初めての本格的な狩り
屋敷と、その向こうに広がるゼウスの森を隔てる壁まで歩いていった。
その前に立ち、私はしばらく足を止めた。
内側から見る限り、それは大したものには見えなかった。
私と森の間に立っている、ただの壁。
普通のもの。
安全なもの。
けれど、その向こう側は……まったく別の何かだと感じられた。
普通に越えようとするなら、たぶん梯子が必要になるだろう。でも、これまで受けてきた訓練を考えれば、この程度は簡単なはずだった。
私は一歩下がり、短く息を吸ってから、走り出した。
壁に足をかけた一歩――そして、そのまま身体を上へ押し上げ、壁を飛び越えた。
一瞬、普通の地面に着地するものだと思っていた。
だが、まだ空中にいる間に……眼下に見えたのは、一面の濃い緑だった。
草。
茂み。
何年も放置されて伸び続けたかのように、幾重にも重なり合う深い植生。
「……あ」
私はそこへ落ちていった。
着地すると、足が柔らかな地面にわずかに沈み、足元の葉が揺れた。
植物にまとわりついた湿気が、私の脚をかすめる。
ここの空気は、違っていた。
重い。
自然とは思えないほど、静かだった。
私はゆっくりと姿勢を正し、周囲を見回した。
「……うわ」
木々は巨大だった。
ただ高いだけではない――あまりにも大きい。
屋敷よりも軽く高く、幹は四人がかりでも抱えきれるかどうかという太さだった。
枝は頭上高くまで伸び、ほとんどの光を遮っている。
わずかに差し込む陽光でさえ、地面にはほとんど届いていなかった。
まるで、別の世界へ踏み込んだようだった。
私は唾を飲み込んだ。
本物の相手を探したいなどと言っていたくせに……いざここへ来てみると、ようやく身体が反応し始めた。
正直、少し遅い。
胸がわずかに締めつけられる。
私はほんの一瞬だけ、ためらった。
「……やるしかない」
剣を握る手に力を込め、森の中へ初めての一歩を踏み出した。
---
その頃、屋敷では、マリアダが突然手を止めた。
耳がぴんと立つ。
尻尾が、その場でぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと背筋を伸ばし、耳を澄ませるように全身の動きを止めた。
それから、わずかに顔を向ける。
一度。
そして、もう一度。
まるで、目には見えない何かの位置を探ろうとしているかのように。
彼女の視線が窓へ移った。
その目が、細くなる。
---
私は足音を殺しながら、慎重に森の中をゆっくりと進み続けた。
入ってから、これといって何も起きていない。
魔物が飛び出して襲ってくることもない。
突然の危険もなかった。
……静かだな、ここ。
そんな考えが頭をよぎった。
私は歩き続けた。
小さな音一つにも反応しながら、視線を左右へ動かす。
葉がこすれ合う音。
枝の奥で聞こえる、遠い動き。
空気がわずかに揺れただけでも、私は思わず顔を向けてしまった。
最初は、自分が慎重になっているだけのように思えた。
だが、しばらくすると、それは別の感覚に変わっていった。
何かが起こるのを、待っているような感覚。
私はもう一歩踏み出し――そこで止まった。
「……待て」
後ろを振り返る。
それから、周囲を見回した。
その時、気づいた。
周りの木々が違う。
より密集している。
私が通ってきたはずの道は……消えていた。
茂みと絡み合った草木に、完全に呑み込まれている。
「……やばい」
私はゆっくりと息を吐いた。
「……これは、まずい」
そして――もう一つ、気づく。
……迷った。
その考えが頭の中に落ち着いた瞬間――すべてが変わった。
森が……生き物のように動き出した。
鳥たちが一斉に鳴き出し、頭上の枝葉の中で甲高い声が響く。
遠くでは、何かが唸った。
風が変わったわけでもないのに、頭上の葉が激しく揺れた。
まるで、今まで森全体が沈黙していて、突然それをやめたかのようだった。
私は唾を飲み込んだ。
