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私は親友と一緒に転生しました  作者: Black Spice/ブラック・スパイス
魔法の習得
2/3

異世界での初めての出会い

 ……浮いているのか?


 自分が動いている感覚はある。

 けれど、どうやって?

 どこへ向かっているのか?


 分からない。


 そこにあるのは、光だけだった。

 果てしなく続く闇に囲まれながら、目の前へと伸びる、あまりにも眩しい光。


 どうしてこんなに眩しい?

 何も見えない。


 光が視界を焼きつけるのに、目を閉じることができない。

 瞬きをすることすらできない。

 そもそも、閉じるための目が本当に存在しているのかさえ分からなかった。


 ――病院の照明?


 いや、違う。

 病院が、こんなにも暗いはずがない。

 手術室だって、こんな虚無に満ちた場所ではない。


 それに……思い出す。


 路地裏。

 振り下ろされたマチェット。

 あの一撃で、身体には致命的な傷が刻まれた。


 血が溢れ出している感覚が、はっきりとあった。急激に熱くなって――そして、冷たくなっていった。


 あれで助かるはずがない。


 光へ向かって、手を伸ばそうとする。

 ……いや、正確には、伸ばしているつもりなんだ。


 手はない。

 腕もない。

 身体もない。


 あるのは、「伸ばしている」という感覚だけ。

 まるで、身体を失ったことを、思考だけが理解しきれていないかのように。


 ……なるほど。


 ここにあるのは意識だけだ。

 この空間を漂っているのは、魂だけ。

 それでも脳は、まだ身体があるかのように錯覚して、手を伸ばしている。


 あまりにも眩しい光に耐えながら、私はその向こう側へと進み続けた。


 天使の賛美歌が響き渡り、

 雲でできた白亜の宮殿と、黄金の門が私を迎え入れる――

 そんな光景が待っているのだと、どこかで思っていた。


 けれど、そこには何もなかった。


 代わりに、私は別の場所へ導かれた。

 いつか、再び思い出すことになる――そんな場所へ。






 澄み渡る青空の下に、ひとつの島があった。

 森の地面には色とりどりの花々が咲き誇り、リュウのいた世界では見たこともない不思議な生き物たちが木々の間を動き回っている。


 島の一角では、ひとりの女性が戦っていた。


 水の弾丸と氷の槍が彼女の手から放たれ、上空を旋回する赤い若いドラゴンへと空を切って飛んでいく。

 ドラゴンは翼を大きく打ち、炎で応戦しながら、下の森へ火の粉を撒き散らした。


「ちっ……しつこいわね」


 レイナ・スタシアは舌打ちし、片手を掲げた。

 彼女の掌に水が集まり、渦を巻く球体となって、勢いよく空へと放たれる。


 若きドラゴンは身を捻り、その攻撃を紙一重でかわした。


 レイナが戦闘を続ける一方で、同行していたメイドは森の中を歩き、果物を籠に集めていた。


 彼女の名は、マリアダ。


 彼女は落ち着いた足取りで木々の間を進み、耳をぴくりと動かしながら、周囲の音に注意を払っている。


 ――そのとき、彼女は立ち止まった。


「……ん?」


 草木の向こうに、何かがある。


 マリアダは葉をかき分け、さらに近づいた。

 そこには、植物に覆われた地面の上に、ひとりの少年が横たわっていた。


 年の頃は十代半ばほど。

 引き締まった体つきの、細身の少年で、その髪は白かった。


 少年は、微動だにせずに横たわっている。


 驚きを隠しきれず、マリアダはその場にしゃがみ込み、そっと彼の頬を指で叩いた。


「……ねえ。生きてる?」


 返事はない。


 しばらくの間、少年は動かなかった。


 だがやがて、胸がわずかに上下していることに気づく。

 マリアダは手の甲を彼の口元へと近づけた。


 数秒後、かすかな温もりが彼女の肌に触れた。


 ――呼吸がある。


「……生きてる」


 安堵が、マリアダの表情を和らげた。

 だが、それも一瞬だった。


 霧の国の森で、白い髪の少年が意識を失ったまま倒れている。

 その状況を、彼女は見過ごすことができなかった。


 マリアダは、まだ戦闘を続けているレイナのいる方向へ視線を向け、

 そして再び少年へと目を落とした。


(……レイナ様、こちらをご覧ください)


 その声は、口から発せられることなく、思念として届く。


 返答は、ほとんど間を置かずに返ってきた。


(何よメアリー! 今、戦闘の最中でしょう!?)


