隠された真実
訓練の後、私は少し落ち込んでいた。
いや――正確に言えば、身体中が痛くて、疲れ切っていて、そして自分がまだどれほど弱いのかを痛いほど思い知らされていた。
マーカスには容赦なく叩きのめされた。
訓練場を離れた後も、身体は一撃一撃をしっかり覚えている。
肩は痛い、腕は重く、足は一歩進むたびに文句を言っているようだった。
だが、それでも楽しみにしていることがあった。
今日は、冒険者ギルドに登録する日だ。
私は冒険者になる。
その考えだけで、気分が沈みきるのを何とか食い止められた。
その期待を胸に抱いたまま、私はレイ師匠とメアリーさんを探すために屋敷へ戻った。
ついに屋敷の外へ出て、町へ行ける。
その思いは、朝からずっと胸の中に居座っていた。
服についた土をきちんと払うことさえしなかった。
代わりに、屋敷の中を探し始めた。
「レイ師匠……! メアリーさん……!」
マーカスとの訓練に向かう前、二人がいた部屋の扉を開けて呼びかけた。
返事はない。
そこには、誰もいなかった。
「……どこに行ったんだ?」
次の部屋へ向かい、さらにその次の部屋へ向かう。
屋敷の廊下を歩いていると、磨き上げられた床に足音が柔らかく吸い込まれていった。
やがて、廊下で作業をしている別の使用人と出くわした。
マリアダと同じ、猫族の獣人だった。
彼は布を手に、廊下に立って静かに掃除をしていた。
まるで、この世の何ものにも心を乱されないかのように。
「あの……すみません」
私は軽く手を上げながら近づいた。
男がこちらを見る。
そして、ゆっくりと、私に完全な注意を向けた。
私は彼の前に足を止める。
「邪魔してごめん。レイ師匠を見なかった?」
彼は何も言わずに私を見つめた。
半分閉じたような目は、妙に鋭く、まるで私の内側まで見抜こうとしているようだった。
それでも、私は続けた。
「それか、メアリーさんでもいいんだけど。二人のどちらかを見なかった?」
「……」
男はじっと見つめたままだった。
沈黙が長く続き、気まずくなるには十分すぎる時間が流れた。
何も悪いことをしていないのに、もう一度謝りたくなるほどだった。
なんでこんなに黙ってるんだ?
すると、何の前触れもなく、彼は身体をわずかに向け、私が進もうとしていた方向を見た。
「……ご主人様は、ただいま書斎にいらっしゃいます」
彼は廊下の奥を指さした。
「侍女長もご一緒です」
「ああ。ありがとう……」
私は小さく頷き、書斎へ向かって歩き出した。
彼は反応しなかった。
少しも。
ふと振り返ると、彼はすでに顔をこちらへ向けていて、私が離れた後もなお、じっと私を見ていた。
……なんなんだ、あの人。
あの視線は、どうにも気味が悪い。
私はその奇妙な使用人のことを頭の隅へ追いやり、廊下を進み続けた。
無口な猫族の獣人について考えるより、冒険者ギルドの方がずっと胸が躍る。
それに、これは私にとって初めての外出だった。
初めて屋敷を出て、町へ行く。
だから、そう。
私は、浮かれていた。
書斎に着いた頃には、マリアダとレイナの会話はすでに始まっていた。
二人の声は落ち着いていた。
けれど、その奥にある緊張は、聞き逃すことができなかった。
マリアダの声は抑えられていたが、切迫していた。
すでに六か月が過ぎていることをレイナに訴え、これ以上待つ余裕はないと迫っている。
レイナは本棚のそばに立ち、分厚く、粗い手書き文字で綴られた本の背に片手を置いていた。
しばらく黙っていたが、やがて不本意そうに認める。
「では、いつ教会へ連れて行くかを決めるべきです」
マリアダがそう言った。
レイナは本棚からその本を抜き取り、まるでこの会話を予期していたかのように開いた。
「まだよ」
マリアダの眉がわずかに下がる。
「理由を伺っても?」
「特別な理由はないわ」
レイナはページをめくった。
「ただ、今はまだその時ではないというだけ」
マリアダは黙り込んだ。
二人の間に落ちた沈黙は、ひどく重かった。
彼女が一刻も早く進めたいと思っているのは明らかだった。
だが、レイナにはレイナの考えがあり、それが何であれ、すべてを説明する気はまだないようだった。
彼女の手にある本も、おそらくその計画の一部なのだろう。
何の話をしているんだ?
