第24話 暗黒の聖女
皮膚を灼く熱風が、異音を立てて荒れ狂う。
赤黒い炎が訓練所の壁を這い上がり、天井の梁を噛み砕きながら爆音を撒き散らす。
鼻をつく黒煙が視界を奪い、肺を焦がすような窒息感だ。
佐々木凛の暴走した魔力が生み出した火柱は、もはや訓練所の壁などという枠を超越し、城の本館までを飲み込まんとする灼熱の巨獣と化していた。
その極限の混沌の中で。
ただ一人、静寂を纏う影が動いた。
ふわり、と。
舞い上がる火の粉を拒絶するかのように、薄暗い紫色のローブの裾が空気を蹴った。
月城陽菜。
彼女は膨れ上がった炎へと、その右手をゆっくりかざした。
長い黒髪が、熱気のない冷たい風にふわりと浮き上がり、白磁のような頬を縁取る。
「炎を、浄化します」
その凛とした声は、爆音の間隙を縫って、かろうじて聞こえるようなものだった。
だが、なぜか鼓膜の奥、魂の核に直接響くような絶対零度の響きを持っていた。
【スキル「暗黒の聖女:闇浄化」が発動しました】
――『不浄なる劫火よ。その熱を絶ち、絶対なる零度へと導け』――
瞬間。
世界から色が剥ぎ取られた。
彼女の足元から、底のない漆黒の波紋が四方へと滲み広がっていく。
波紋は床を這うのではなく、水のように、墨のように、音もなく空間そのものを侵食するように舞い上がった。
闇が炎に触れる。
波に呑まれた瞬間――ふっと、霧散した。
闇が広がる軌跡に沿って、石畳が灰に変わるよりも速く、火焔がその形を失っていく。
燃え盛る怪物が、黒い霧に触れた瞬間――音もなく、痕跡さえも残さずに、無に帰すようだ。
肌を刺していた暴力のような熱気が、まるで最初から存在しなかったかのように根こそぎ刈り取られていく。
闇が通った跡には、焼け焦げた石畳と冷たい灰だけが残された。
闇は止まらない。
訓練所を埋め尽くし、炎を呑み込み、壁に絡みついていた火の手さえも一瞬で塗り潰していく。
まるで、真っ白なキャンバスに黒い絵の具を放り込んだように、灼熱の地獄は一瞬にして何もない静寂へと塗り替えられていった。
やがて。
風が止み、黒い髪がふわりと肩に落ちた。
そこには、炭すら残っていない。
熱気も、煙も、焦げた臭いさえも跡形もなく消え去り、ただ冷ややかな石畳の床が広がっているだけだった。
完全なる消火。
ランクA、暗黒の聖女による完全な「鎮圧」。
炎の存在そのものを世界から抹殺したかのような、圧倒的かつ理不尽な鎮火だった。
月城は、かざしていた右手を静かに下ろした。
長い睫毛の奥に揺らぐ瞳は、闇と同化したかのように深く、静かな光を湛えていた。
***
静寂が、物理的な質量を持って広間に降り積もっていた。
あまりに完璧すぎる消火。
熱も煙も焦げた臭いさえも奪い去った「無」の空間。
誰もが言葉を失い、ただ放心状態で月城陽菜を見つめていた。
最初に沈黙を破ったのは、軍師ジュリアンだった。
彼は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、その三白眼に、これまでに見せたことのない戦慄と歓喜を宿らせていた。
「……素晴らしい。期待を遥かに超えている」
ジュリアンの声は低く、震えていた。
彼は恍惚とした表情で、月城が立っていた場所――何もかもを消し去った虚無の領域――を凝視している。
「暗黒聖女の浄化は、単なる浄化ではない。毒、病、呪い……それら低次元な不浄など論外。概念そのものを『消滅』させうる、究極の抹消権能だ。この個体が一人いるだけで、我が国の防衛概念は根底から覆る」
ジュリアンは恍惚とした面持ちで、俺の方へと向き直った。
「陛下。もはや物理的な城壁などという時代遅れの遺物は不要です。月城様こそが、この国にとって不落の、そして絶対的な『最強の盾』となるでしょう」
その言葉に教官や兵士たちがどよめき、月城への視線に「畏怖」が混じりだした。
だが、その静寂を切り裂いたのは、不満げな、鋭い声だった。
「……ちょっと!」
佐々木凛が、地団駄を踏んで前に出た。
「私の王室特等騎士はどうなるの!」
佐々木の瞳には、まだ消えぬ競争心が燃えている。
訓練所用の玉座に座る俺を真っ直ぐに見据え、彼女は縋るような視線を送った。
彼女は声を張り上げた。
「陛下はあんな風に言ったじゃない! 『すべてを焼き尽くせ』って! 私こそ、陛下の言うことを完璧に実行したはず! 私こそが『王室特等近衛騎士』にふさわしいはず!!」
激昂する佐々木に対し、月城陽菜がゆっくりと、不思議そうに首をかしげた。
彼女は白い指先をそっと唇に当て、小首をかしげた。。
「……あれ? 陛下は、『火を消して』とおっしゃっていたような」
きょとんとした月城の呟きは、確かに俺の本音を言い当てていた。
佐々木の顔は、一瞬にして真っ赤に染まり、怒りで激しく震え出した。
「月城様、素晴らしい御力ですわ」