 レイナの苛立った声が、マリアダの頭の中に響いた。


(承知しています。でも、重要なのです)


(私も燃やされずに済む方が重要よ!)


 マリアダは、ほんの一瞬、目を閉じた。


 表情は変わらない。

 だが、その静けさの裏で、苛立ちが揺れていた。


 主人に逆らうことはできない。

 しかし、この少年をここに残すこともできない。


 マリアダは眼鏡を押し上げ、決断を下した。


 彼女は少年を慎重に抱き上げ、果物の籠とともに腕に収める。


 そして、戦闘音から離れるように森を進み、

 やがて霧の境界近くにある石の台座へと辿り着いた。


 そこには、濃く厚い霧の壁が広がっている。


 普通の人間が足を踏み入れれば、生きては戻れない。

 しかし、霧のすぐ近くの一帯だけは、不思議と安全だった。


 魔物たちは、決して近づこうとしない。


 マリアダは台座の上に立ち、ゆっくりと息を整えた。


「空間と時間を開き、道を示せ。この魂を、その帰るべき場所へ……転移魔法」


 足元から光が広がる。

 石に刻まれた線が浮かび上がり、魔法陣を描き出した。


 光の壁が、マリアダと少年を包み込む。


 そして次の瞬間――


 二つの影は、その場から消え去った。


 ほどなくして魔法陣も静かに消え、

 森は何事もなかったかのように静寂を取り戻す。


 遠く離れた場所では、マリアダが去ったことなど知らぬまま、

 レイナが若きドラゴンとの戦闘を続けていた。


 彼女は両手を掲げ、水と氷を引き寄せながら、獰猛な笑みを浮かべる。


「その調子よ! どこまでやれるか、見せてもらおうじゃない!」





 マリアダは、ある屋敷の庭に姿を現した。


 手入れの行き届いた生垣と花々に囲まれた美しい庭が広がり、正面玄関へと続く石畳の小道が伸びている。


 霧の境界で彼女の足元に浮かび上がっていたものと同じ種類の魔法陣が、庭の台座の上で淡く光り、やがて消えていった。


 少年を腕に抱いたまま、マリアダは台座を降り、石畳に沿って屋敷へと向かった。


 正面玄関から屋敷に入り、彼女は少年をリビングへと運ぶ。

 暖炉のそばにあるソファへと、そっと彼を寝かせた。


 しばらくの間、マリアダは黙って少年を見下ろしていた。

 白い髪。

 森の中で、誰ひとり近くにおらず、傷ひとつなく倒れていた少年。


 そのどれもが、不可解だった。


 マリアダは眼鏡を整えると、果物の籠を手に取り、キッチンへ向かった。

 カウンターに籠を置き、ナイフを取り出し、手慣れた手つきで果物を切り始める。


 トン、トン、トン。


 まな板に刃が当たる音が、微かにリビングまで響く。


 キッチンとリビングは近く、わずかな音でも伝わる距離だった。


 切り終えようとした、そのとき――

 マリアダの耳が、ぴくりと動いた。


 ソファの方から、かすかな物音がする。


 彼女は手を止め、ナイフを置いてからリビングへと向かった。


 そこでは、つい先ほどまで意識を失っていた少年が、ゆっくりと上体を起こしていた。


 片手を額に当て、

 わずかに顔を歪めている。

 どうやら、頭痛があるようだ。


「あら……」


 マリアダは柔らかな声で言った。


「ようやく目を覚ましたのね」


 少年は顔を上げる。

 目を開くだけでも、かなりの力を使っているかのように、動きは緩慢だった。


 額を押さえたまま、声のした方を見る。

 そして、その視線がマリアダと交わった。


 黒紫色の毛並みに、猫のような耳と長い尾を持つ獣人の女性。

 整えられた眼鏡とメイド服が、その立ち居振る舞いに品格を与えている。


 顔立ちは人に近いが、肌は柔らかな毛で覆われていた。


 少年は、じっと彼女を見つめた。


 マリアダは一瞬、恐怖を予想した。

 悲鳴。

 混乱。

 見慣れない存在を前にした、本能的な拒絶。


 だが――どれも起こらなかった。


 少年の瞳には、痛みと戸惑いが浮かんでいたが、驚くほど落ち着いている。

 その静けさは、取り乱すよりも、彼女を不安にさせた。


「……君は、誰だ?」


 少年が尋ねた。