最近、二人は私の前で妙に秘密めいた態度を取ることが多かった。
しばらくして、レイナは本を閉じ、机の上に置いた。
「教えて」
彼女は言った。
「クライは、今いくつくらいだったかしら?」
「正確には分かりません」
マリアダが答える。
「あの子は、それも覚えていません。身体つきから判断するなら、十代半ばほど。あるいは、もう少し上かもしれません」
彼女は少し間を置いた。
「年齢の割に背が高く、匂いもすでに肉体的には成熟した者のものです。なぜお尋ねに?」
「冒険者ギルドに連れて行く前に、確認しておきたかったの」
ああ。
冒険者ギルドの話をしているだけか。
私は小さく息を吐き、首を振った。
何か深刻なことを隠しているのかと思っていたのに。
マリアダの表情が、すぐに変わった。
「冒険者ギルド、ですか?」
「ええ」
「レイナ様、誰かがあの子について何かに気づく可能性を、心配なさらないのですか?」
彼女の落ち着いた態度が、わずかに崩れる。
身を乗り出すその姿には、明らかな不安があった。
待て……。
どうしてメアリーさんは、私が人に見られることをそんなに心配しているんだ?
そういえば、なぜ外に出てはいけないのかについても、二人は一度もまともに答えてくれなかった。
「落ち着きなさい」
レイナは片手を上げ、彼女をなだめるように言った。
「気をつけるわ。誰にも気づかれない」
「レイナ様がそう仰るなら……」
マリアダはそう答えたが、納得しているようには聞こえなかった。
「ですが、それでも処置を先延ばしにする理由が分かりません。今が最も安全な時期に思えます」
「あなたの言うことは間違っていないわ」
レイナは言った。
「けれど、今は危険すぎる」
マリアダは答えなかった。
レイナは続ける。
「今進めれば、マナ・サイフォンによって、あの子の身体能力まで大きく削られる可能性がある。危険を冒す前に、もっと身体を強くしておく必要があるの」
マナ・サイフォン?
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
いったい、何の話をしているんだ?
マリアダは困ったように視線を落とした。
レイナの声は、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「それに、私は教会があまり好きではないの。できることなら、あの子を連れて行きたくない」
「ですが、他に方法がありません」
マリアダが言った。
「分かっているわ」
レイナは一瞬だけ目を閉じ、それから窓の方へ視線を向けた。
「分かっている」
部屋の空気がさらに静かになった。
レイナは、今度はゆっくりと言葉を続けた。
「冒険者ギルドに登録すれば、屋敷の外でも身体を鍛えられるようになる。実行する前に、できる限りの体力をつけておく必要があるの」
私は、自分の耳を疑った。
私は冒険者として登録できることが嬉しくて、ここへ来たはずだった。
けれど今では、冒険者ギルドは新しい始まりではなく、何か危険なことの準備のように聞こえていた。
書斎の中では、誰も動かなかった。
私もまた、扉の外で凍りついたままだった。
目を見開いたまま、自分が今聞いたことを理解できずにいる。
やがて、レイナが沈黙を破った。
「とにかく、クライを呼んでくるわ。出発しましょう」
彼女は机を回り込み、扉の方へ向かってきた。
マリアダが頭を下げる。
レイナが近づいてくる足音を聞いた瞬間、私は扉から離れ、角の向こうへ身を隠した。
今の会話を聞いていたことを、知られるわけにはいかなかった。
その後すぐ、レイナは私を探して訓練場へ向かった。
そして、私はそこにいた。
つい先ほどまで書斎の外に立ち、聞くべきではない会話を聞いていたことなど知らないふりをして、木剣を振っていた。
「クライ……」
レイナが私の名を呼びながら近づいてくる。
私は剣を振る手を止め、彼女の方へ向き直った。
「師匠」
「訓練は終わったのよね?」
「はい」
「よし」
彼女は微笑んだ。
「それじゃ、行きましょう」
その笑顔に、私は少し戸惑った。
笑顔そのものが珍しいわけではない。
レイナ師匠は、時々笑う。
けれど、さっき聞いてしまった会話の後では、いつも通りの笑顔でさえ、何かを隠しているように見えた。
私は一瞬、彼女の目を見ることができず、地面へ視線を落とした。
私に、いったい何が起ころうとしているんだ?
