第27話 計算なき神算
月城の瞳に宿る闇が、どろりと波打った。
檻の中の「俺」――もとい、元王に向けられたその視線は、もはや人間を見るものではなかった。
不純物を排除しようとする浄化の意志。底知れない殺意が見える。
俺は身動きが取れなかった。
どうにかしようと俺が口を開けば、また「王命」が発動して、最悪の方向へ事態を加速させるにちがいない。
絶体絶命。
だが、檻の中の男は、恐怖するどころか、不敵な笑みを浮かべていた。
「ほう? わしを殺す気か、暗黒の聖女よ。だがな」
元王はソファに深く腰掛けなおし、ふんぞりながら指先で自分の胸板を叩いた。
「わしを殺したら、お前の想い人も死ぬ。この器は間違いなく小谷とやらの身体だからな」
空気が止まった。
月城の足元で渦巻いていた漆黒の魔力が、ピタリと止まる。
想い人……。
瞳の奥で、激しい動揺が走る。
俺も動揺が走る。
月城の右手に集まっていた漆黒の魔力が、不自然に揺らぎ、そして霧散していく。
彼女はただ、震える指先で檻を見つめていた。
張り詰めた静寂が、聖域を支配していた。
*
どのくらい時間が経っただろう。
俺は相変わらず何もできず固まったままだった。
聞こえるのは、月城の乱れた呼吸と、元王の愉悦に満ちた鼻笑いだけ。
瞬きすることさえ忘れた窒息しそうな時間。
その静寂に、かすかな違和感が混じり始めた。
遠くから。
本当に、かすかな音だった。
地鳴りのような、低い振動。そして、何かが激しく燃え上がるような、不穏な熱気が回廊の奥から忍び寄ってくる。
(……何か、起きてる?)
俺がそう思った瞬間。
カン、カン、カンカン!!
甲高い暴力的な音響が、宝物殿の静寂を粉砕した。
*
城中に鳴り響く、不吉な鐘の音。
同時に、回廊の向こうから、パニックに陥った兵士たちの怒号と、激しい足音が地響きとなって近づいてくる。
「火事だ!! 捕虜用牢獄の反対側で火災発生!!」
「逃げろ! 煙が回っているぞ!!」
城内が混乱している。
聖域の静寂は、一瞬にして戦場の喧騒に塗り潰されていく。
扉が勢いよく開き、宰相バルトが飛び込んできた。
「陛下!! 月城様!! 申し訳ございません!!」
見たこともないほどの慌てた形相だ。
額からは脂汗が流れ、衣服は乱れている。
彼はそのまま、滑り込むようにして月城の足元に土下座した。
額を床に擦り付け、震える声で叫んだ。
「月城様! お助けください! 地下牢獄付近の書庫より出火! 火勢が強く、消火の手が追いつきません! どうか、どうか月城様のご浄化を!!」
必死。 非常に必死なバルトを見た。
月城はまだ、ぽかんと絶句した状態で元王を見ていたが、バルトの悲鳴のような懇願に、ゆっくりと視線を戻した。
「わかりました」
紫のローブが翻った。
そして彼女は影のように扉の外へと消えていった。
扉が閉まる直前、元王の苛立つ声が投げつけられた。
「……ふん。誰もわかっとらん」
元王が鼻で嘲った。
「火災? あれは捕虜解放のための誘導に過ぎん。間抜けな手品だ」
元王はソファに深く身を沈め、指先でピエロのフリルを弄んでいる。
「いいか、偽物。あの火災など、ただの陽動に過ぎん。帝国が第二波を敢えて送ってこなかった理由がわかるか? すでに死んでいた我が国が、まだ生き延びていた理由が?」
(……え?)