 声は低く、警戒も敵意もなかった。

 ただ、混乱しているだけだった。


「私の名前はマリアダよ」


 彼女は穏やかに答えた。


「はじめまして」


「……ああ」


 返事さえ控えめだった。


 マリアダは慎重に少年を観察する。

 彼は、ここがどこなのかを理解していない。

 自分の目の前にいる存在が何者かも、分かっていない様子だった。


 それでも、恐れてはいない。


 状況を把握しきれていないのか。

 それとも、意識以上に、何かを失っているのか。


 いずれにせよ、放っておくわけにはいかなかった。


「こちらへ」


 マリアダは言った。


「食事を用意してあるわ」


 少年をキッチンへ案内し、椅子に座らせる。

 テーブルには、切り分けられた果物が並んでいた。


 少年はしばらくそれを見つめ、それからゆっくりと一切れを手に取り、口へ運ぶ。


 マリアダは向かいの席に腰を下ろした。


「体調はどう?」


「……悪くはない」


 少し間を置いて、少年は答える。


「ただ、頭が少し痛む」


「そう」


 マリアダは手を揃え、姿勢を正した。


「では、あなたの名前を教えてもらえるかしら?」


 少年の手が止まった。


 しばらくの間、果物から目を離し、虚空を見つめる。


「僕の……名前……」


 思い出そうとする。

 だが、そこには何もなかった。


「……ごめん」


 彼は小さく言った。


「分からない」


 マリアダの目が、ほんのわずかに見開かれる。


「分からない……?」


「……自分の名前を、思い出せない」


「どうして?」


「分からない」


 少年は再び額に手を当て、顔をしかめた。


「ここで目を覚ます前のことを考えようとすると、頭が痛くなる」


 彼はキッチンを見回す。


「ここは……どこだ?」


 マリアダは、しばし彼の目を見つめた。


「あなたは……自分がどこから来たのかも、今どこにいるのかも分からない、と言うのね?」


 少年は黙って頷いた。


 その瞳には、恐怖はない。

 ただ、空白だけがあった。


 マリアダは注意深く観察する。

 呼吸。

 心拍。

 匂い。

 表情の、わずかな変化。


 獣人としての感覚は、他者が見逃すものを読み取ることができる。

 彼女の前で嘘をつくのは、容易ではない。


 そして、この少年は嘘をついていなかった。


 名前も。

 故郷も。

 さらには、自分がいた世界さえも。


「……ここは、私の主人の屋敷よ」


 マリアダは静かに告げた。


「ヴィスマギアの町の近くにあるわ」


 予想どおり、少年に反応はなかった。


 マリアダは、小さく息を吐く。


 彼は、名前以上のものを失っている。

 自分が何者であるかを示すすべてを。


 それなのに、彼の不安は、奇妙なほど薄かった。


 まるで、頭では理解しているのに、

 心が、その重さをまだ知らないかのように。


 それもまた、彼女を不安にさせた。


 さらに問いかけようとした、そのとき――


「メアリー!!」


 廊下から声が響いた。


 マリアダは一瞬、目を閉じ、それから立ち上がる。


「失礼します」


 その動作は、どこまでも優雅だった。


 キッチンを出て、廊下へと足を踏み出す。


 廊下へ出たその瞬間、淡い水色の髪をした女性が、マリアダの前に立ちはだかった。


 レイナ・スタシア。


 戦闘を終えたばかりなのだろう。呼吸はまだ少し乱れており、その顔には怒りがはっきりと浮かんでいた。


「……何を考えているの?」


 その声は低く、強く抑え込まれていた。

 だからこそ、余計に恐ろしく感じられた。


「どうして私を置いていったの?」


 マリアダは落ち着いた様子で向き直った。


「戦闘中でしたので」


「だからって許されると思っているの?!」


 レイナは一歩踏み出した。


「私はまだ戦っていたのよ! 相手はドラゴンだったのよ――若いとはいえ! どうして私を置いていけるの?!」


 マリアダは首をかしげた。


「次からは、誰かが話しかけている時に返事をなさってください」