その問いは、あの会話を聞いてからずっと、頭の中で鳴り続けている。
「師匠」
私は慎重に尋ねた。
「どこへ行くんですか?」
レイナは、ほんの一瞬だけ黙った。
それから答える。
「町よ。 もちろん」
私はすぐに顔を上げ、彼女を見た。
レイナは、さっきよりもさらに笑みを深めていた。
「冒険者ギルドに登録しに連れて行くって、約束したでしょう?」
「……」
忘れていた。
そもそも、それが彼女を探していた理由だったはずなのに。
けれど、冒険者ギルドへ行く本当の理由を聞いてしまったせいで、
その興奮は、すっかり頭から抜け落ちていた。
「……そうですね」
私は言った。
「覚えています」
「どうしたの? さっきまで外に出るのをあんなに楽しみにしていたじゃない」
「楽しみですよ」
そう答えると、止める間もなく表情が明るくなった。
けれど、目元にはぎこちなさが残っていたと思う。
頬も、笑っているというより、無理に動かしているだけだったかもしれない。
嬉しいのは本当だ。
だが、心からそう見えていたかは分からない。
さっき聞いた言葉が、この旅への喜びの上に、薄く影を落としていた。
それでも、私はそれを胸の奥へ押し込める。
今は、深く考える時ではない。
考えるのは、後でいい。
レイナ師匠は指を一本立てた。
「忘れないで。これは観光じゃないわ。冒険者ギルドに行くのよ」
「分かってますよ」
私は答えた。
「水を差さなくてもいいじゃないですか。少しくらい、楽しみにしてもいいでしょう?」
レイナは一秒ほど私を見つめた。
それから、小さくため息をつく。
「……いいわ。メアリーのところへ行きなさい。準備してくれるはずよ」
「はい」
一瞬も無駄にせず、私はメアリーさんを探しに屋敷へ戻った。
レイナは訓練場に残り、去っていく私の背中を見つめていた。
しばらくの間、彼女は動かなかった。
ギルドの話をした時、あの子は少し不安そうに見えなかったかしら。
私が屋敷の中へ消えていくのを見送りながら、そんな疑問が彼女の胸をよぎった。
しばらくして、私は正面玄関から外へ出た。
そこには馬車が待っていた。
磨き上げられた車体は、見慣れた屋敷の敷地の中でもよく目立つ。
そのそばにはレイナ師匠が立っていて、御者台にはマーカスが、いつも通り落ち着いた姿勢で手綱を握っていた。
私は、冒険者らしく見える服に着替えていた。
鎧でもなければ、大げさな装備でもない。
それでも、冒険者ギルドの近くにいても浮かないくらいには整えられている。
帽子が私の髪を覆っていた。
レイナが人目に触れさせたくないであろう、白い髪を隠すために。
「準備できました」
私は言った。
「行きましょう」
「見た目だけなら、それらしくなったわね」
レイナは私を頭から足元まで眺めながら言った。
それから一歩近づき、私の帽子を整える。
白い髪が、少しだけ外へ覗いていた。
彼女はそれを、丁寧な指先で中へ押し込める。
「これでいいわ。行きましょう」
私たちは馬車に乗り込み、
マーカスが馬を進ませた。
馬車が門へ向かって動き出すと、屋敷の入り口近くで、メアリーさんが私たちを見送るように手を振っていた。
それは、ささやかな仕草だった。
温かくて、静かなものだった。
そして私たちの知らないところで、上階の窓から、別の瞳がこちらを見つめていた。
ヴィスマギアは、レイナの屋敷からそれほど遠くない。
正確には、約三キロほど。
馬車が道を進む中、私は少しだけ窓へ身を寄せ、流れていく景色を眺めていた。
木々が途切れ、開けた道へと変わっていく。
屋敷の敷地は、ゆっくりと後ろへ遠ざかっていった。
これが、私にとって初めての本格的な外出だった。
ただの道でさえ、胸が躍る。
「それで」
私は尋ねた。
「町って、どんなところなんですか?」
向かい側には、レイナ師匠が座っていた。
「まさか、緊張しているの?」
その言葉に、私は即座に反応した。
「馬鹿にしないでください。何を怖がる必要があるんですか?」
彼女は小さく笑った。
「ヴィスマギアは、冒険者と商人の町よ」
レイナは言った。
「珍しい魔法道具でも知られているわ」
それから、指を一本立てる。
「私の屋敷の裏に、大きな森があったでしょう?」
