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私は親友と一緒に転生しました  作者: Black Spice/ブラック・スパイス
魔法の習得
9/11

巨獣襲来

 いつものように、冒険者ギルドのホールは話し声で満ちていた。


 中はいつも通りの人混みだった。

 冒険者たちはテーブル席を埋め、壁にもたれ、依頼掲示板の近くに集まっていた。


 ホール全体には、木と鉄、革と汗、そして安っぽい食べ物の匂いが混ざり合っていた。


 騒がしい。


 活気がある。


 何かがおかしいと気づいている者は、誰もいないようだった。


「依頼が片づいていないとは、どういうことだ?」


 その声は、大きな机の向こうから聞こえてきた。


 そこには、椅子が窮屈そうに見えるほど大柄な禿げ頭の男が座っていた。

 シャツは彼の分厚い筋肉に今にも負けそうなほど張り詰めており、まくり上げられた袖からは、ベテラン冒険者であることを物語る傷跡だらけの前腕がのぞいていた。


 彼は自信たっぷりに言った。


「ヴィスマギアで活動している冒険者の数を考えれば、そんなことはあり得ん」


 そう言いながらも、彼は机の上のフォルダーに書き込みを続けていた。

 まるで、目の前の女が持ち込んだ問題など、些細な面倒事に過ぎないと言わんばかりに。


「本当の問題は何だ?」


 彼が尋ねた。


 女の表情が引き締まる。


「私が言っているのは、Sランク依頼のことです。この知ったかぶり」


 彼女は手にしていたファイルを机に叩きつけた。

 その衝撃で、短い茶色の髪が顔の周りで跳ねる。


「それと問題は、人の話を最後まで聞く前に、得意げな顔で知ったような口を利くあなたの方です!」


「分かった、分かった」


 禿げ頭の男は両手を上げた。


「分かったから、落ち着け、キエラ」


 言葉だけなら降参しているようだった。だが、その見下したような声はまったくそうには聞こえなかった。


 キエラの眉がぴくりと動く。


 彼はそれに気づいた。

 そして、おそらく賢明にも、少しだけ背もたれに身を引いた。


 表情が、いくらか真面目なものになる。


「それで、うちのSランクたちはどこにいる?」


 キエラは彼をじっと見つめた。

 しばらく何も言わない。


 それから、ゆっくりと身を乗り出した。


「教えてください、ギルドマスター・シュガル……」


 二人の顔は、今や数センチしか離れていなかった。

 彼女の薄茶色の瞳が鋭く彼を射抜き、体格では圧倒しているはずのシュガルが、叱られた犬のように身を引いた。


「六か月前のことを、覚えていますか?」


「六か月前?」


 シュガルが聞き返した。


「レイナが依頼を終えて、機嫌よく元気いっぱいでここへ来た時のことです」


「うむ……」


 シュガルは視線を横へ逸らした。


「覚えていない」


 キエラの目が細くなる。


「どこかのギルドマスターが、彼女に一年の休暇を与えた記憶があるのですが」


 彼女は机の端に片膝を乗せ、シュガルの頬に手のひらを添えた。

 その触れ方は、優しかった。


「思い出しましたか?」


 シュガルは彼女を見ないようにした。


 失敗した。


 彼の目は彼女の顔へ向き、それから半秒だけ下へ落ち、すぐにまた上へ戻った。


 キエラの笑みが鋭くなる。


 そして、彼女は声を柔らかくした。


「ほら……言ってみてください」


 シュガルの顔から、ゆっくりと威厳が失われていった。

 目元は最悪の方向に緩み、口元には馬鹿げた笑みが広がる。


「……俺だ」


 その告白は、先ほどまで堂々と話していた男と同一人物とは思えないほど、弱々しく間の抜けた声で出てきた。


 キエラの笑みが消えた。


 額に青筋が浮かぶ。


「……やっぱり」


 彼女は、今まで撫でていたその頬をつねった。


 強く。


「痛い痛い痛い!」


「あなたのせいです」


「分かった! 分かった! 認める!」


 そこでようやく、彼女は手を離した。


 シュガルは傷ついた尊厳を抱えるように、頬をさすった。


「まさか、それを俺に使うとはな」