「……人質のおかげだよ」
その時だった。
ガチャッ。
カチャリ。
城のあちこちで、重い鍵が外れる音が鳴りだした。
それは、一つの合図のように正確に、同時に起こった。
カチリ、カチリ、カチリ。
金属の弾ける音が連鎖的に響き渡る。
それは、数千の鍵が一斉に外れる、騒々しい解放の音。
「もう大丈夫だ!!」
「出られるぞ!!」
回廊に、歓喜の声が溢れ出す。
廊下を駆け抜ける足音。鉄格子が開放される軋み。
「助かった!」
「日の光がすばらしい! 帝国万歳!!」
捕虜たちが次々と解放され、歓喜に沸きながら城の外へと流れ出していく。
そして。
「やあ。賑やかなところだね」
不意に、背後から軽やかな声がした。
いつの間に、聖域の入り口に、一人の男が立っていた。
ゆったりとした白いマントを羽織り、口元に不敵な笑みを浮かべた、いかにも「食えない」風貌の男。
元王が、不機嫌そうに呟く。
「帝国勇者。陽動の奇術師ジン、ランクAか」
「おっと、正解。僕は勇者。残虐国家の悪徳暴君に囚われた捕虜を解放しているヒーローだよ」
ジンと名乗った男は、肩をすくめて笑った。
「檻を探して回っていたんだけど、その檻はもう解錠済みだね。中にいるのは捕虜じゃないし。わざわざ来る必要はなかったかも?」
彼は「捕虜解放のヒーロー」と自称し、満足げにこちらを見た。
そして、マントをふわりと翻す。
その瞬間、彼の姿が陽炎のように揺らぎ、空気に溶け込んでいく。
(消えるのか?)
手品のように忽然と姿を消そうとした彼だったが。
「あ、そうだ」
消えかかった空間から、再び彼がひょいと姿を現した。
「捕虜になった仲間から聞いたんだけどね」
ジンは両手で耳をふさぐポーズをした。
「残虐王は声で攻撃する? こりゃ耳栓必要だね! あははははは!」
そう言い残し、今度は本当に一瞬で姿を消した。
残されたのは、立ち尽くす俺と檻の中で不機嫌そうに鼻を鳴らす元王だけ。
あまりに拍子抜けした結末に、俺はポツリと呟いた。
「やっぱり、消えた」
その瞬間。
【スキル「王命」が発動しました】
――『やはり想定通りである。すべては我が計算のうちに動いている。愚かな道化が踊る様を、高みの見物として楽しませてもらったぞ』――
カキーーーーーン!!
部屋の空気が凝縮され、物理的な衝撃波が壁を揺らした。
雷鳴のような威厳。世界を支配する絶対的な自信に満ちた、最高に格好いい「王の声」。
だが、帝国勇者ジンは、もうどこにもいなかった。
(……はあ)
俺は、自分の口から出た言葉の変換ぶりに、心の中でため息をつく。
「やっぱり消えた」と言っただけだ。なのに、それは「やっぱり、すべて計算通り」という傲慢な宣言に書き換えられる。
そして、隣から、氷のように冷たいツッコミが飛んできた。
『……王命も声が相手に届かなければ、ただの独り言と変わらんな。それに、貴様のどこに計算がある?』
元王の呆れ果てた声が、聖域に虚しく響いた。
反論できない俺は黒いローブの襟をぎゅっと握りしめる。
「……ふん。これで捕虜――我が国の『盾』は消えたな」
檻の中から、元王の冷静な声が響いた。
滑稽なピエロ姿が不釣り合いかのように、その瞳には現実的な危機感が宿っている。
「いいか、偽物。人質がいなくなったということは、帝国軍が躊躇う理由はもうどこにもないということだ。彼らは今この瞬間も、我が国を蹂躙するために牙を研いでいる。……準備しろ。間もなく、本物の地獄がここへ届くぞ」
(ああ、最悪だ……)
底冷えするような不安が、足元からじわりと這い上がってくる。
人質という唯一の防壁を、帝国側の「手品師」に鮮やかに奪い去られたらしい。
残されたのは、半分燃え尽きた訓練所と、やる気を失った勇者たち。
そして、中身が空っぽの「王」である俺だけだ。
「……なんということでしょうか」
現場から宝物庫に戻ってきた宰相バルトが重苦しい声を漏らした。
肩を落とし、今にも膝から崩れ落ちそうな様子で、彼は空虚な視線を回廊に向けていた。
「捕虜は全員脱獄。主導した勇者も忽然と消えた。交渉のカードはゼロ。もはや、この国に勝ち筋など……」
息の詰まるような沈黙が流れる。
バルトまで……。
さすがにもう限界か……。
だが、バルトの思考はそこで止まらなかった。
彼はふと、俺の方を見た。
ただ、恐怖と困惑で固まっているだけの俺を。
その瞬間、彼の瞳に、再び熱狂的な光が宿りはじめた。
「……いや、お待ちください。まさか、なるほど! これも……陛下の計算でしたか!! 一瞬、わからなかった愚かさを謝罪いたします!」
(え?)
