師匠と弟子
レイナの屋敷に迎え入れられ、名を与えられてから、彼女はすぐに私を弟子として引き取った。
だが、その修行は決して優しいものではなかった。
この日は、そんな訓練の最中だった。
ドンッ!
「きゃああ!」
屋敷の訓練場が、土煙に包まれる。
そして私は、その上空へと吹き飛ばされていた。
あまりにも高くまで飛ばされ、もしかしたらヴィスマギアの街全体が見えたかもしれない。
まあ、意識があれば、の話だが。
屋敷は街外れの人目につかない場所に建っている。小さなスズメでさえ、私ほどの高さまでは飛べない……たぶん。
正直、その時は意識がなかったので確認しようがない。
※※※
……うう。
私はベッドの上でうめいた。
意識の霞がようやく晴れかけた、その瞬間――
悪夢から目覚めたかのように、叫び声を上げて跳ね起きた。
「……ここは?」
「やっと目を覚ましたわね」
「……師匠……」
ベッドの傍らに腰掛けていたのは、私の師匠――レイナ・スタシアだった。
普段は、マスター・レイと呼んでいる。
「……頭が、痛い……」
額に手を当て、ズキズキと脈打つ痛みを抑えようとする。
まるで、頭の中にもう一つ心臓があるかのようだった。
「そりゃそうよ。さっき、空から落ちたんだから」
「……」
「ぷふ……ぷふふふ……」
彼女は口元を押さえたが、笑い声は抑えきれなかった。
「……落ち方が、ほんとに面白かったのよ」
「はぁ!? 本気で笑ってるんですか!?」
彼女は片手でお腹を押さえ、もう片方の手で口を覆いながら、必死に笑いをこらえていた。
ミスト国の森でメアリーに拾われ、この屋敷に連れて来られてから、半年が経っていた。
それからすぐ、レイナ師匠は私を弟子として迎え、戦闘の訓練を始めた。
……訓練、という名目ではあったが。
ほとんどの場合、実験台にされている気分だった。
なぜか彼女は、戦いの中での私の成長を観察することに興味を示していた。
鍛えたいのか、調べたいのか――今でもよく分からない。
おそらく、その両方だ。
訓練の大半は、体力、速度、筋力、そして反応速度を鍛えるものだった。
避けて、受けて、耐えて、生き残る。
「まずは、丈夫な身体よ」
それが、彼女の口癖だった。
攻撃は、何か月もの間、禁じられていた。
だが今日は、ついに模擬戦へ進むことになった。
初めて、今まで学んできたすべてを使って、師匠に攻撃していい日。
本来なら、喜ぶべきことだった。
……本来なら。
「師匠、そろそろ強力な魔法を使うのはやめてくれませんか?剣の稽古だけのはずじゃなかったんですか?」
「ふふふ……ははは!」
「笑うのもやめてください!」
「ほう……何を言っているの?私は強力な魔法なんて使っていないわ。あれはただの低級火魔法よ」
彼女は私の正当な抗議を完全に無視し、
訓練場を吹き飛ばすのが当然であるかのように、
自分の魔法を正当化した。
「自分で言ってておかしいと思わないんですか?」
私は気力の抜けた顔で、低い声を出した。
「低級火魔法で、訓練場が吹き飛ぶわけないでしょう!」
「それは弱者の泣き言ね」
彼女は手をひらひらと振り、私の言葉を一蹴した。
まるで、それが私の弱さの証明でしかないかのように。
当然ながら、責任を取る気は微塵もないらしい。
私はあまりにも疲れていて、
これ以上言い争っても無駄だと分かっていた。
どうせまた、私の力不足の話にすり替えられるだけだ。
――その時、ふと疑問が浮かんだ。
「……待ってください。火魔法は師匠の得意分野じゃなかったはずですよね?じゃあ、さっきのは何だったんですか?」
「ああ、あれはスキルよ」
彼女は、あまりにもあっさりと言った。
「……スキル?」
この世界には魔法がある。
だが、ごく一部の者は、通常の魔法とは異なる特別な力を持っている。
それが、スキルだ。
スキルは魔法そのものではないが、魔法と併用したり、魔法を強化したりすることができる。
だが、心身や魔力の限界を押し広げた者だけが、ようやく得られる力。
生まれつきスキルを持つ者は、さらに稀だった。
私の知る限りでは、メアリーさん、レイナ師匠、そしてマーカス卿。
スキルを持つのは、その三人だけだ。
そして彼らは皆、過酷な鍛錬の果てに、その力を手に入れていた。
――私は違う。
「かわいそうに」
レイナ師匠は、にやりと笑った。
「あなたには、スキルすらないものね」
私は歯を食いしばり、拳を強く握った。
……なんだその顔は。
弟子を堂々と嘲るその態度。
この人に、恥という概念は存在しないのだろうか。
「……ちっ。クソババア」
気づいた時には、口から言葉が零れていた。
わざとではない。
だが――取り消すことはできない。
レイナ師匠の表情から、笑みが消えた。
次の瞬間、その顔は怒りに塗り替えられる。
額に血管が浮かび上がり、彼女の身体を、淡い青色のオーラが包み込んだ。
色合いだけ見れば、どこか涼しげで美しい。
だが、そこから伝わってくる気配は、まるで違う。
背筋にぞっとする寒気が走った。
――ああ、これはまずい。
レイナ師匠は拳を振り上げた。
ほとんど一瞬だった。
魔力に覆われた、全力の一撃。
直撃すれば、また意識を失うだろう。
いや、それだけで済むかどうか……。
その時――
パンッ!