王女フランシーヌは、月城に深い敬意を込めて一礼した。
しかし彼女の視線は、ちらりと俺へと向けられた。
俺がただ固まっているだけなのを確認し、彼女は満足げに微笑むと、目を細め、厳粛な「管理者の顔」に戻った。
「まさに我が国の至宝。あの圧倒的な浄化力、闇そのものが我が国の絶対的な防壁となります。ですが、今後の訓練においては、あえて消さずにおいていただいてよろしくてよ。……さて!」
フランシーヌがパチンと指を鳴らす。
「では、『王室特等近衛騎士』の選別を再開いたしましょう。陛下に認められた者には、至高の特権を」
彼女は張りのある声で宣言した。
その言葉が合図だった。
それまで縮こまっていたランクCの男子たちの目に光が灯った。
「次は本気出す! ランクCだが防御力はトップだから!」
「いやいや! 僕の物資管理能力こそが、国の利益、戦略的価値が大事っしょ!」
獲物を狙う個々の瞳が色づきはじめた。
「王室騎士! 僕こそがふさわしい! 最高級の装備に、個室、そして――あんなことや」
「ふざけんな! オレこそが特等騎士だ! 可愛いメイド最低三名、絶品グルメ!」
いさかいが始まる。
互いの肩を押し合い、罵声を浴びせ合い、欲にまみれた争いが、静寂だった広間を再び喧騒で塗り潰していく。
その中心で、佐々木凛が再び、手のひらに紅い炎を凝縮させ始めた。
彼女の瞳には彼らへの侮蔑が含まれているのを感じた。
彼女の手のひらに、再び赤熱するマグマのような火球が集まり始める。
(また燃やしはじめる……!? 俺のせい!? 今度は本当に城がなくなるのでは!?)
火柱の再来。城の本館消失の危機。
パニックが加速度的に高まってくる。
俺は、この醜く、騒がしく、そして危険すぎる争いを、今すぐ終わらせたかった。
目を閉じて、アレを使うしかない。
ただ、静かにしてほしい。誰も争わず、誰も燃やさず、ただ平穏に、布団の中で寝かせてほしい。
俺は、人生で最も切実な「拒絶」を込めて、目を閉じた。
「争いはやめて」
【スキル「ダメ人間」が発動しました】
「……喧嘩はやめて。俺のために、争わないで」
その声は、王の威厳など微塵もない、儚く消え入りそうな囁きだった。
うぬぼれた男が言いそうな、いや、どこぞのモテモテすぎて困っている女主人公が、自分を取り合う男子たちをなだめるような、しかしツッコミを待つような「ダメさ」に満ちた響き。
瞬間。
広間に、真空のような沈黙が訪れた。
「……あー」
【ダメ人間が感染しました】
競い合っていた男子たちの動きが、ピタリと止まった。
彼らの瞳から、先ほどまでのギラついた欲求が、急速に、そして呆気なく消え失せていく。
「……っていうかさ」
一人の男子が、ぽつりと呟いた。
「別に、そんな称号、いらなくね?」
我先にとアピールしていたランクCの男子の一人が、ふっと力を抜いて肩を落とした。
隣の男子が深く大きな溜息をつく。
「そうだよな。特等騎士とか、ただで貰えるなら貰うけど、わざわざ努力してまで取る?」
「わかる。わかる。もう今日は、授業終了でよくね?」
競っていた者たちが、一人、また一人と、動きを止める。
にぎやかだったはずの空間が「極度の倦怠感」に塗り潰されていく。
あんなに激しく炎を燃やしていた佐々木凛までもが、ふっと肩の力を抜いた。
彼女は手の中の火を、面倒くさそうに、ふーっと吹き消す。
「……そうね。どうせ私が陽菜や唯にかなうわけないし」
佐々木までもが、ぽてりとその場に座り込んだ。
「義務とか作業が増えるだけよね。無理。絶対無理」
燃え盛っていたやる気が、砂浜に撒いた水のように一瞬で消え失せる。
もはやそこには、野心も、競争心も、向上心もなかった。
みんな、やる気の欠片も残っていない。
「勇者の皆様方! しっかりなさい! 王室特等近衛騎士ですわよ!」
フランシーヌが必死に声を張り上げ、彼らの精神を鼓舞しようとする。
「王室! 特等! 近衛! 騎士!!」
だが、やがて彼女の叫びは、どろどろに溶けた無気力な空気の中に吸収され、消えていった。
「王室! と! 特等、この、えー、きし……あー。もうなんか、名前が長すぎですわ」
ついに、フランシーヌまでもが、ガクンと背中を丸めた。
彼女の瞳から、第一王女としての鋭い光が消え、ただの「眠い少女」の顔になる。
彼女は、ふぅ、とため息をつき、とろけるような微笑みを浮かべた。
「……そうですわね。もう、サロンでティータイムのお時間でしたわ」
彼女は、ふわりと俺の腕から離れると、あくびを扇子で隠しながら出口へと歩き出した。
訓練場の玉座で俺は力なく背もたれに身を埋めつつ思う。
(……助かった。今回も、なんとなく助かった)
俺はホッと胸をなでおろし、深く、深く、安堵のため息をついた。
無気力こそが世界を救うと言われたら、信じてしまいそうだ。