さっきまで、木々はただ大きいだけだった。
だが今は、巨大に見える。
私の上に覆いかぶさるように。
私の一挙手一投足を見ているように。
私は歯を食いしばった。
ここから出ないと。
すぐ背後で、葉がざわりと揺れた。
私は即座に振り向き、剣を握る手に力を込める。
そこだ。
枝の中で、何かが動いた。
そして――止まった。
一本の枝の上に、小さな猿が座っていた。
のんびりと果物を食べている。
それは私を見つめた。
落ち着いている。
くつろいでいる。
まるで、奇妙なのは私の方だと言わんばかりに。
「……何だ?」
私は猿から目を離さないまま、ゆっくりと一歩後ろへ下がった。
パキッ。
足元で乾いた小枝が折れた。
その音は大きかった。
あまりにも大きくて、猿は固まった。
手から果物が滑り落ち、そのまま地面へ落ちていく。
私たちは二人して、それが落ちて潰れるまで見つめていた。
そして、猿の目が再び私へ向く。
「あ、ああ……」
私は無理やり笑みを作った。
猿の目がわずかに見開かれる。
その頭が、小刻みに左右へ震え始めた。
「あの……」
うん、無理だ。
ここに残る気はない。
私は背を向けて走り出した。
猿が上げた悲鳴は、普通のものではなかった。
背筋に冷たいものが走るほど、大きな声だった。
考えるより先に、身体が反応した。
頭上の木々で、動きが一気に弾けた。
枝が揺れ、その猿は木から木へと軽々と飛び移りながら、私を追ってくる。
「やばい……やばい……やばい!」
私は前へ進んだ。
茂みをかき分け、根を飛び越え、何度も足を取られそうになりながら走る。
だが、どれだけ曲がっても、どれだけ身をひねっても、その猿はまだそこにいた。
すぐ背後に。
そして、逃げ切れると思った瞬間、仲間たちが現れた。
どこからともなく出てきた。
さっきまで気づきもしなかった場所から。
振り返った時には、もうそこにいた。
「……何だよ、これ?!」
息が詰まった。
距離を取る間もなく、私は囲まれていた。
私は足を止めた。
仕方ない、と私は思った。
……戦うしかないらしい。
そう思っても、準備ができている気はしなかった。
猿たちが動き始めた。
最初、それは攻撃ではなかった。
私の周りを飛び回る。
上へ、下へ。
枝から地面へ、地面から枝へ――音を立てながら。
とにかく、大きな音を。
他の魔物がうようよしているかもしれない場所で、あまりにも大きすぎる音だった。
これは、普通の狩りではない。
まるで……遊んでいるようだった。
あるいは、見せつけているように。
「……これはまずいな」
私は小さく呟き、剣を握る手に力を込めた。
その時、さっきの猿。
私が驚かせた、あの猿が。
飛びかかってきた。
腕を後ろへ引き――次の瞬間、拳を突き出してきた。
私はぎりぎりで反応し、剣を持ち上げて受け止めた。
衝撃。
「……っ!」
重い。
思っていたより、ずっと重い拳だった。
その力に押され、腕がわずかに下がる。
「重……っ」
私は歯を食いしばり、無理やり防御を保った。
立て直す前に、別の一匹が背後から来た。
「――!」
絶望している暇はなかった。
私は全力で最初の猿を押し返し、すぐに振り向いた。
二匹目の猿が、上から叩き潰すように落ちてくる。
腕を高く振り上げているせいで、腹が空いていた。
私は剣を突き出した。
だが、そいつは空中で身をひねった。
全身を回転させ、私の刃をすり抜ける。
「……は?!」
一瞬だけ、目で追ってしまった。
その一瞬で、十分だった。
何かが私の背中に飛びついた。
「……ちっ!」
大した傷はない。
だが、しがみつく力が強い。
引っ張られる。
揺さぶられる。
体勢を崩される。
振り落とそうとしても、うまくいかない。
後ろへ剣を突き出しても――避けられ、さらに強くしがみつかれる。
「面倒くさいな、こいつ……!」
私は舌打ちした。
この状態では、剣は役に立たない。
だから、決めた。