「はい。 見ました」
「あの森には、他では見つからない希少な素材や、奇妙な植物、魔物がいるの。
だから冒険者たちが集まる。
ただし、誰でも入れるわけではないけれど」
「師匠は入れるんですか?」
「ええ」
レイナは少し背もたれに身を預けた。
「たとえ許可がなくても、私は好きにするけれどね。
それも冒険者の特権の一つよ」
「ふむ……」
私は再び外へ目を向け、あの森の奥にどんなものが隠れているのかを想像した。
「冒険者ギルド以外には、町に何があるんですか?」
「色々よ」
彼女は答えた。
「露店、工房、宿屋、商人、武器屋、薬屋。
それに、誰かが『珍しい素材だ』と言えば、自分の歯さえ売りそうな商人たちもいるわ」
「本当にそんなことがあるんですか?」
「たぶんね。
ここで見つかる素材は、それくらい珍しいのよ」
彼女は窓の方へ視線を向け、太陽の位置を確かめた。
「日が沈むまでには、まだ少し時間があるわね」
それから馬車の前方にある小さな窓を軽く叩き、開けた。
「マーカス」
「はい、お嬢様」
「まずは冒険者ギルドへ直行して。
町を見て回るのは、用事を済ませてからにしましょう」
「かしこまりました、お嬢様」
レイナは小窓を閉じた。
ちょうどその時、前方にヴィスマギアの門が見えてきた。
「ギルドに登録することって、そんなに重要なんですか?」
私は尋ねた。
「冒険者になるのって、そんなに大きな意味があるんですか?」
「正確には、そういうわけではないわ」
レイナは言った。
「ギルド登録は、身分証明にもなるの。身分証がなければ、自由に入れない場所も多い。
特に、その国の民ではない者にとってはね」
「へえ」
私は少し背もたれに寄りかかった。
「それなら、納得です」
私はレイナを見た。
彼女は、相変わらず落ち着いた様子で町の門を見つめていた。
馬車はヴィスマギアの門をくぐった。
その瞬間、外の世界が変わった。
道幅が広がる。
固められた土の上を車輪が進む音に、人々の声、足音、遠くから響く商人たちの呼び声が混ざっていく。
通りの両側には、途切れることなく人が行き交っていた。
籠を抱えた者。
荷車を押す者。
鎧を身につけた者。
ローブや前掛け、旅装の外套をまとった者。
人間もいれば、獣人もいる。
一目見ただけでは何の種族か分からない者もいた。
数としては人間が多い。
だが、それでも、その光景の興奮が薄れることはなかった。
私の目は、窓に釘付けになっていた。
町は、生きていた。
道沿いには露店が並び、食べ物、道具、布、薬草、武器、魔物の牙、水晶の護符、そして光る虫が入った瓶まで売られている。
奇妙な根を山積みにした荷車を押す冒険者の一団が通り過ぎた。
その根は、まるで生きているかのように、まだぴくりと動いていた。
私はそれを見つめた。
根が、もう一度ぴくりと動く。
……聞かないことにした。
焼いた肉の匂いが、空気の中を漂ってくる。
土埃、馬の汗、香辛料、そして近くのパン屋から漂う、かすかに甘い香りが混ざっていた。
気づけば、馬車の速度が落ちていた。
そして、大きな建物の前で止まる。
入り口の上には、大きな看板が掲げられていた。
そこには、見慣れない文字が書かれている。
それでも、私は読めた。
冒険者ギルド。
マーカスが馬車の扉を開けた。
レイナが先に降りる。
私もその後に続いた。
しばらくの間、私はその建物を見上げていた。
思っていたよりも大きい。
入り口の扉は重厚で、出入りする人々は、これまで話に聞くだけだった世界に属しているように見えた。
外にいた何人かが、馬車に目を向ける。
そして、レイナを見た。
彼らの話し声が、わずかに小さくなる。
レイナは、その視線にまったく興味を示さなかった。
ただ、まっすぐ入り口へ向かう。
私は慌ててその後を追った。
彼女が大きく扉を押し開け、中へ足を踏み入れる。
ギルドホールは、一瞬で静まり返った。
酒を飲む音も、話し声も、笑い声も、取引の声も、まるで糸を切られたかのように消える。
すべての視線が彼女へ向いた。
冒険者たちは、酒杯を手にしたまま卓についていた。
壁際には、武器を携えた者たちが寄りかかっている。
中には、普通の人なら思わず距離を取りたくなるほど荒々しい者もいた。