乾いた音が、部屋に響いた。
拳は、私の顔の寸前で止まった。
一瞬、助かったと思った。
だが、扉の方を見て、すぐに悟る。
……違う。
立っていたのは、メアリーだった。
目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべたまま、
彼女の身体から、黒い魔力が滲み出ている。
怒鳴り散らし、暴れ回るような怒りではない。
それよりも、ずっと質が悪い。
静かで、丁寧で、
――恐ろしい。
目を閉じているのに、
部屋のすべてを見通しているような感覚があった。
メアリーは美しい。
だがその瞬間、私は確信した。
この世界で一番怖い人は、
間違いなく彼女だ。
「……おい?」
メアリーは柔らかな声でそう言った。
「この騒ぎについて、どちらか説明してくれるかしら?」
「……」
師匠と私は、同時に動きを止めた。
一瞬、沈黙が落ちる。
だが、何を言っても結果は変わらないと、二人とも分かっていた。
これは質問ではない。
処罰の前に形式だけを整えているだけだ。
「えっと……その、メアリーさん――」
ドスッ! ドスッ!
鈍い音が二つ響いた。
次の瞬間、師匠と私は揃って頭を押さえ、
行儀よく床に正座させられていた。
まるで、悪戯を叱られる子供のように。
メアリーの権威は、戦闘力によるものではない。
沈黙と信頼――それだけで、誰も逆らえなくなる力だった。
「無駄話はそこまでです」
彼女は淡々と言った。
「今日はまだ、マーカスとの訓練が残っていますよ」
「えええっ!?
でも、さっき師匠との訓練が終わったばかりじゃないですか!少しくらい休ませてくれても――」
「……」
メアリーの目が、静かに陰った。
「……おねがい、します?」
私は必死に、できる限り可愛く見えるように懇願した。
普段の彼女は優しくて穏やかだ。
だから、少しは甘くしてくれるかもしれない――そう思った。
「休憩は、訓練が終わってからです」
彼女は微笑んだまま言った。
「それとも……死んでから休みたいですか?」
「……いいえ、結構です」
声が裏返った。
この瞬間、はっきり理解した。
本気でメアリーを怒らせたら、冗談では済まない。
背中を、冷たい汗が伝う。
死にたくはない。
だから、選択肢は一つしかなかった。
逃げることも考えられなくはない。
だが、それでは何も解決しない。
弱いままで、
失望されて、
心配をかけるだけだ。
そんなのは、嫌だった。
「よろしい」
メアリーは満足そうに頷いた。
「では、良い子にしてマーカスのところへ行きなさい」
私は言われた通り立ち上がり、
身体中の痛みを抱えたまま部屋を後にした。
屋敷を出て、訓練場へ向かう。
そこには、すでに一人の男が待っていた。
訓練場の中央に、堂々と立つ影があった。
※※※
私が部屋を出た後、
師匠とメアリーは、静かに言葉を交わしていた。
私に聞かせるつもりは、最初からない。
実際、その声は、もう私の耳には届いていなかった。
「……ずいぶん成長したわね」
レイナ師匠は、先ほどまで私と並んで正座していたとは思えないほど、
気楽な姿勢で床に座っていた。
脚を折り、膝の上に手を置きながら、
その場の空気を完全に支配している。
「はい」
メアリーは静かに答えた。
「ですが、まだ危険な状態です。
残された時間も、あまり多くありません」
「……」
レイナ師匠は何も言わなかった。
その表情から、いつもの軽薄さは消えている。
ただ、扉の方を見つめていた。
まるで―そこにいない私の姿を、見通そうとするかのように。
「さあ、クライ坊ちゃん。そんなもんか?」
マーカスは、木剣を手にして私の前に立っていた。
彼はこの屋敷の執事で、年の頃は五十代くらいに見える。
見せかけの筋肉ではなく、長年鍛え上げられてきた身体。
その体格は、ただ立っているだけでも圧を感じさせた。
白髪に、白い顎髭。
片目の下には、斜めに走る傷跡があり、顔に十字を描いている。
……五十歳くらいで、こんなに白髪になるものなんだろうか?