私は剣を地面に突き立て、両手を空ける。
背中へ手を伸ばし――猿の耳を掴んだ。
「……離れろ、この害獣!」
力任せに引き剥がす。
ようやく、そいつは離れた。
考える間もなく、私はそいつを一番近くの木へ投げつけた。
ぶつかった。
だが、落ちなかった。
そいつは幹に足をつけ、そのまま跳ね返るように枝の上へ戻っていった。
「……マジかよ」
私はしばらくその場に立ち、息を整えた。
腕はすでに重い。
まだ、本格的な戦いにもなっていないのに。
私は剣を取ろうとして振り向いた。
「……ん?」
「私の剣……どこだ?」
地面を見る。
何もない。
剣を突き立てていた穴だけが残っていた。
その時、高い笑い声が聞こえた。
甲高く、嘲るような声。
私は顔を上げた。
そこには、私の剣を持った一匹がいた。
そいつは剣を高く掲げ、戦利品のように振り回している。
「……冗談だろ」
別の一匹が手を叩いた。
別の一匹が甲高く鳴いた。
笑っていた。
私を。
「……このクソ猿ども……」
私は拳を握りしめた。
「返せ」
「……」
私が苛立てば苛立つほど、猿たちは嬉しそうに跳ね回った。
剣を持った猿が木から飛び降り、私の前に着地した。
それから、また剣を掲げ、まるで使い方を理解しているかのように不器用に振り回す。
私は一歩踏み出した。
ゆっくりと。
猿は跳ねて下がった。
そして、何の前触れもなく、剣を投げた。
別の猿がそれを受け取る。
「……おい!」
目元がわずかに引きつった。
猿たちは……剣で遊んでいた。
私で遊んでいた。
まるで、私が冗談か何かであるかのように。
「……分かった」
私はゆっくりと息を吐いた。
今、剣を持っている猿へ向かって歩き出す。
一歩ずつ。
他の猿は無視した。
ただ取り返せばいい。
だがその時、猿たちは一斉に胸を叩き始めた。
地面までも叩きつける。
それは、群れで行う攻撃だった。
音が一気に膨れ上がっていく。
そして、地面が動き出した。
「……何だ、これ――?」
ただ揺れているわけではなかった。
水面に雨粒が落ちるように、脈打っている。
叩きつけられるたびに、地面へ波紋のようなものが広がった。
足元が滑った。
体勢が崩れる。
「……うわっ!」
私は片膝をついた。
すべてが不安定だった。
まっすぐ歩くのも難しい。
立っていることさえ、苦しかった。
それでも、私は剣を持つ猿へ向かって進み続けた。
「……返せ……」
手を伸ばす。
だが、掴む寸前で、剣はまた飛んだ。
別の猿へ渡される。
「……お前――」
私は止まった。
息が、少しずつ荒くなっていく。
わざとやっている。
私が近づくたびに、剣を投げて逃がしている。
……ふざけすぎだろ……
地面の波は続いていた。
足に力が入らない。
足場が安定しない。
体力が、必要以上に早く削られていく。
私はまた片膝をついた。
汗が顔を伝う。
「……なんで……こんなに疲れるんだ……」
私は顔を上げた。
猿たちは、まだ楽しんでいた。
「……もし魔法が使えたら……」
私は拳を握りしめた。
「……お前ら全員、吹き飛ばしてやるのに……」
猿たちが止まった。
ほんの一瞬だけ、地面の揺れも止まる。
一秒にも満たない静けさ。
反応する間もなく、猿たちは一斉に飛びかかってきた。
「……なっ――?!」
最初に背中へ。
次に肩へ。
それから脚へ。
重さが増えていき、私は立つことも、膝をつくことさえできなくなった。
地面に倒れ、瞬く間に押さえ込まれる。
動こうとしても、動けない。
全員が背中に乗った後、猿たちは跳ね始めた。
上下に。
何度も。
猿たちは生きた山のように私の上へ積み重なり、何度も何度も跳ねながら、その重みで私を押し潰そうとしていた。
……これは……まずい……
まるで、生き埋めにされているようだった。
やがて、猿たちは止まった。
私の剣を持った猿が、木のてっぺんへ登る。
そいつは仲間の山の下にいる私を見下ろしていた。
勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
それから、声を上げた。
言葉ではない。
だが、自分たちの勝利を自慢しているように聞こえた。
残念ながら、私はまだ死んでいない。
「……これで……」
私は肺に空気を押し込んだ。
話そうとするだけで、肋骨に焼けるような痛みが走る。
「……殺せると……思ってるのか……?」
残っている力をかき集めた。
指先がぴくりと動く。
「……身体強化魔法……」
声はひどくかすれていた。
肋骨を押し潰す圧力の隙間から、かろうじて漏れ出す。
「……マナ・ビルド」
一瞬、何も起こらなかった。
少なくとも、私はそう思った。
だがすぐに、それを感じた。
自分の内側で、何かが開いた。
それは優しい感覚ではなかった。
扉がゆっくり開くようなものでも、器に水が満ちていくようなものでもない。
胸の奥で何かがひび割れ、世界そのものがその瞬間を待っていたかのようだった。
猿の山の隙間から、マナが流れ込んでくる。
空気から。土から。葉から。木々から。あらゆる場所から。
青。緑。赤。茶。
あらゆる種類のマナキュルが、一斉に私へ向かって流れ込んできた。
まるで、私の身体に引き寄せられる以外に道がないかのように。
視界の端で色が滲み、周囲の空気に漂っていた小さな精霊たちまでもが、その流れに巻き込まれていく。
森が反応した。
木の枝が震える。
茂みが揺れる。
空気が濃く、奇妙に重くなった。
まるで、この一帯全体が見えない重みに押し潰されたかのように。
戦いの流れが変わった。
※※※
レイナとマリアダは屋敷の外に立ち、二人とも屋敷の敷地とゼウスの森を隔てる壁の方を向いていた。
マリアダの視線は、壁のある一か所に固定されていた。
耳は張り詰め、尻尾は動かない。
レイナはその隣に立ち、腕をゆるく組んだまま、同じ場所を細めた目で見つめていた。
「間違いないの?」
レイナが尋ねた。
マリアダはためらわなかった。
「はい」
その声は平坦だったが、顔に浮かぶ心配は隠しようがなかった。
「結界の破れを感じたのは、ここです」
彼女は続けた。
「それも、内側から外側へ向かったものです」
「……」
レイナは少し興味深そうに彼女を見た。
だが、結界に関してマリアダを疑うほど愚かではない。
マリアダが何かが通ったと言うのなら、何かが通ったのだ。
「全員がまだ中にいるか確認して」
レイナは言った。
「内側から外側へ抜けたのなら、誰が――あるいは何が通ったのか、すぐに分かるはずよ」
「かしこまりました」
マリアダはすぐに向きを変えた。
だが、彼女が去る前に、屋敷の方から一人の人間の少女が近づいてきた。
「レイナ様、マリアダさん……」
二人は彼女の方を向いた。
「クライを見ませんでしたか?」
「……ん?」
レイナとマリアダが同時に反応した。
少女は、自分の問いが何を引き起こしたのか、まだ気づかないまま続けた。
「治療するはずだったのですが、マーカス様と訓練していた場所にいなくて……」
彼女は何気なくそう言った。
だが、その言葉は一瞬で空気を変えた。
レイナとマリアダは互いに顔を見合わせた。
それから、ゆっくりと二人の視線が壁へ向かう。
その向こうにある、ゼウスの森へと。
マリアダの目が見開かれる。
「……まさか……」
レイナの表情が引き締まった。
「あの馬鹿……」
ヴェーダは、突然張り詰めた空気の意味が分からず、その場に立っていた。
「ヴェーダ」
レイナが鋭く言った。
「今すぐマーカスを呼んできなさい」
「は、はい、レイナ様」
ヴェーダは立ち去ろうとした。
だが、その途中で足を止めた。
空気の圧が変わった。
肌を押さえつけるような、突然の重み。
濃く、不自然な圧力だった。
壁の周囲の静けさがさらに深まり、
ほんの一瞬、向こう側の木々さえ激しく震えたように見えた。
ヴェーダは固まった。
何……これ?