それでも、ホールの中で最も獰猛そうな男たちでさえ、黙っていた。
それは、恐怖だけではない。
少なくとも、私にはそう見えた。
その沈黙の中には、敬意があった。
そして、警戒も。
この場にいる誰もが、今入ってきた人物が何者なのかを知っている ― そんな種類の警戒だった。
レイナは受付へまっすぐ歩いていく。
一歩進むたびに、部屋全体の空気が引き締まっていくようだった。
私はその後ろをついて行きながら、できるだけ居心地の悪さを顔に出さないようにした。
それでも、視線は左右へ動いてしまう。
すべてが初めてだった。
見られている人間の数が多すぎる。
それでも私は平静を装った。
受付嬢が私たちに気づき、顔を上げた。
その姿勢が、すぐに正される。
「レイナ様。ようこそ」
「こんにちは」
レイナは軽く答えた。
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
「登録をお願いしたいの」
受付嬢の視線が、私へ移った。
一瞬、彼女は本当に驚いたような顔をした。
私を見たことがない、という種類の驚きではない。
レイナが弟子を連れてここへ来るなど、まったく予想していなかった ― そんな驚きだった。
「この子は、私の弟子よ」
レイナが言った。
受付嬢はすぐに表情を整え、職務上の落ち着きを取り戻した。
「承知いたしました」
彼女は机の下を確認し、紙、小さなインク壺、そして羽根ペンを取り出した。
それらを、私の前に置く。
「こちらが登録用紙です。水晶鑑定へ進む前に、必要事項をご記入ください」
「見せて」
レイナがそう言った。
私が最初の一行を読む前に、彼女はその用紙を取った。
彼女の手が、紙の上を滑るように動いていく。
速く。
淀みなく。
何を書けばいいのか、最初から分かっているかのように。
私の名前。
年齢。
そして、ギルドが必要とする他の情報。
ほんのわずかな時間で、レイナは書き終えた。
「はい」
彼女は用紙を受付嬢に渡した。
受付嬢はそれに目を通し、小さく頷く。
「問題ございません」
彼女は机の向こう側で、何かの準備を始めた。
「師匠」
私は小声で尋ねた。
「何を書いたんですか?」
「ああ、名前と年齢よ」
レイナは言った。
「基本情報だけ」
基本情報。
なぜか、その答えを聞いても、安心できなかった。
受付嬢はホール左側にある扉を示した。
「それでは、こちらへお越しください。鑑定室で登録を完了いたします」
彼女が先に歩き出す。
レイナが続いた。
私も、その後を追った。
扉の向こう側には、小さな部屋があった。
外のギルドホールと比べると、不思議なほど静かだった。
壁は簡素で、床は清潔に保たれており、空気は先ほどよりも少し冷たく感じられる。
部屋の中央には、大きな水晶が浮かんでいた。
それは小さな台座の上に、何にも触れることなく浮遊している。
尖った両端の形から、三角形にも、凧のようにも見えた。
水晶は、不気味な光を放っていた。
その内側では、いくつもの色がゆっくりと動いている。
赤。青。緑。茶。
四つの基本属性を示す色が、まるでガラスの中に閉じ込められた水と炎のように、混ざり、離れていく。
いかにも異世界にありそうな代物だった。まあ、実際に異世界なのだが。
「水晶に手を置いてください」
受付嬢が言った。
「それで鑑定を始めます」
私は一歩前へ出た。
しばらくの間、ただそれを見つめる。
それから、ゆっくりと手を伸ばし、水晶に掌を当てた。
冷たい。
その冷たさはすぐに手の中へ染み込み、思わず指がぴくりと動くほど鋭かった。
同時に、自分の内側で何かが動くのを感じた。
マナだ。
それは私の中から、勝手に水晶へと流れ込んでいく。
痛みはない。
だが、奇妙な感覚だった。
まるで何かが体の内側へ入り込み、私という存在がどう形作られているのかを読み取っているようだった。
「手を離さないでください」
受付嬢が言った。
私は頷いた。
彼女は水晶の向こう側に立ち、その光を注意深く見つめていた。
揺れ動く色を、まるで光の中に隠された文字を読むかのように、目で追っている。
しばらくすると、水晶の輝きが強まった。
そして、落ち着く。
色彩は再び、ゆっくりとした動きへ戻っていった。