 キエラは腕を組んだ。


「あなたは時々、妙に頑固になりますから……どうにかして答えを引き出す必要がありました」


 そして、彼女の表情が再び鋭くなる。


「では、説明してください」


 シュガルは大きくため息をついた。


「……分かった」


 彼は椅子に深くもたれ、先ほどより真面目な目で彼女を見た。


「ちゃんと理由はあった。レイナは引退するつもりだったんだ」


 キエラが瞬きをする。


「引退、ですか?」


「ああ」


 シュガルの声から、いつもの軽薄さが少し消えた。


「本気だった。だから俺は、引退をそのまま受け入れる代わりに、休暇を提案した」


 キエラの苛立ちが、わずかに薄れる。


「……どうしてそれを言わなかったのですか?」


「忘れていた」


 キエラは彼を見つめた。


「……」


「Sランク依頼は滅多に出ないからな」


 シュガルは慌てて付け加えた。


「大丈夫だと思ったんだ」


 キエラは彼を見つめた。


「Sランク冒険者の方が、もっと滅多にいませんけどね」


 彼女は再びファイルを拾い上げ、開いた。


 そして、書類の束で軽く叩きながら、どうにかそれで彼を殴らないよう必死にこらえているような目でシュガルを見た。


「この期限を過ぎた依頼たちは、どうするつもりですか?」


 彼女が尋ねた。


「もっと早く言ってくだされば、新しい候補者の育成を始めるなり、外部から支援を手配するなりできたはずです」


 シュガルは顎をかいた。


「……ゼコーンはどこだ?」


 キエラの顔から表情が消えた。


「ゼコーン?」


 彼女は、答えなど分かっているでしょう、と言わんばかりの目で彼を見る。


「あの人が一か所に留まらないことくらい、あなたもよくご存じでしょう。彼がこのギルドに最後に足を踏み入れてから、もう二年になります」


 シュガルは椅子から立ち上がった。


 彼が机を回り込んで彼女の方へ歩くと、その重みで床板がきしんだ。

 近くに立つと、キエラは実際よりも小さく見えた。

 彼女が背が低いとか、細いというわけではない。

 シュガルが、ほとんどの人間より大きすぎるだけだった。


 彼は彼女の手からファイルを受け取り、中身に目を通し始めた。

 視線がページの上を動くたびに、口の中で何かをぼそぼそと呟いている。


 キエラはしばらくそれを見ていたが、やがて疲れたように息を吐いた。


「……私たちの慢心でもありますね」


 シュガルが彼女を見る。


「二人の異常者に頼りすぎました」


 彼女は続けた。


「レイナとゼコーン。本来なら一つの部隊が必要な問題を、一人で片づけてしまうような二人に」


 彼女は再び腕を組んだ。


「そして今、その二人がどちらも動けないせいで、私たちは追い込まれている」


 シュガルは反論しなかった。


 彼女の言う通りだったからだ。


 長年、ヴィスマギアのギルドは、近くに二人の異常なSランク冒険者がいる恩恵を受けてきた。


 そのおかげで、皆が楽を覚えてしまった。


 そして今、その楽さが問題になっていた。



 シュガルは読み続けた。


 そして、一つの依頼が目に留まる。


「ん?」


 眉をひそめた。


「この依頼を出したのは誰だ?」


 キエラが身を寄せる。


「高そうな服を着た男性です」


「……」


 シュガルはその答えに納得していない様子で、彼女を見つめた。


 すると、キエラが付け加える。


「名前も身元も残していません」


 二人はファイルを見つめた。


 読み進めるほどに、シュガルの眉間のしわは深くなっていく。


「Sランク冒険者が必要な理由は分かるな」


 彼は言った。


 そして、ある一行で視線が止まる。


「……ゼウスの森」


 キエラの表情がわずかに変わった。


 シュガルは顔を上げ、彼女を見る。


「だが、なぜわざわざレイナを指名している?」


 キエラも同じように困惑した顔で、彼を見返した。


「分かりません」


 彼女は肩をすくめた。


 シュガルは再び紙へ視線を落とす。


 その依頼は奇妙だった。


 そして、ゼウスの森が関わるものは、決して単純ではない。


 誰がこの依頼を出した?


