳の奥で、何か『ガチッ』と噛み合わない歯車が無理やり回転したときのような音がした。
(……あ、これ、死んだわ)
俺の意識は暗い底へと沈んでいった。
理不尽な人生を考える間もなく、闇が俺のすべてを飲み込んでいく。
そして、最後に聞こえたのは、クラスメイトたちの絶叫と、「ドッキリ?」という山田先生の困惑した声だった。




