第26話 聖域の宝物庫
地下の冷たい空気から逃れるように、螺旋階段を一段ずつ踏みしめる。
湿った石壁から滴る水音が、規則的に鼓膜を叩いていた。
西園寺唯の「不殺」の訓練をやりすごした安堵感が、喉の奥に引っかかる鉄錆のような味に塗り潰されて消えていく。
あの後、西園寺は肩で息をしながらも、心のつかえが取れた表情で、バルトの指示により隣接する休憩室へと引いていった。
彼女には、殺さずに制するという道が心置きなく従える目標として刻まれたようだった。
そして、王妃イザベラ。
俺に近づき、冷たい指先で俺の頬をそっと撫でたあと、
「期待してしまうわ」
そう言うと、彼女は隣にいた別の鎖につながれた凶悪犯へ視線を向けた。
そして人差し指を軽く振るった。
ザシュッ。
凶悪犯に切れ込みが入る。血があふれ出すのをちらりと見て、俺は反射的にすぐ目を逸らした。
だが、視界を遮っても、耳までは遮れない。
「ぐっ」
ドサッ。
ばらばらと肉塊が地面に転がる、鈍く重い音が響いた。
元王が言っていた「四肢切り裂き」同様に凄惨な結末だろう。
誰もが武器を持つ、この異世界の残酷さが音だけで伝わってきた。
「ここで目をそらすのね」
耳元で囁かれた甘い声に、背筋が凍りつく。
「あなたは本当に、予測不能な方ね。前はあんなに喜んで見てらしたのに」
彼女はそう言い残すと、満足げに微笑みながら、音もなく闇へと溶け消えていった。
暗殺者の隠密行動に関連したスキルだろうか。
その影が見えなくなるまで、俺は息を殺してやり過ごすしかなかった。
残されたのは、宰相バルトと俺だけ。
「……して、陛下」
バルトが微笑みをうかべ、薄毛の目立つ頭を下げた。
「西園寺殿の件、恐悦至極に存じます。まさに神算。あの個体を『殺戮の道具』ではなく『制圧の権化』へと昇華させるとは……。これで我が国の抑止力は、より柔軟かつ強大なものとなりました。永遠に讃えられるべき、大変なご加護をくださり、私はただ打ち震えるばかりでございます」
彼は額を石畳に擦り付け、いつもの感謝を示した後、ふうっと長く息を吐いた。
「……これにて、本日の裏訓練場の視察は終了とさせていただきます。私もこれより、西園寺殿の今後の運用計画を策せんと存じます。陛下には、このいやしき地下まで、ご降臨賜り、深く深く感謝いたします」
その言葉は、俺にとって待ち望んでいた「解放の合図」だった。
あの血なま臭く、狂気じみた地下の空間から、一刻も早く抜け出したかった。
俺は無言で頷き、バルトに背を向けて歩き出した。
*
地下の湿気と、微かな血の匂いから逃れるように、螺旋階段を一段ずつ上っていく。
ようやく一人になれた安心感から、重いため息が漏れた。
だが、その安堵は束の間だった。
脳髄を直接指で弾かれたような不快な感覚が走る。
『……遅いぞ、偽物』
脳内に響く傲慢で粘着質な声。
幽閉されているはずの「俺の身体」、元王だ。
王命スキルを発動させた直後の数分間だけ接続される、元王との魂リンク。
俺が王命スキルを使ったことを見逃さなかったようだ。
『聖域へ来い。案内人を待たせてある。わしの「至高の休息」を妨げるな』
(……来た。しかも案内人って何だ?)
抗議の声を上げる隙も与えず、脳内の回線は一方的に切断された。
俺は重いため息を吐きながら、階段を登りきり、城の回廊へと足を踏み出した。
回廊を歩きながら、俺の足取りは次第に重くなっていく。
そこは、豪華な城のイメージとは似つかない光景が広がっていた。
視界の端に触れるのは、剥がれ落ちた壁紙の残骸だ。
かつては金糸の織り込まれた深紅の布地が壁を覆っていたはずだ。
壁紙はあちこちで剥がれ、その下から粗末な石壁や、継ぎ接ぎだらけの安っぽい漆喰が露わになっている。
魔導灯の半数はすでに消え、薄暗い廊下を数本の松明が頼りなく照らしていた。
パチパチと爆ぜる松明の音と、鼻をつく煙の匂い。それに混ざって、古い石造り特有の湿ったカビの臭いが肺の奥にこびりつく。
ふと横を見ると、直立不動で立つ近衛兵の鎧の継ぎ目に、赤茶けた錆が浮いているのが見えた。
革ベルトは擦り切れて、あちこちが太い紐で無理やり結び直されている。
彼らはただ、暗闇の中で石像のように沈黙していた。
(バルトさんが必死に予算がないって言ってたけど……、本当に限界なのがよくわかる、この国)
悪い予感が胃のあたりをじりじりと焼く。
訓練所は半分燃え、国庫は空っぽに近い。国民は飢え兵士は錆びた鎧で震えている。
そんな中で、俺の身体に入ったあの男は、一体何をしているのか。してきたのか。
やがて、回廊の最奥に辿り着いた。
聖域への重厚な扉。その前に、ピカピカに磨き上げられた最高級の銀甲冑に身を包んだ近衛騎士が二人、直立不動で待機していた。
廊下の惨状とはあまりにも不釣り合いな輝きだ。
「陛下。『至高の蒐集品』様がお待ちです。聖域までご案内いたします」
騎士の言葉に、俺は思わず耳を疑った。
(案内? 「至高の蒐集品」……様!?)