 シュガルはそう思った。


 彼は依頼書を見つめ続ける。


 特級依頼は、決して単純ではない。


 名目上はSランク依頼だが、それが必ずしもSランク冒険者しか受けられないという意味ではない。

 中には、下位ランクにも形式上は開かれているものもある。


 その冒険者たちが、挑むだけの愚かさ――あるいは自信を持っているなら、の話だが。


 そして、特定のSランク冒険者を名指しで求める依頼は、たいていの場合、依頼主がギルドの知らない何かを知っていることを意味していた。


 それだけでも、その依頼は怪しい。


 ましてや、目的地がゼウスの森ならなおさらだ。


 シュガルはファイルを半分閉じ、キエラをちらりと見た。


「とりあえず……」


 そこで、彼は止まった。


「ん?」


 キエラも動きを止めた。


 しばらくの間、二人とも動かなかった。


 空気が変わっていた。


 頭が理解するより先に、身体が反応していた。


 奇妙な圧が、ギルドホール全体に広がっていく。

 目には見えないのに、重い。

 肌を押さえつけ、肺の奥へ沈み込み、世界そのものがわずかに傾いたような感覚を与えてきた。


 シュガルの表情が険しくなる。


「感じたか?」


 キエラの顔も引き締まった。


「はい」


 つい先ほどまで話し声で満ちていた活気あるギルドホールが、崩れ始めた。


 誰かの手からジョッキが滑り落ち、床に当たって砕ける。


 治療師がテーブルの端を掴み、視界をはっきりさせようとするかのように強く瞬きをしていた。

 魔術師がうつむき、片手を胸に押し当てる。

 重装備のタンクが一度身体を揺らし、それから大きな軋みを立てて椅子に腰を落とした。


「何が起きてるんだ?」


「めまいが……」


「おい、大丈夫か?」


 混乱は瞬く間に広がった。


 つい先ほどまで笑っていた冒険者たちが、その場でふらつき始める。

 テーブルにもたれる者。

 壁や椅子の背を掴み、よろめきながら身体を支える者。


 これは攻撃ではなかった。


 爆発もない。


 扉を破って魔物が入ってきたわけでもない。


 目に見える魔法もない。


 だからこそ、余計に悪かった。


 解決すべきものが見えない。


 止めるべきものが見えない。


 シュガルは机から離れ、自分の椅子の後ろにある窓へ向かった。


 窓を開け、身を乗り出す。


「何だ……こりゃ」


 キエラもすぐに彼の隣へ来た。


 外の通りは、様子が変わっていた。


 人々の足が遅くなっている。

 立ち止まっている者もいた。

 困惑した顔で、頭や胸に手を当てている。


 屋台の商人が、倒れかけるように屋台へ寄りかかった。

 荷車を引いていた馬が不安げに足踏みし、何かを振り払おうとするかのように頭を振っている。


 その時、一人の老婆が倒れた。


「おばあちゃん?!」


 子供の叫び声が、通りを切り裂いた。


「おばあちゃん、起きて!」


 キエラの指が、窓枠を強く掴む。


「何が起きているのですか?」


 彼女は尋ねた。


「まるで、身体からマナが吸い出されているように見えます」


 シュガルはすぐには答えなかった。


 下にいる人々へ視線を走らせ、それから空へと目を上げる。


 そして、そこで――それを見た。


 細いマナの筋。


 魔法の四大属性を示す、異なる色のマナ。


 それらは、見えない手に引かれる糸のように空中を流れ、すべて同じ方向へ向かっていた。


「違う」


 シュガルが言った。


 キエラが彼を見る。


「え?」


「人間から吸い出されているわけじゃない。少なくとも、直接ではない」


「どういう意味ですか?」


「上を見ろ」