 レイナのこめかみが、ぴくりと動いた。


「……やっぱり、わざとやったわね?」


「さて」


 マリアダは、ただ肩をすくめた。


 その落ち着きが、レイナの苛立ちをさらに煽った。


「まったく――!」


 レイナが再び声を荒げようとしたその時、マリアダは片手を上げた。


「ですが、それよりも……」


 彼女はキッチンの方を指さした。


「ご覧ください」


 レイナは動きを止めた。


 眉をひそめたまま、マリアダの示す先を追う。


 そして、マリアダの肩越しにキッチンを見た時、そこに座っている少年の姿が目に入った。


 その瞬間、レイナの表情が凍りついた。


「……何?」


 空気が変わった。


 怒りが彼女の顔から消え、代わりに緊張と警戒が走る。


「……白い髪?」


 その言葉には、明らかな衝撃が込められていた。


 レイナはゆっくりと少年に近づき、慎重にその姿を見定めた。

 少年はその行動に驚いているようだったが、抵抗はしなかった。


 見間違いようがなかった。


 彼の髪は白い。


 それだけで、この状況は危険だった。


 レイナは入口の方へ戻り、マリアダと向き合った。


「マリアダ……」


 レイナは声を低くした。


「この子は誰? どこで見つけたの?」


「森です」とマリアダは答えた。「霧の境界付近で」


「……霧の地?」


「はい」


 レイナは歯を食いしばった。


「……どうして、ここへ連れてきたの?」


 その問いには、責める響きと不安が混ざっていた。

 問い詰めるその姿は、まるで被告人を追及する検察官のようだった。


「置いていくことはできませんでした」


「なら、霧の近くの安全地帯へ連れて行けばよかったでしょう!」


 叫んでいるにもかかわらず、その声は低く抑えられていた。


「意識を失っていました」


 マリアダの返答は揺るがなかった。


「あのまま放置すれば、命の保証はありませんでした」


 レイナは黙り込んだ。


 怒りが完全に消えたわけではない。

 だが、それ以上に、この状況の危険性が重くのしかかっていた。


「……本当に、厄介なことをしてくれるわね」


 彼女は片手で髪をかき乱した。


「この子は誰なの? まだ答えていないわ」


「ええ……どうやら、記憶も名前も失っているようです」


 レイナはわずかに口を開いた。

 答えを聞くたびに、状況はさらに彼女を言葉に詰まらせていく。

 一方のマリアダは、その時のレイナの感情には動じず、落ち着いた様子を崩さなかった。


「白い髪。身元不明。記憶喪失……」


 レイナはゆっくりと息を吐いた。


「考えられる限り、最悪の組み合わせね」


「なぜそこまで不安がるのか、私には分かりません。白い髪というだけでしょう」


 マリアダがそう付け加えると、レイナの苛立ちはさらに増した。


「白い髪というだけ?! それは――」


 レイナは何かを言いかけた。


 だが、その途中で言葉を止めた。


 内側では叫びたいほどの苛立ちを抱えながらも、外に出たのは歪んだ表情だけだった。


「……ああああっ!」


 大きく唸るような声を漏らし、彼女はなんとか自分を落ち着かせた。


「……それで、この子をどうするつもり?」


 レイナはマリアダへ視線を向けた。


「ここへ連れてきたということは、何か理由があるのでしょう」


 マリアダは一瞬、言葉に詰まった。


 責任の重さが、彼女の肩にのしかかる。


 それでも――彼女は目を逸らさなかった。


「この子には……受け入れられる場所がありません」


「……」


「ただ髪の色が違うというだけで、人々はこの子を拒むでしょう」


 その声は揺るがなかった。


「それは、私たち獣人が、圧倒的な力を持つという理由だけで恐れられ、忌避されてきたことと同じです」


 レイナは黙って耳を傾けていた。


「それでも」とマリアダは続けた。「良き主に仕えることができれば、未来に希望を持つことはできます」


 彼女はレイナの目を見つめた。


「私は、あなたに出会えて幸運でした」


「マリアダ……」


