第4話:私がいない夜、王都は暗闇に沈む
同時刻。捨てられた故国、ロスタンド王国。
王宮の廊下には、かつてない「死の静寂」が立ち込めていた。
「……冷たい」
王太子ジュリアンは、暗闇の中で自らの指先を見つめて呟いた。
暖房用の魔導回路は沈黙し、豪奢な石造りの宮殿は巨大な氷室へと変貌している。
窓の外を見れば、昨日まで宝石を撒いたようだった王都の夜景が、今は底なしの沼のように真っ暗だった。
「どういうことだ、財務官! 予備の魔石があるだろう! 今すぐ灯りを戻せ!」
ジュリアンの怒声に、老いた財務官が震えながら答える。
「そ、それが……。予備の魔石を購入するための『緊急予備費』の金庫が、開きません。エレナ様が施した魔導鍵の維持費が未払いで……セキュリティーが『強制ロック』をかけております」
「壊せ! 門を突き破るなりなんなりしろ!」
「不可能です! 無理にこじ開ければ、中身の金貨が全て融解する術式が組まれています! エレナ様は……『管理コストを支払わぬ者に、資産を保有する資格はない』と……!」
ジュリアンは、目の前のデスクを力任せに叩いた。
だが、そのデスクさえも、エレナが「資産整理」の一環として、既に隣国の商会に転売契約を済ませていたものだということを、彼はまだ知らない。
彼らが「地味な事務作業」と蔑んでいたものは、この国の心臓の鼓動そのものだったのだ。
◇
一方、ヴァロア帝国の財務卿官邸。
私は、淹れたての温かい紅茶を口に含み、目の前の「山」を眺めていた。
山――といっても、土砂ではない。
帝国全土から集められた、数年分の中央帳簿の写しだ。
「……なるほど。これが帝国の『贅肉』ですか」
カシアン・ド・ヴァロアは、執務机に深く腰掛け、私に冷ややかな視線を送っている。
「どうだ。三十分で読み終えると言ったが、既に二十五分経過している。君の言う『一分につき金貨十枚』の価値は、今のところ証明されていないな」
「あと一分、お待ちいただけますか。……はい、終わりました」
私は最後の一葉を閉じ、銀のペンを置いた。
脳内では既に、数千万行に及ぶ数字が最適化され、一つの「答え」を導き出している。
「カシアン卿。帝国は表向き、潤沢な黒字を計上しています。……ですが、この『第七軍事拠点』への補給路。ここだけで、年間三億ゴルドの『幽霊損失』が出ていますね」
カシアンの眉が、わずかに動いた。
「……幽霊損失だと?」
「ええ。輸送ギルドが提出している馬糧の単価が、市場価格より4%上乗せされています。さらに、輸送途中の『事故による廃棄』が統計学的に不自然な頻度で発生している。……おそらく、輸送ギルドの長と、拠点の物資担当官が、結託して横流しを行っていますね」
「……」
「証拠なら、この帳簿の三十二ページ、物品税の還付申請書にあります。偽装工作が杜撰です。……カシアン卿。私を雇うなら、まずこの三億ゴルドを『回収』してみせましょうか?」
カシアンは無言で立ち上がり、私の手元から帳簿を奪い取って確認した。
数分後。彼は帳簿をデスクに叩きつけ、低く笑った。
「……面白い。帝国の監査官が三年間見逃していた綻びを、君は三十分で見抜いたというわけか。……いいだろう。この件の全権を君に委ねる。ただし、失敗すれば君を『詐欺罪』で王国へ送還する。異論はないな?」
「成功報酬として、回収額の5%を頂けるなら。……それから」
私は立ち上がり、窓の外――はるか遠く、暗闇に沈んでいるはずの故国の方向を指差した。
「回収した資金で、王国との国境付近にある『廃坑道』を買い取らせてください。……あそこには、王国が捨てた『最後の希望』が埋まっていますから」
カシアンの瞳に、獲物を見つけた猛獣のような光が宿る。
「……君は、あそこまで買い叩くつもりか。エレナ」
「いいえ。私はただ、適切な価値を、適切な場所に配置し直すだけですわ」
その夜、帝国の闇の中で、密かな「軍議」が始まった。
剣でも魔法でもない。
帳簿と、ペンと、冷徹な計算による――大陸経済を呑み込む、最初の一手。
私は手帳を開き、新しいページにこう記した。
『帝国第一期・資産運用計画:ターゲット、輸送ギルド。回収予定額、三億ゴルド。……残業代としての価値は、十分ですわね』
私の眼鏡の奥で、数字が黄金色に輝いた。
お読みいただきありがとうございます。
暗闇に沈む王国と、新天地で牙を剥くエレナ。
「幽霊損失」という名の不正を暴き、彼女の帝国内での「立場」が急速に構築され始めました。
さて、次回。
エレナはたった一人で、不正の巣窟である輸送ギルドへと乗り込みます。
彼女が手にするのは、武器ではなく、たった一枚の「領収書の控え」。
「帳簿の聖女」による、最初の経済的断罪が始まります!
第5話「路銀は『敵の無能』を売って稼ぎます」
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