 キエラは視線を空へ移した。


 それを見た瞬間、彼女の表情が変わる。


 色の流れはかすかだった。


 だが、見間違えようがなかった。


 マナが周囲の大気から離れ、細く長い流れとなって町の外へ流れていく。


 シュガルは目を細めた。


「空気中のマナが引き抜かれている。周囲の生き物たちは、その空白を埋めるためにマナを放出しているんだ」


 キエラは息を呑むように見つめた。


「つまり、引き抜かれているのは遊離マナ……」


「ああ。そして、マナを宿すものすべてがそれに反応している」


 シュガルは言った。


「人間も、動物も、植物もだ。周囲からマナが失われる速度が速すぎる」


 キエラは再び通りへ目を落とした。


 弱っていく者が増えていた。


 最初に影響を受けているのは、老人や訓練を受けていない市民たちだった。

 立っていられる冒険者もいたが、それでも動揺は隠せない。

 マナの制御に優れた者たちは症状に耐えられているようだったが、無視できているわけではなかった。


「なぜ、私たちはここまで影響を受けていないのですか?」


 キエラが尋ねた。


 シュガルは一瞬ためらった。


「……おそらく、俺たちの方がマナ制御に優れているからだ」


「おそらく?」


「おそらくと言ったのは、俺にも分からんからだ」


 珍しく、その声に得意げな自信はなかった。


 それが、状況をさらに悪く感じさせた。


 外の空気は、まだざわついていた。


 頭上では、マナの流れが一つの場所へ引き寄せられるように流れ続けている。


 キエラは目を細めた。


 次の瞬間、彼女の瞳が変化する。


 水晶のような光が瞳に広がった。


 澄んでいて、鋭い光。


 彼女の前にある距離が崩れ落ちたかのように、町も、道も、その向こうの開けた土地も、すべてが視界の中へ引き寄せられていく。


 彼女はマナの流れを追った。


 そして、息を呑む。


「シュガル」


 彼は彼女を見た。


「何だ?」


「見てください」


 彼女は指を差した。


 シュガルはその指の先へ目を細める。


「何だ? 俺には何も見えん」


「レイナ様の屋敷です」


 キエラの声には、苛立ちと警戒が混ざっていた。


「マナは、レイナ様の屋敷へ流れています」


「何だと? レイナの……?」


 彼は、彼女がそこまで遠くを見られることを忘れていたかのように、キエラを見た。


 キエラは舌打ちした。


「本当に役に立たない人ですね。今すぐ向かうべきです」


「何が見えた?」


 彼女の顔が険しくなる。


「中庭に、巨大な猪がいます」


 シュガルの目が見開かれた。


「巨大な猪だと?」


 キエラはすぐには答えなかった。


 彼女の視線は遠くに固定されたまま、表情は一秒ごとに深刻さを増していく。


 同時に、同じ考えが二人の頭をよぎった。


 レイナの屋敷で、いったい何が起きている?


 ※※※


 猪は崩れた壁を抜けて、こちら側へ踏み込んできた。


 胸の奥が重く沈んだ。


 私は本物の相手が欲しかった。


 だが今、私は怪物を屋敷へ連れてきてしまったのだ。


 その身体は巨大だった。


 森の中で追われていた時に見えたものより、間近で見るとずっと大きい。


 分厚い毛が全身を覆い、牙は白い刃のように前方へ湾曲している。


 息を吐くたびに、巨大な鼻孔から蒸気が漏れた。


 その息が吹きつけるたび、目の前の草がしなった。


 しばらく、誰も動かなかった。


「……何?」


 レイナはその魔物を見つめていた。


 初めて、その顔に驚きが走る。


 だがすぐに、目が細められた。


 鉄牙猪?


 なぜ、こんなところにいる?