聖域は原則として王本人以外が出入り禁止の厳重な場所だったはずだ。
それをどうやったのか内部から書き換え、自分を「様」付けで呼ぶ案内係まで指名して、生活をサポートさせている。
扉が重い音を立てて開かれた。
そこは、城内の惨状とは完全に隔絶された空間だった。
目が眩むような黄金と宝石の輝き。床に敷かれた毛長の絨毯。
壁一面には、古今東西の稀少そうな書物や伝説風味の武装、巨大な魔獣の剥製などが陳列されている。
空気すら、外のカビ臭さとは無縁の、甘美な香りに満ちている。
部屋の最奥、金ぴかの巨大な檻の中。
そこには、ピカピカのピエロ服を着て、ソファに深く身を沈める「俺の身体」があった。
屈辱的なはずの道化服を、まるでパリのモード・コレクションの最先端か何かのように着こなしている。
シルクのフリルを指先で弾き、金色のボタンを光にかざしながら、だらしなくも自信満々に足を組んでいる。
その手がつかむパフェグラスには、ふんだんにベリーが飾られたプリンアラモード。
片足を組み、指先でクリスタルグラスの脚を弄んでいる元王は、目の前に山積みになったスイーツを冷ややかな目で見つめていた。
「遅いぞ、偽物。それから、このプリンアラモードはなんだ。ベリーの配置が黄金比ではない」
元王はスプーンで一口すくい、眉をひそめてすぐに皿を置いた。
「カスタードの濃厚さも不足している。至急、熟練の職人を呼び寄せ、濃厚な黄金色に仕上げ直させよ。至高の蒐集品であり、王国の至宝たるわしの舌を侮辱した罪は重いぞ」
側に控えさせ、扇をあおがせている複数のメイドに向かって、まるで恋愛小説の悪役令息のような注文をつける。
紅茶を注ぐメイドには「もっと淑女らしく注げ」という理不尽な要求に、震えながら給仕の角度を修正している。
「わしはこの国の至宝である! 至宝に不相応な環境は、国家的な損失だ。わかるか? 偽物」
檻の格子越しに、元王が俺を見てニヤリと笑った。
*
自分都合すぎる論理。
救いようのない特権意識。
だんだん腹が立ってきた俺は口を開いて彼に正論をぶつけようとした、その時だった。
聖域の空気が、凍りついた。
ふわり、と。
甘い香りに混じって、底冷えのするような死の匂いが漂う。
空間が歪み、不気味な黒い渦が浮かび上がり。
――ゲートが開く。
【スキル「暗黒の聖女:影の御導き」が発動しました】
「……見つけた」
冷ややかな声と共に、黒い渦から一人の少女が静かに歩み出た。
ランクA、暗黒の聖女。月城陽菜だ。
(月城さん!? なんでここに!!)
彼女の纏う紫のローブが、微かな風もないのに揺らめいている。
その瞳には、深い情愛と、それを上回る鋭い殺気と違和感が宿っていた。
月城は檻の中の元王、すなわち「ピエロ姿の俺」を見つけ、その目を不機嫌そうに細めた。
「小谷君……、むりやり、そんな格好させられて……」
月城の視点からすれば、状況はシンプルなのかもしれない。
クラスメイトが、正体不明の王に捕らえられ、屈辱的なピエロの格好をさせられて檻に閉じ込められている。
彼女は、元王がピエロ服を着せられているのを、俺への虐待と解釈したのだ。
元王が慌ててソファから立ち上がる。
「おい! 何をする気だ!」
月城は答えない。
彼女の右手が、ゆっくりと宙を切った。
「こんな汚いもの……、薄汚れたものに囲まれて……!」
【スキル「暗黒の聖女:闇浄化」が発動しました】
――シュン。
――「浄化します」――
音もなく、元王の背後に飾られていた巨大なワイバーンの剝製が、黒い霧に触れた瞬間に形を失い、灰となって崩れ落ちた。
「貴様!! その剥製は絶滅した『天空の龍』の幼体だ! 予算をどれだけ注ぎ込んで買い付けたと!!」
元王の言葉が終わる前に、月城の左手が振り下ろされる。
今度は壁に飾られていた豪華な武具が、闇に呑まれて消滅した。
「わしの『星屑の銀閃』! あの聖銀の純度は――」
次々と。
「ああっ!! それは古代帝国が遺した唯一の『真理の鏡』だぞ!!」
元王が自慢のコレクションが、聖女の暗黒魔法によって「浄化」され、存在ごと抹消されていく。
元王の顔が赤くなり、逆上して叫ぶ。
「やめてくれ! 止まれ!」
「全部、消してあげる……!」
闇がすべてを飲み込み、豪華なコレクションが次々と虚無へと還っていく。
あれほど増長していた元王が、自慢の宝物を失うたびに、絶望に染まって膝をついた。
「あぁ……、わしのコレクションが……、わしの至宝が……」
涙をこぼすその姿は、もはや王ではなく、おもちゃを壊された子供のようだった。
だが、月城は止まらない。
彼女の殺気が、さらに鋭さを増して元王の檻に向けられる。
月城は、檻の格子ごと元王の前に進み出た。
暗黒の魔力が、彼女の周りに渦を巻く。
彼女はふいに動作を止めた。
目の前の「ピエロ姿の男」をじっと見つめている。
その瞳に映っているのは、深く、鋭い、見透かすような眼差し。
数秒の、永遠にも似た沈黙。
月城が一歩前に出た。
その冷静で、しかし落胆を含んだ声が静寂を切りさいた。
「……あなたは、小谷君じゃない」
涙を流していた元王は、月城の言葉を聞いて一瞬固まった。
だが、その後、にやりと口元をゆがめた。
俺がしたことのない顔だ。
月城の瞳が暗黒の深淵から檻の中のピエロを見据える。
「……誰なの?」