「つまり! あえて捕虜を解放し、帝国の足枷を解く。彼らの油断を誘い出す! ここまで大胆に、あえて弱みを晒すことで敵を慢心させ、懐深くへと誘い込む……! なんという恐るべき心理戦、底知れぬ余裕!!」
バルトは、今度は歓喜に震えながら、石畳に額を叩きつけた。
「さらに、考えれば考えるほど合理的です! 正直に申し上げまして、あのような大量の捕虜を維持するための莫大な食事代と管理費は、我が国の国庫にとって致命的な圧迫となっておりました! 陛下は、敵を追い出すと同時に、最強のコスト削減を実現されました!!」
(コスト……、そこ?)
「それに見てください! 彼らが慌てて脱出した際に残していった装備品……。あれだけの量があれば、換金すれば相当な額になるはず! 敵から食糧を奪い、装備を没収し、さらに予算を浮かせる! 敵を解放して利益を得るなど、凡夫には到底思いつかぬ至高の神算!!」
やっぱりバルトはバルトだった。
絶望から歓喜へ。
あまりに速すぎる反転に、俺はただ呆れて聞いているしかなかった。
この男を前にすると、俺の「何もしていないこと」がすべて「高度な戦略」に変換されてしまう。
そのとき。
遠くの視界の端で、黒い光がパチパチと弾けた。
訓練所から漂ってきた黒煙が、どろりとした漆黒の闇に呑み込まれ、跡形もなく消えていく。
月城陽菜による、概念的な消火だ。
彼女の闇が広がるたびに、バルトの称賛はさらに加速していく。
「見てください! 陛下が静かに頷かれただけで、聖女様が即座に火災を鎮圧される! この完璧な連携こそが、我が国の真の力! 帝国など、我々の前ではただの道化に過ぎませんな!!」
(……バルトは勝利を確信したようだ)
俺は思考を放棄したい。
何をしても、どう動いても、すべては都合よく解釈され、俺は「完璧な王」へと祭り上げられていく。
この状況に抗うことなど、不可能に近い。
しかし、ふと、好奇心が湧いた。
俺は、わざと、投げやりな気持ちで小さく呟いた。
「やっぱり」
その瞬間。
【スキル「王命」が発動しました】
――『やはり想定通りである! すべては我が掌の上。この程度の揺さぶりで揺らぐと思うな。絶望の淵で踊る鼠どもを、心地よい音楽と共に眺めてやろうぞ』――
ドォォォォォォン!!
物理的な衝撃波が広間を薙ぎ払い、壁の燭台が激しく共鳴した。
雷鳴のような重低音が、空間そのものを支配する。
あまりに完璧で、あまりに傲慢な「王の声」。
(……王命って、けっこう、思い通りに発動できるんだな)
俺は、自分の口から出たその声を、もはや自分のものではなく、心地よいBGMか何かのように聞き流していた。
鳴り響く「至高の王」のボイス。
感涙に咽ぶバルト。
それとは対照的に、俺の心は相変わらず空っぽで、ただぼうっと窓の外を眺めていた。
同じ言葉をもう一度繰り返す。
「やっぱり」
【スキル「王命」が発動しました】
――『やはり想定通りである! 計算通り。すべては我が掌の上にあり』――
けっこう思い通りに王命を発動できることが感覚的にわかってきた。
しかし何の役にも立たない。計算のかけらもない。
遠く、地平線の彼方から。
鋼の波が、ゆっくりと、けれど確実にこちらへ向かってきているのが見えた。
バルザス帝国の第二陣。
先遣隊よりも遥かに巨大な、本物の軍勢だった。