 マリアダも近くに立ったまま、同じように動けずにいた。


 その目は、信じられないものを見たように見開かれ、緊張を帯びている。


 ヴェーダは倒れた場所に座り込んだまま、身体が動くことを忘れてしまったかのように、魔物を見つめていた。


 その時、レイナの視線が私へ移る。


「クライ……」


 その声は落ち着いていた。


 この状況には、あまりにも落ち着きすぎていた。


「なぜ、あの魔物がここにいるの?」


「……わ、分かりません……森から、急に追いかけてきたんです」


「……」


 レイナは向こう側に立っていた。


 だが、私の位置からでも、その表情が苛立ちに歪むのが見えた。


 彼女はそれ以上何も言わず、視線を魔物へ戻した。


 次に、マリアダが私を見た。


 彼女の視線は、まず私の身体を丁寧に追った。


 怪我がないかを確認している。


 その瞬間、彼女の表情は中立だった。


 私が生きている。


 彼女にとっては、それが何より重要だったのだろう。


 だが次の瞬間、彼女は私の髪に気づいた。


 小さく息を呑む音が、彼女の唇から漏れた。


 レイナがそれに気づく。


「どうしたの?」


 彼女はマリアダへ顔を向けた。


「……なぜ、クライの髪が……」


 マリアダは言い終えなかった。


 その前に、猪が巨大な鼻孔から長く息を吸い込んだ。


 そして、咆哮した。


 その音が中庭を切り裂いた。


 ただ大きいだけではない。


 身体の内側へ押し入り、骨を震わせ、神経を凍らせるような音だった。


 ヴェーダは耳を塞ぎ、歯を食いしばった。


 だが、もう遅かった。


 動けない……


 彼女の顔が青ざめる。


 咆哮が終わった後も、彼女は恐怖に縛られたまま地面に座り込んでいた。


 猪は頭を下げ、完全に私の方へ向き直った。


 私はそれを見返し、剣を握る手に力を込めた。


 猪が一度、息を吐く。


 熱い空気が地面を這うように広がった。


「突進してくるわ」


 レイナが言った。


 彼女が何かをするより先に、私はすでに動いていた。


 猪へ向かって、まっすぐ走る。


「あ……」


 レイナは、自分の目を疑っているような顔をしていた。


 猪は重い一歩で応えた。


 地面が揺れる。


 そして、もう一歩。


 突進してきた。


 レイナは両手のひらを地面に叩きつけた。


「馬鹿! 避けなさい!」


「え?」


 その叫びに、私は半秒だけ気を取られた。


 その半秒が、ほとんど致命的だった。


 レイナの手のひらから氷が広がり、猪と私の間の中庭を駆け抜ける。


 分厚い氷の壁が二枚、地面から噴き上がるように現れ、魔物の進路を塞いだ。


 猪は一枚目の壁に激突した。


 砕けた。


 次に、二枚目。


 それも、ほとんど同じ速さで壊された。


 私が前を見直したときには、猪はすでに目の前にいた。


 考える時間はない。


 避ける時間もない。


 残されたのは、斬ることだけだった。


 私は持てる力のすべてを込めて、猪の鼻先へ剣を振り下ろした。


 刃は当たった。


 そして、弾かれた。


 硬く、不快な振動が両腕を駆け上がる。


「な――?」


 猪の牙が下から跳ね上がった。


 その衝撃が私を捉え、空中へ吹き飛ばす。


 一瞬、世界が回った。


 私は空中で無理やり体勢を立て直し、どうにか足から着地した。


 地面を少し滑る。


 だが、猪はすでに向きを変えていた。


 攻撃は終わっていない。


 あの巨体に似合わない速さで、再び私へ突っ込んでくる。


 口が大きく開いた。


 噛みつくつもりだ。


「まず――!」


 私は反射的に両腕を上げ、目を閉じた。


 そんなことをしたところで、助かるはずもないのに。


 聞こえたのは、巨大な何かが硝子を叩いたような、鋭く大きな衝撃音だった。


 目を開けると、私の前にマリアダが立っていた。


 両腕を上げている。


 彼女と猪の間には、幾重にも重なった六角形の模様で形作られた結界があった。


 魔物が押しつけるその結界は、淡く光っている。


「メアリーさん……」


「大丈夫ですか?」


 彼女は両腕を上げたまま、横目で私を見て尋ねた。


「……は、はい。メアリーさんのおかげで」


「よかった」


 私はきちんと立ち上がり、彼女の隣へ移動した。


 それでも、頭を結界に何度も叩きつける猪から目は離さなかった。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 そのたびに、六角形の模様が震える。