 レイナの胸に、何かが締め付けられるような感覚が走った。


 だが、マリアダはまだ言葉を終えていなかった。


「ですが、この子は……」


 彼女の視線は少年へ戻る。


「理由も分からないまま、拒絶されることになる」


「……」


「それを、見過ごすことはできませんでした」


 部屋に静寂が満ちた。


 しばらくして、レイナは小さく、力の抜けた笑みをこぼした。


「……本当に、あなたらしいわ」


 彼女は姿勢を正した。


「いいでしょう」


 レイナはもう一度、少年を見下ろした。


「今は、考える時間が必要ね」


 レイナは腕を組んだ。


「名前がないのなら……あなたが付けてあげなさい。いつまでも『少年』と呼ぶわけにはいかないでしょう」


 マリアダは静かに頷いた。


 マリアダはキッチンへ戻り、少年の向かいに腰を下ろした。


 レイナは扉のそばに立ったまま、黙って見守っていた。


 マリアダが口を開く前に、少年の方が先に話した。


「……私、あなたたちの負担になっているんですよね?」


 少年は低い声でそう言った。

 だが、その目はまっすぐだった。


「え……いいえ。気にしないでください」


 マリアダは彼を安心させるように言った。


「あの方は、少し心配しすぎているだけです」


 扉のそばで黙ったまま立っているレイナのことを指して、彼女はそう言った。


 それからマリアダは、少年へ静かに語りかけた。


「……あなたに、名前を付けてもよろしいですか?」


「名前……?」


 少年は少し考えた。


「別に……構わないと思います」


「よかった」


 マリアダは柔らかく言った。


「では……少し考えさせてください」


 彼女は目を閉じた。


 部屋には、暖炉の火がかすかに弾ける音だけが響いていた。


「メアリー、待って――」


 レイナが突然、声を上げた。


 マリアダは顔を上げる。


「どうしました?」


 レイナはためらった。

 わずかに腕を上げたが、そのまま止まった。


「……いいえ。何でもないわ。続けて」


 彼女は腕を下ろし、再び見守る側に戻った。


「分かりました」


 マリアダは少年へ向き直った。


「あなたの名前は、クライ・レトス。どうでしょうか?」


「レトス……」


 少年は静かにその名を繰り返した。


「はい。私の文化では、レトスには忘却、あるいは記憶の喪失という意味があります。けれど同時に、耐え抜くという意味も持っています。記憶を失いながらも生き残ったあなたには、その名が相応しいと思いました」


「レトス……いい名前だと思います」


 少年はそう答えた。


 レイナはじっと見つめていた。


 何も起こらなかった。


 反応もない。

 圧力もない。

 反動もない。


 彼女が恐れていたことは、起こらなかった。


「……迷いなく受け入れるなんて」


 レイナは呟いた。


「思っていた以上に、不思議な子ね」


 少年は視線を落とした。


「……私には、もう何もありません」


 彼は言った。


「私のものだったものは、何ひとつ残っていないんです」


 少年は少し間を置いた。


「だから、新しい名前をもらっても、問題ないと思いました」


 マリアダは息を呑んだ。


「それに……あなたのことは、信じられる気がします。

 あなたがくれる名前なら、受け取りたいんです」


 マリアダは少年を見つめた。


 二人は出会ったばかりだった。

 それなのに彼は、数か月、あるいは何年もかけて育まれるような信頼を、彼女に向けていた。


「……クライ・レトス」


 少年はその名を呟いた。


 かつて高校生だったリュウは、別の世界で命を落とした。


 そして今、記憶も過去も失ったまま、

 この世界で一人の少年として生まれ変わった。


 彼は新たな人生を歩み始めた。


 そして、クライ・レトスという名は、

 空っぽになった彼の新しい人生で、初めて手にした大切なものだった。

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