「油断していると、怪我をするぞ」
マーカスは木剣の握りを調整しながら言った。
片眼鏡の奥の視線は、穏やかそうに見えて、まったく油断ならない。
私は剣の柄を掴み、身体を支えながら立ち上がった。
顔は痣だらけ、服は土まみれ。
全身に痛みが走り、まともに喋るのも辛い。
「……うるさい、じいさん」
こんな状態でも、なぜか口が勝手に動いた。
まただ。
私は歯を食いしばり、剣を両手で握り直す。
次の一撃に備え、構えを取った。
「ほう……じいさん、か」
マーカスは片手を背中から離し、腰を落とした。
木剣は正面ではなく、やや横に構えられている。
防ぐための構えではない。
解き放つための構えだ。
「では……この老いぼれの力、とくと見せてやろう」
――速い。
次の瞬間、マーカスは踏み込んでいた。
土煙が舞い、距離が一気に詰まる。
空気が裂けるような感覚が、肌を打った。
五十代に見える動きじゃない。
カンッ!
間一髪で、私はその一撃を受け止めた。
「ほう。今のが見えたか」
木剣同士が噛み合う。
受け流せない。
弾けない。
防ぐしかない。
――重い。
腕が悲鳴を上げ、膝が軋む。
立っているだけで精一杯だった。
その時、マーカスが微笑んだ。
「身体強化魔法――マナ・ビルド」
彼の身体が、淡く光り始める。
四方から、色とりどりの魔力が流れ込んでいく。無数の微細な魔力粒子――マナキュルが、彼の身体へと吸い込まれていった。
やがて、虹色にも見える光が、彼を包み込む。
……少なくとも、私の位置からは、そう見えた。
「ちょっと待ってください!
自分に強化魔法使うのは反則でしょう!」
「老体でな」
マーカスは平然と答えた。
「助けは多い方がいい」
――消えた。
瞬きもしていない。
目を逸らしてもいない。
それなのに、彼は消えていた。
次の瞬間――
左。
右。
背後。
上。
あらゆる方向から、攻撃が降ってくる。
見えない。
反応できない。
次の一撃を予測することすら不可能だった。
私はただ、じいさんと呼ばれた報いを、全身で受け取るしかできなかった。
気が付いた時には、地面に倒れていた。
全身が痛みで悲鳴を上げ、顔の感覚すらほとんど残っていない。
マーカスは、満足そうな笑みを浮かべながら、消えかけた光の中で私を見下ろしていた。
「では、この老骨は休ませてもらおうか」
木剣を肩に乗せ、彼は笑った。
……怖すぎる。
こんな化け物みたいな使用人、師匠はいったいどこから連れてきたんだ。
口を開こうとしたが、うまく言葉にならない。
「……ああ……なんで、毎回、口に出しちゃうんだ……」
マーカスは背を向け、歩き出した。
私は地面に寝転がったまま、荒い息を整える。
身体強化魔法。
マナ・ビルド。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
師匠が放つ派手な魔法とは違う。
マーカスは、自分自身を強化していた。
速くなり。
強くなり。
手が届かないほどに。
「……俺、遠すぎるな」
思わず、言葉が零れた。
この世界に来てから初めて、胸の奥で、危険な何かが蠢くのを感じた。
もしかしたら……
もしかしたら――
あれは、俺にも使える力なんじゃないか。
「今日はここまでだ」
途中で立ち止まり、マーカスは振り返った。
「好きに過ごすといい」
そう言い残して、屋敷へと戻っていった。
マーカスとの訓練という名のそれは、実質、袋叩きだった。
だから、思ったより早く終わった。
私はしばらく空を見上げたまま、倒れていた。
どうすれば、あの人たちに追いつけるのか――。
「……考えすぎても仕方ないか」
そう呟き、私は立ち上がって土を払った。
「……まだ半年だ。時間さえあれば、追いついてみせる」
確か、師匠が冒険者ギルドに行くと言っていたはずだ。
……様子を見に行ってみるか。