 だが、結界は保っていた。


「どうしてこの魔物、こんなに強いんですか? あの猿たちとは全然違う」


 マリアダの視線が私へ移った。しばらくの間、彼女の表情が固まった。


「待って……」


 私は彼女を見た。


「ランブルテイル・モンキーと戦ったのですか?」


 そういう名前なのか。


 そんな考えが頭をよぎった。


 最初、私はその問いの重さを理解していなかった。だから、軽く答えてしまった。


「はい……」


 私は視線を猪へ戻した。


「あいつらは面倒くさかっただけで、強くはありませんでした。こいつとは違います」


 マリアダは黙り込んだ。


 その沈黙は、私がたぶん言ってはいけないことを口にしたのだと気づくには、十分な長さだった。


 私はゆっくりと彼女の方へ顔を向けた。


「……あ」


 彼女の表情は変わらない。


「待ってください。今のは……その、私は――」


 言葉が続かなかった。


 私はただ彼女を見つめるしかなかった。魔物に襲われている最中に説教を始めないでほしいと願いながら。だが、マリアダはただ前を向き直った。


 まずい。


 私の顔から血の気が引いた。


 いつもなら、もうとっくに叱り始めているはずだ。それなのに何も言わないことが、なぜかずっと怖かった。


「無事でよかったです」


 彼女は静かに言った。


 それは、叱られるよりも重く響いた。


 それから、彼女の声は再び戦いへ意識を戻したものになった。


「ランブルテイルは、数がいるから危険なのです。連携を崩せれば、生き残ることはできます」


 彼女は猪を見つめながら目を細めた。


「ですが、この魔物は違います」


 猪が再び牙を結界にこすりつけ、表面に火花と光の亀裂を走らせた。


 マリアダの表情が引き締まった。


「これは、カリュドールと呼ばれる鉄牙猪です」


 彼女はゆっくりと息を吸った。


「対処が難しい魔物です。ほとんどの攻撃は、まともな傷になりません……ですが、今はやるしかありません」


 彼女の視線は魔物に固定されたままだった。


 私は少しだけ頭を下げた。罪悪感が胸を押し潰す。


 私が、こいつを屋敷へ連れてきてしまった。


 マリアダはそれに気づいた。だが、私を責めなかった。代わりに、その時の私に一番必要だったものをくれた――安心だった。


「何をするにしても」


 彼女は言った。


「突進を受け止めようとしてはいけません」


 私は顔を上げた。


「それから、一直線に逃げようとしてもいけません」


 その声は落ち着いていた。だが、そこに甘さはなかった。


「分かりましたか?」


「はい、メアリーさん」


 私はすぐに頷いた。


 状況は最悪だったが、少しだけ気持ちが明るくなった。


 少なくとも今は、指示がある。


 従うべき、はっきりしたものが。


 私は再び前を向き、剣を握る手に力を込めた。


 ほんの一瞬、マリアダが小さく微笑んだ。


 だが、すぐにその笑みは消えた。


 彼女の視線が私の髪へ戻ると、そこには心配が浮かんでいた。


 あの子から感じるマナが多すぎる。


 でも、安定はしている……


 彼女がさらに考える前に、私は口を開いた。


「今、何をしてるんですか?」


 マリアダは前を見た。


 カリュドールは結界から後ろへ下がっていたが、視線は私たちに固定されたままだった。


 そして、頭を下げ、地面を前足でかいた。


 一度。


 二度。


 三度。


 蹄の周りで、砂埃と緩い土が舞い上がる。


 だが、それは自然に落ちなかった。


 土は魔物の身体にまとわりついた。


 鼻先と牙の周りへ集まり、分厚い泥の膜のように覆っていく。


 やがて、その泥が黒ずんだ。


 牙が、鈍い金属の光沢を帯び始める。


 マリアダの目が見開かれた。


「身体を強化しています」


 彼女が言った。


 カリュドールが突進した。


 今度の突進は、より速く、より重かった。


 蹄が地面を打つたびに中庭が揺れ、金属をまとった牙は空気を切り裂きながら、摩擦で赤く焼けていく。


 マリアダが息を呑んだ。


「速くなりすぎています」


 そして、叫んだ。


「跳んでください! 今すぐ!」


 私は何も聞き返さなかった。


 横へ跳び、彼女の結界の後ろから身を投げ出す。


 その一呼吸後、カリュドールが結界へ激突した。


 結界は砕けた。


 六角形の光の破片が、割れた硝子のように外へ弾け飛ぶ。


 マリアダは危険の真正面に立っていた。


 だが最後の瞬間、彼女は自分自身を薄い結界で包み込んだ。


 守られてはいた。


 それでも、彼女は弾き飛ばされた。


 幸い、軽い傷だけで済んだ。


 猪は、私たちが立っていた場所を突き破り、そのまま中庭の噴水へ激突した。


 石が割れた。


 水が上へ弾け飛ぶ。


 土埃と砕けた石が地面に散り、水が中庭へ自由に流れ出していく。


 私はその破壊を見つめた。


 もしあそこに残っていたら、私は押し潰されていただろう。


 カリュドールは、崩れた噴水の方からゆっくりと向き直った。


 その目が、再び私を捉える。


 なんで、いつも私ばかり狙うんだ?