そう思った。
マリアダとレイナは、完全に森の方へ向き直っていた。
二人の表情が一瞬で変わる。
より警戒を強め、
不安を帯び、
そして、何が来ても動けるような顔に。
「今度は何よ……」
レイナが呟いた。
マリアダは何も言わなかった。
ただ、壁の向こうの森を見つめている。
その心配は、一秒ごとに鋭さを増していった。
「……ヴェーダ!」
レイナが鋭く呼んだ。
ヴェーダはびくりと肩を震わせた。
「早く!」
「は、はい! すみません!」
ヴェーダの感覚からは、すでにあの圧力は消えていた。
だが、不安だけは残っていた。
「レイナ様……何が起きているのですか?」
マリアダが尋ねた。
レイナは森から目を離さなかった。
「私が知りたいわ」
マリアダが一歩前へ出た。
「中へ入りましょう」
彼女は言った。
「クライを探さなければ」
「マーカスを待ちなさい」
レイナが答えた。
「……」
マリアダは黙り込んだ。
レイナの視線は、壁に固定されたままだった。
「嫌な予感がするの」
彼女は言った。
「使える手は、全部必要になる気がするわ」
二人はゼウスの森を見つめ続けた。
壁の向こう。
ゼウスの森の奥深く、木々の間で、マナは今も集まり続けていた。
それがクライなのか。
それとも、彼女たちがまだ遭遇したことのない魔物なのか。
二人には分からなかった。
いずれにせよ、慎重になる必要があった。
※※※
猿たちもそれに気づき、楽しげな様子は一瞬で消えた。
私を囲んでから初めて、猿たちは静かになった。
だが、謝るにはもう遅かった。
圧力が、私の身体から外へ弾けた。
私の上に積み重なっていた猿たちは吹き飛ばされ、一匹また一匹と空中へ散っていった。
地面に叩きつけられるもの。
木の幹にぶつかるもの。
地面を転がったあと、混乱しながら起き上がるもの。
私はゆっくりと立ち上がった。
ついさっきまで弱っていた足は、今では何の問題もなく身体を支えている。
私は自分の身体を見下ろした。
呼吸は落ち着いていた。
重さが消えている。
いや、それ以上だった。
力が戻っていた。
そして、増幅されていた。
「……うわ」
私は手を開き、閉じた。
今なら、体内をマナがはっきりと流れているのが分かる。
皮膚の下を、もう一つの心臓の鼓動のように巡っていた。
奇妙だった。
だが、痛みはない。
むしろ、気持ちがよかった。
思わず笑みがこぼれそうになるほどに。
髪さえ変化していた。
視界の端に、自分の髪へ色が流れているのが見える。
もう、ただの白ではない。
すべてのマナ属性が混ざり合ったような色。
マーカスがこの魔法を使った時と同じ、虹色だった。
「もう終わりかと思った……」
私はまだ自分の手を見つめたまま呟いた。
「幸い、身体強化魔法には属性がいらないみたいだな」
それから、私は振り向いた。
視線が、私の剣を持っている猿を捉える。
そいつはまだそこに立っていて、まるで戦利品のように剣を握りしめていた。
だが、さっきまでの自信は消えている。
頭がわずかに震え、その目は困惑したように私を追っていた。
ついさっきまで、私は玩具だった。
今は、そいつが怯えている。
私は動いた。
私たちの距離は、一瞬で消えた。
猿が剣を投げ捨てることを考えるより早く、私の手はそいつの首を掴んでいた。
私はその手から剣を奪い返した。
そして、ためらうことなく、その腹へ刃を突き立てた。
剣を引き抜くと、血が草の上へこぼれ落ちた。
半瞬だけ、胃がきゅっと縮む。
私は猿を掴んだまま、その命のない身体を見つめた。
表情が沈むのが、自分でも分かった。
だが、次の瞬間、他の猿たちが叫んだ。
もう、それについて考える余裕はなかった。
