第20話:旧王国の亡霊たち:かつての騎士団長が、跪いてパンを乞う
「――騒々しいですね。朝のコーヒーの香りが、民衆の怒号で台無しですわ」
翌朝。帝都ヴァロアの中央銀行、最上階の執務室。
私はバルコニーから、眼下の広場を眺めていた。
昨日まで「魔力塩」の白い光に沸いていた民衆が、今は一転して、閉ざされた食料品店の扉を叩いている。
セシル枢機卿による『絶縁(破門)』。
教会の息がかかった商会が一斉に商品を隠し、物流を止めた。
市場の「在庫」が消え、不安という名のインフレが帝都を侵食し始めている。
「エレナ。君が昨日、枢機卿を煽ったおかげで、帝都の物価は一晩で三割跳ね上がったぞ」
背後で、カシアンが苛立たしげに革の椅子を回した。
彼の目の下には僅かな隈があり、その指先は無意識にポケットの懐中時計に触れている。
時計の針が動き出したことへの焦燥――。
彼はそれを、怒りという名のヴェールで隠しているようだった。
「想定の範囲内です。……カシアン卿、パニックは最高の『投資機会』。……民衆が絶望のどん底まで落ちた時こそ、私の新しい『商品』が最も高く売れますわ」
「商品だと? パンも魔石も届かないこの状況で、何を売るつもりだ」
「『信用』ですわ。……それから、不足している『人手』も少々」
私がそう答えた瞬間、執務室の重厚な扉が叩かれた。
入ってきたハンスの表情は、いつになく険しい。
「……お嬢様。例の『亡霊たち』が、裏口に現れました。……あまりに無様で、衛兵が処刑するか迷っております」
「通しなさい。……私の計算では、彼らはまだ『償却』するには早い資産です」
◇
部屋に入ってきたのは、数人の男たちだった。
泥に汚れ、鎧はひび割れ、かつての威厳はどこにもない。
その先頭に立つ男を見て、私の眼鏡が冷たく光った。
「……お久しぶりですね、ガストン団長」
旧ロスタンド王国、近衛騎士団長ガストン。
かつて私を『国家反逆』の罪で拘束しようとし、王都の門で道を塞いだ男だ。
彼は私を直視できず、床に膝をついた。
その拳は、屈辱と空腹で震えている。
「エレナ……。いや、エレナ様……」
掠れた声。
「王国は、滅びた。……ジュリアン殿下が『血の契約』で暴走し、王都が崩壊した後、我ら騎士団は行き場を失った。……帝国へ亡命しようとしたが、教会による『封鎖』のせいで、街道の宿屋一つ使わせてもらえん……」
ガストンは、額を床に擦り付けた。
騎士としての誇りも、国への忠誠も、空腹という名の「現実」の前には一文の価値も持たなかった。
「部下たちが、三日もまともに食べていないのだ。……どうか、パンを。……施しを、いただけないだろうか……」
「施し、ですか」
私は、デスクの上に置かれた、焼きたてのクロワッサンが盛られた皿を指差した。
芳醇なバターの香りが室内に広がり、ガストンたちの喉が、ごくりと音を立てて鳴る。
「ガストン卿。私は会計士です。……私の帳簿に『無償の提供』という項目はございません」
「……っ、分かっている! だが、今の俺たちには、支払える金も、差し出せる領地もない……!」
「いいえ。あなたたちにはまだ、優れた『暴力』という名の労働力が残っています。……現在の帝都は、教会の煽りを受けた暴徒のせいで、警備コストが急騰している。……ガストン卿。あなたたちの命、私が『時給』で買い取って差し上げますわ」
カシアンが、眉をひそめて立ち上がった。
「……エレナ。王国の残党を雇うというのか? こいつらは、かつて君を殺そうとした連中だぞ」
「カシアン卿。過去の怨恨は『減価償却』済みです。……今の彼らは、どこの組織にも属さない、最も買い叩きやすいフリーランスの戦力。……これを活用しないのは、経営者として怠慢ですわ」
私は、ガストンの目の前に一枚の契約書を投げ出した。
「条件はこうです。……私の私兵として、帝都の主要貯蔵庫を警備すること。対価は、一日三食の温かい食事と、帝国での身分保証。……ただし、契約期間内の休暇は認めません」
ガストンは、震える手で契約書を拾い上げた。
「……食事と、身分……。それだけでいいのか?」
「それ『しか』出しません、と言っているのです。……不満なら、今すぐ外へ出て、教会の慈悲を求めて祈りなさい。……もっとも、彼らがパン一枚のために、あなたたちの『不良債権』を引き受けるとは思えませんが」
ガストンは、悔しげに唇を噛み締め――。
そして、私の靴先に向かって、深く頭を下げた。
「……承知した。……エレナ様の仰せのままに。……我々の命、お買い上げいただく」
私は、皿に乗ったパンを一つ、ガストンの前に転がした。
「前払いです。……しっかり働きなさい。……あなたの残業代で、王国の負債を少しずつ返済していただきますわよ」
◇
ガストンたちが部屋を去った後、私はカシアンに向き直った。
彼はまだ、信じられないものを見るような目で私を見つめている。
「……本当に、君という女は。……復讐さえも、利益に変えてしまうのか」
「復讐ではありません。……再利用です」
私は手帳を開き、新しいページに『帝国独自通貨・発行計画』と記した。
「カシアン卿。……物流を止める教会のネットワークなど、もう不要です。……明日、教会の金貨を一切使わない『帝国新紙幣』を発行します。……名前は、そうですわね。……『エレナ紙幣』とでも呼びましょうか」
「……何だと?」
「教会の破門を逆手に取り、帝国の経済を教会から完全に切り離す。……神の介入できない、私だけの経済圏を構築しますわ。……カシアン卿。私への投資、さらに増額する準備はよろしくて?」
私は、銀の懐中時計をパチンと閉じた。
教皇庁。セシル枢機卿。
あなたたちが市場を閉ざすなら、私は市場そのものを創り替える。
清算のカウントダウン。
神の権威が、紙屑に変わる瞬間を、特等席で見せて差し上げますわ。
お読みいただきありがとうございます!
かつての敵・ガストンをパン一つで雇い、さらに「独自通貨」を発行して教会に宣戦布告するエレナ。
「復讐ではなく再利用」という言葉に、彼女の冷徹な知性が凝縮されていますね。
さて、次回。
ついに発行される新通貨「エレナ」。
教会の破門によってパニックになった民衆は、神の金貨を捨て、エレナの紙切れを奪い合うことに……。
一方、セシル枢機卿が放つ「次なる刺客」は、エレナの過去を知る意外な人物でした。
第21話「教会の不渡り:奇跡に値段をつけた女」
「ガストンの没落ぶりがスカッとした!」「新通貨発行の展開にワクワクする!」
そう思っていただけましたら、ぜひ下の【★★★★★】と【ブックマーク】で、エレナの「新経済圏」を応援してください!
皆様の評価が、新紙幣の信頼残高を押し上げますわ。