 胸の奥に苛立ちが込み上げた。


 猪は再び頭を下げた。


 突進してくるつもりだ。


 私は剣を握る手に力を込め、一歩前へ出た。


 今度は、何も考えずに突っ込んでいるわけではない。


 受け止めるのが無理で、まっすぐ逃げるのも無意味なら、斜めから攻めるしかない。


 私が思いつける答えは、それだけだった。


 カリュドールが突進する。


 私も走った。


「クライ!」


 マリアダが止めようと呼びかけた。


 だが、私はもう動いていた。


 彼女はレイナの方を見る。


「レイナ様! まだですか?」


 レイナは中庭の端に立ち、目を閉じて、周囲の場に意識を集中させていた。


 水が広がっている。


 最初はゆっくりと。


 それから、地面へ流れ出した噴水の水と混ざり、速度を増していった。


 中庭の草が濃く湿る。


 石畳が光る。


 舗装の隙間を、細い水の流れが走っていた。


「あと数秒!」


 レイナが叫び返す。


「ちっ」


 マリアダは私を追って走った。


「私が足止めします」


 隣に追いつきながら、彼女が言った。


「分かりました」


 私は走り続けた。


 カリュドールはすさまじい勢いで迫ってくる。


 マリアダは速度を落とし、両手を前へ掲げた。


「ブラック・アイギス」


 カリュドールの前に、分厚い円形の結界が現れた。


 先ほど使った結界とは違う。


 それは、もっと暗かった。


 もっと深い。


 濃密な紫色の壁が、一点に圧縮された盾のように立ちはだかっていた。


 カリュドールは速度を落とさない。


 全体重を乗せて、ブラック・アイギスへ激突した。


 衝撃が中庭を揺らす。


 鉄をまとった牙が結界を削り、紫の表面に火花を散らした。


 マリアダは歯を食いしばる。


 足が後ろへ滑った。


 だが、結界は保っていた。


 私は走り続けた。


 結界の前まで辿り着いた瞬間、跳んだ。


 マナ・ビルドが脚を駆け巡り、私の身体を上へ押し上げる。

 私は空中で身体をひねり、カリュドールの頭を狙って剣を振り下ろした。


「これで終わりだ!」


 私は刃を、その左目へ突き立てた。


 カリュドールが悲鳴を上げる。

 頭を激しく振り乱し、その力で剣が私の手から引き剥がされそうになった。


 刃は脳に届くほど深くは入っていない。

 だが、確かに弱い場所を突いた。


 私はしがみついた。


 カリュドールは再び頭を振り、私を振り落とそうとする。


 だが突然、暴れるのをやめた。


 代わりに、剣にぶら下がった私をそのままにして走り出した。


 明確な方向もなく、中庭を円を描くように突進する。

 濡れた地面へ蹄を叩きつけ、その下の大地を震わせながら。


「ようやくね」


 レイナが言った。


 その目が開く。


「準備完了よ」


 中庭全体は、すでに湿っていた。

 水浸しとまではいかない。


 だが、十分に濡れている。


 草も、土も、石も、壊れた噴水から流れ出した水も、すべてがレイナの場の一部になっていた。


 彼女は片手を上げた。


「凍りなさい」


 地面が白く染まった。


 レイナの位置から氷が滑らかな波のように中庭へ広がっていく。

 濡れた草を呑み込み、石畳を封じ、こぼれた噴水の水を輝く一枚の氷へと変えていった。


 氷は滑らかだった。


 平らだった。


 そして、危険だった。


 カリュドールの蹄が滑る。


 その巨体が傾き、横倒しに地面へ叩きつけられた。


 倒れた衝撃で、地面が揺れる。


 氷の上を滑り、その背中が中庭の壁の残った部分へ激突した。


 ぶつかる前に、私は飛び退いた。

 剣はカリュドールの目に刺さったまま捨て、凍った地面を転がる。


 カリュドールは立ち上がろうとした。


 蹄が氷の上を虚しく引っかく。


 そして、また倒れた。


 レイナは前へ歩き出し、カリュドールを指さした。


 すると、カリュドールが倒れている場所から氷の棘が噴き上がった。


 その棘が突き刺さったかどうか、彼女は確認を待たなかった。


 その表情は、冷たくなっていた。


「スキル、発動」


 マナが彼女の身体の周囲へ収束した。

 空気が一瞬だけ回転する。

 まるで、彼女の内側で何かが入れ替わったかのように。


 そして、その動きが止まった。


「パリヴァルタ・タットヴァ」


 彼女は一度、息を吐いた。


 それから、片手を空へ向けて掲げる。


「炎魔法」


 彼女の頭上に火球が現れた。


 一つ。


 また一つ。


 さらに、もう一つ。


 それらは素早く集まり、冷たい空気の中で明るく燃えながら、十二の炎が頭上に浮かぶまで増えていった。


 そして、その形が変わる。


 丸い炎が伸び、鋭く研ぎ澄まされて、貫くための炎の投槍へと変わった。


「フレイム・ジャベリン」


 レイナは手を振り下ろした。


 炎の投槍が降り注ぐ。


 一つ、また一つと、氷の上でもがくカリュドールの身体へ突き刺さっていく。


 衝突するたびに、熱と蒸気が弾けた。