私はその猿を地面へ投げ捨て、他の猿たちにもはっきり見えるようにした。
伝えたいことは単純だった。
もう、狩られる側は私ではない。
他の猿たちにも伝わった。
少なくとも、ためらう程度には。
だが、逃げるほどではなかったらしい。
猿たちの叫び声は、さっきよりもさらに大きくなった。
胸を叩き、両手を地面に叩きつける。
同じ波紋が大地を走り、再び私の体勢を崩そうとしてきた。
だが今度は、私は地面に留まらなかった。
近くの木の幹へ跳び、片足を樹皮に当てて、そのまま蹴り出す。
最初の猿は、反応する間もなく私の剣に斬り伏せられた。
着地する。
すぐに動く。
そして、次の一匹を斬る。
さらに、もう一匹。
さっきまで使っていた同じ手は、もう通用しなかった。
地面に頼って動かなければ、奴らの地面の波は意味をなさない。
私は、奴らが追えないほど速かった。
一匹ずつ、その数が減っていく。
そして数が減るほど、奴らのリズムも弱くなった。
地面を走る波の力が落ちる。
揺れが不規則になる。
やがて、私はめまいや方向感覚の乱れを感じることなく、普通に立っていられるようになっていた。
それが、かえって奴らを怒らせたらしい。
自尊心を傷つけられたのだろう。
私は開けた場所の中央に立ち、剣を手に、落ち着いた呼吸をしていた。
「怒るなよ」
思わず口元が緩む。
「これが生きるってことだろ」
正直、少し調子に乗っていた。
いや、乗りすぎていたかもしれない。
だが、猿に散々弄ばれた後だ。
少しくらい形勢逆転を楽しむ権利はあると思った。
猿たちは叫びながら、手当たり次第に物を投げ始めた。石。枝。土の塊。
中には、粗い魔法で岩を作り出し、それを投げつけてくるものまでいた。
だが今は、見える。
反応できる。
一つをかわし、もう一つを斬り払い、次を弾いた。
そして、距離を詰める。
残りは、すぐに終わった。
最後の猿が倒れると、森は再び静かになった。
だが、今度の静けさは違っていた。
さっきまでは、森が何かを隠しているように感じた。
今は、森が次に私が何をするのかを見ているようだった。
私はしばらくその場に立ち、剣を下ろしたまま、身体に流れる力に驚いていた。
これが、魔法か。
誰かが使っているのを見るだけではない。
話で聞くだけでもない。
実際に、自分の身体で感じている。身体が軽い。強い。鋭い。
この世界で目を覚ましてから初めて、本当に一歩前へ進めたような気がした。
それから、私はもう一度自分の身体を見下ろした。
「……変な感じはしない」
腕に触れる。胸に触れる。顔に触れる。
猿たちに受けた痛み以外、どこかが特別に痛むわけではない。
呼吸は安定している。
頭もはっきりしている。
突然燃えるような感覚もない。
骨が軋むような感覚もない。
倒れそうになる気配も、爆発しそうな兆候もない。
だが、それでも私はまだマナを取り込み続けていた。
髪もまだ、色を帯びたままだ。
レイ師匠は、これを使うなと言っていた。
そして、私は彼女に逆らっているのだと分かっていた。
その思いは、小さな石のように、心の奥に残っていた。
それでも……
「よし。大丈夫だ」
私は安堵の息を吐きながら言った。
「副作用はない」
少なくとも、私に分かる範囲では。
それから、私は周囲を見回した。
猿たちは倒れている。
茂みも、もう動いていなかった。
他に襲いかかってきそうなものはない。
もう、この森は十分だった。
「よし……帰ろう」
私は周囲の木々に目を向けた。
「ここ、本当に洒落にならないな」
その時、別の問題に気づいた。
私はその場でゆっくりと向きを変えた。
左、右、後ろ、前。
どこを見ても同じだった。
その場で、肩が落ちる。