「もう手を離していただいて構いません」
私は手を離し、掌を軽く擦った。
受付嬢は水晶のそばにある小さな机へ移動し、特別な紙を一枚取り出した。
それは、水晶と同じ素材を織り込んで作られているように見える。
その表面に、情報が浮かび上がっていた。
水晶が読み取ったマナから引き出されたものだ。
受付嬢はそれに目を通した。
そして、表情を変えた。
「……これは、おかしいですね」
レイナが彼女を見る。
「何か問題でも?」
受付嬢はすぐには答えなかった。
代わりに、もう一度その紙を見つめ、
それから水晶へ視線を戻す。
「情報が正しくない可能性があります」
彼女は言った。
「もう一度、水晶に手を置いていただけますか?」
「えっと……分かりました」
私は言われた通りにした。
同じ工程が繰り返される。
手が水晶に触れる。
冷たさが掌へ広がる。
マナが水晶へ流れ込む。
水晶が光り、記録し、そして再び静まった。
受付嬢は二枚目の紙を取った。
一枚目と見比べる。
その表情は、さらに曇っていった。
「そんな……」
彼女は二枚の紙を何度も見比べた。
片方を確認し、もう片方へ視線を移す。
だが、どれだけ確認しても、結果は変わらないようだった。
どうして、あんな反応をしているんだ?
私は先ほどよりも不安になりながら、もう一度掌を擦った。
「何か問題が?」
レイナが尋ねた。
今度は、受付嬢が答えた。
「この情報は、理屈に合いません」
「何を言っているんだ?」
私は思わず呟いた。
レイナはそれを聞き逃さなかった。
彼女は一瞬だけ私を見ると、すぐに受付嬢へ視線を戻した。
受付嬢は一歩前へ出て、私たちに二枚の紙を差し出した。
私は、自分の手に渡された紙を見下ろす。
最初の項目は、私の名前だった。
そしてすぐに、違和感に気づく。
違っている。
だが、その場では黙っていた。
受付嬢が気にしているのは、どうやら別の項目らしい。
まずはそれを聞きたかった。
「第三項目をご覧ください」
彼女は紙を指さしながら言った。
「こちらが、マナ量を示しています」
私はその指先を追った。
「あなたのマナ量は、Sランク+です」
彼女は一度、言葉を切った。
「このギルドで記録される中では、最高区分にあたります。
ここで鑑定を受けた者の中に、この数値へ到達した者は一人もいません」
その職務的な表情に、深い懸念が差し込んでいた。
私は紙から彼女へ視線を移す。
そして、当然の疑問を口にした。
「それの、どこがおかしいんですか?」
受付嬢は少し姿勢を正した。
「さらに下、第五項目をご覧ください。
そこには、魔法属性が記されています」
私は視線を落とした。
「……指定属性なし、と書かれています」
私は読み上げた。
部屋に沈黙が落ちる。
「つまり、あなたには魔法属性が存在しないということです」
受付嬢が続けた。
私はその言葉を見つめた。
魔法属性がない。
なぜそれがおかしいのか、私にはまだ分からなかった。
だが、レイナには分かっているようだった。
彼女は完全に黙り込んでいた。
受付嬢はゆっくりと首を振る。
「本来なら、ありえないことです」
そして、ためらうように言葉を切った。
「もし、あるとすれば……」
彼女の目がレイナへ向く。
「レイナ様……」
部屋の空気が変わった。
「いえ……こうお呼びするべきでしょうか。吹雪の女王、と」
レイナは何も答えなかった。
受付嬢の声が低くなる。
そして、彼女はレイナから私へと視線を移した。
「この少年は……アンリットなのですか?」
「……」
その問いの意味は、私には分からなかった。
だが、レイナの沈黙がその言葉を重くした。
私はもう一度、紙へ視線を落とす。
そこで、先ほどの違和感が頭に戻ってきた。
「師匠……」
私の声は、先ほどよりも小さかった。
「どうして、僕の名前がクライ・シエル・レトスになっているんですか?」
私は紙を少しだけ彼女へ向ける。
「どうして、ミドルネームがあるんですか?」
「……」
受付嬢と私の視線が、同時にレイナへ向いた。
彼女はゆっくりと腕を下ろした。
鑑定用紙が、その指先から垂れる。
レイナは何も言わなかった。
けれど、その沈黙だけで十分に怪しかった。