 凍った地面が音を立てて蒸発し、白く濃い水蒸気が中庭に広がっていく。


 カリュドールが悲鳴を上げた。


 その音が屋敷の壁に反響する。


 そして、最後の投槍が突き刺さった後、静かになった。


 蒸気が中庭を覆った。


 しばらく、誰も動かなかった。


 やがて白い蒸気がゆっくりと薄れていくと、カリュドールの巨体が再び姿を現した。

 氷が水へ戻り、土と混ざって泥だまりになった場所に、そいつは動かず横たわっていた。


 傷口から血が滲んでいる。


 呼吸は重かった。


「終わった……のか?」


 私は尋ねた。


 すぐには誰も答えなかった。


 猪は動かない。


「そうだといいわね」


 レイナが言った。


「属性を切り替えるのは、思ったより消耗するわ」


 彼女は首を鳴らし、息を吐いた。


「確認してくる」


 レイナが動くより先に、足音が速く近づいてきた。


 マーカスが姿を現した。

 すでに武器を手にし、戦闘の準備も整えている。


「レイナ様!」


 私たちのところへ完全に辿り着く前に、彼は声を上げた。


 全員が彼の方を向く。


 彼はレイナの隣で足を止めた。


 荒れ果てた中庭。


 崩れた壁。


 溶けた氷。


 そして最後に、前方に横たわる魔物へ視線を向けた。


「音を聞いて、できるだけ早く参りました」


 彼は言った。


「何があったのですか?」


 レイナはゆっくりと彼へ顔を向けた。


 その表情が暗くなる。


「本当に?」


 マーカスが瞬きをした。


「その古い耳で、よく何か聞こえたわね!」


 突然の怒鳴り声に、マーカスは本気で困惑したように見えた。


 それから、レイナは私の方を指さした。


「何があったか知りたいの? あなたがあそこの馬鹿を一人にしたせいで、巨大な猪を連れて帰ってきたのよ!」


 マーカスはレイナの肩越しに私を見た。


 それから、崩れた壁へ。


 カリュドールへ。


 そして、レイナへ視線を戻した。


 レイナは彼の視線を遮るように、わずかに身体をずらした。


 彼の注意を、無理やり自分へ戻させる。


「何か言うことは?」


 責任がすべてマーカスにあるわけではないことくらい、レイナにも分かっているはずだった。


 だが、最初に現れたのがマーカスだった。


 そしてレイナには、怒りをぶつける場所が必要だった。


「私ですか?」


 マーカスは眉を上げた。


「その質問は、クライ様に向けるべきでは?」


「あなたに聞いているのよ、この老いぼれ!」


 マーカスは黙った。


 私は目を逸らし、頬をかいた。


 次にその怒りがこちらへ向かないことを、黙って願いながら。


「まず皆の安全を確認する必要がありました」


 それから、彼はカリュドールへ視線を向けた。


「それで。終わったのですか?」


 レイナは気を取り直した。


 苛立ちは消えていなかったが。


「かなり炎魔法を叩き込んだわ。でも、あれで仕留められたとは思えない」


 マーカスは剣を抜いた。


「起き上がる前に終わらせます」


 彼はゆっくりと、慎重な足取りでカリュドールへ近づいていった。


 魔物の前に辿り着くと、マーカスは剣を振り上げた。


 マナが刃にまとわりつき、淡い光でその切っ先を研ぎ澄ませる。


 そして、カリュドールの首へ向けて振り下ろした。


 剣は重く叩きつけられた。


 だが、斬り裂くことはできなかった。


 鈍い衝撃が、刃を通して跳ね返ってくる。


 マーカスの目が細くなる。


 鈍く重い抵抗が、剣を止めていた。


 彼はさらに目を凝らした。


 泥か?


 カリュドールの体表が変わっていた。


 それを完全に理解する前に、猪が頭を振った。


 その顎が、マーカスへ食らいつくように閉じられる。


 マーカスは寸前で後ろへ跳んだ。


「どうしたの?」


 レイナが尋ねた。


 マーカスは数歩離れた場所に着地した。


 剣を握る手に力が入る。


「まだ生きています」


 一瞬だけ漂っていた安堵が、たちまち消えた。


 全員が再び警戒態勢に入る。


 カリュドールがゆっくりと立ち上がった。


 頭から蹄まで、泥がその身体を覆っている。


 泥は硬い殻となり、傷口の上に鎧のように重なっていた。


 レイナの炎による火傷は、その下に封じ込められている。


 切り傷からの出血も止まっていた。


 目に刺さっていた剣さえ押し出され、傷ついた目は硬化した泥の塊の下に封じられていた。


 カリュドールは口を開き、そして咆哮した。


 それはさっきよりも低く、はるかに大きく、怒りに満ちていた。


 第一段階は終わった。


 魔物は倒されていなかった。


 強くなっただけだった。


 そして今、私たちはもう一度戦わなければならなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


感想やコメントをいただけると、とても励みになります。


次回は「第10話 敵か、味方か」です。

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