「……え」
私は頬をかいた。
「家って、どっちだ?」
その時、地面が揺れ始めた。
猿たちが起こしていた波とは違う。
もっと深い揺れだった。
一つ一つの衝撃が、足元から脚へと伝わってくる。
私は固まった。
「……は?」
また一歩。
そして、また一歩。
前方の木々が揺れた。
葉が落ちる。
枝が折れる。
何か大きなものが、こちらへ向かってきていた。
とても大きい何かが。
「今度は何だよ……」
私は目を細め、木々の向こうを見通そうとした。
その時、一本の木が倒れた。
自然に倒れたのではない。
押しのけられたのだ。
幹が割れ、何の重さもないかのように地面へ崩れ落ちる。
さらに、もう一本。
私の表情が強張った。
「……やばい」
私は反対方向へ向きを変え、走り出した。
それが何なのか、確認するのを待つつもりはなかった。
逃げる前に、完全に理解する必要のないものもある。
木が草みたいに押しのけられる。
それだけで、逃げるには十分すぎる情報だった。
私は全力で森の中を突き進んだ。
背後の何かは、まだ追ってくる。
そいつが一歩踏み出すたびに、地面が揺れた。
木々が割れ、茂みが押し潰され、枝が次々とへし折れていく。
最初は、振り切れると思っていた。
本気でそう思っていた。
マナ・ビルドが発動している今、私の身体はこれまでにないほど速かった。
脚はあまりにも速く動き、周囲の森がぼやけて見えるほどだった。
それなのに、そいつは距離を詰めてきている。
猿たちとは違う。
ただ背後についてきているだけではない。
追いついてきている。
速い。
「早く、早く、早く!」
私はさらに走った。
左へ。
右へ。
根を越え、幹の間を抜け、茂みを突っ切る。
もう、自分がどこへ向かっているのかも分からなかった。
だがどういうわけか、幸運なのか本能なのか、私が選んだ方向は屋敷へと続いていた。
壁が見えた瞬間、安堵が一気に押し寄せ、思わず笑いそうになった。
「あそこだ!」
私はさらに速度を上げた。
今までの人生で、一番速く走っていた。
その時、背中に熱い空気が触れた。
私は肩越しに振り返る。
そして、ようやくそれをはっきりと見た。
私の三倍はある巨大な猪。
その牙はあまりにも大きく、目は私を捉えたまま離さない。
突進するたびに、鼻からは蒸気のような息が噴き出していた。
その息が、また背中に触れた。
私は子供みたいに叫んだ。
そしてなぜか、さらに速度が出た。
壁まで数メートルというところで、私は高く跳んだ。
思っていたよりも、ずっと高く。
壁を越え、結界を通り抜けて中庭へ飛び込む。
まだ空中にいる間に、私は二人を見た。
レイ師匠。
メアリーさん。
二人とも下に立ち、驚いた顔で私を見上げていた。
「クライ……」
マリアダの声が届く。
だが、時間がなかった。
私は口を開いた。
「壁から離れて!」
二人には聞こえた。
そう確信した。
だが、すべてがゆっくりに感じられた。
私が着地するよりも早く。
その言葉が完全に口から出るよりも早く――
巨大な猪が壁に激突した。
石がひび割れる。
裂ける。
そして、崩れ落ちる。
壁が崩れる寸前、レイナとマリアダは飛び退いた。
私は地面に叩きつけられ、中庭を転がった。
土埃と砕けた石が、周囲に散らばる。
背後で、壁が瓦礫へと崩れ落ちた。
そして、その開いた穴から、巨大な猪が踏み込んできた。
たった一撃。
それだけだった。
今、怪物は屋敷の敷地内に入り込んでいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
感想やコメントをいただけると、とても励みになります。
次回は「巨獣襲来」です。




