第七話 木板は襲ってこない
町を出てしばらくは、道の両側ばかり見ていた。
草の間には、小さな青い花が咲いている。風に揺れるたび、葉の陰に隠れては顔を出した。
遠くに鳥が飛べば見上げ、変わった形の石があれば、通り過ぎる直前まで目で追う。
草むらから、何かが飛び出した。
「うわっ」
思わずセルファの方へ寄る。
小さな動物だった。私たちには目もくれず、道を横切って反対側へ消えていく。
ウサギっぽい。
でも、耳が妙に短かった。
「今の何?」
「ただの獣だ」
「それは見たら分かる」
もう一度草むらを覗いたけれど、短い耳は見つからなかった。
そのあとも、荷物を積んだ馬車とすれ違ったり、道を横切る鳥の影を追ったりしながら歩いた。
気になるものは、次々見つかる。
足はずっと、同じことを繰り返している。
一時間ほど経つ頃には、景色を見るより肩紐を直す回数が増えていた。
バックパックが重い。
食い込む位置をずらしても、楽なのは少しだけ。また同じところが痛くなって、背負い直したくなる。
昨日は薬草の袋だけだった。今日は食料も水も、寝るための毛布まで背中にある。
前を見ても、ずっと道。
振り返ると、あれだけ大きかったルノルシアの城壁が小さくなっていた。
「セルファ」
「何だ」
「さっき言ってた町まで、あとどれくらい?」
「三日くらいだ」
「……三日?」
足が止まった。
少し先へ進んだセルファが振り返る。
「今日だけじゃなくて、明日も歩くの?」
「明後日もな」
「そこまで言わなくていい」
海まで数年かかるのは聞いた。
でも、最初の町だけで三日?
「じゃあ、今日は野営?」
「ああ」
「明日も?」
「そうなるな」
「途中に宿とか、村とかは?」
「この道にはない」
「……マジか」
外で寝るかもしれないとは思っていた。毛布も買った。
でも、今日一日歩いても着かないと分かると、目の前の道が急に長く見えた。
三日かかる場所へ、歩いて行こうとしたことなんてない。
電車とか、新幹線とか。遠ければ飛行機もある。
全部、自分の足かあ。
「戻るか?」
セルファが聞いた。
「え?」
「今なら、まだ町まで戻れる」
振り返る。
あそこには宿がある。荷物を下ろして、ベッドに座れる。お腹が減ったら、通りで何か買えばいい。
置いてきた制服もある。
肩紐を握ったまま、しばらく城壁を眺めた。それから、前へ向き直る。
道は緩く坂を上り、その先で見えなくなっていた。向こうに何があるのか、ここからでは分からない。
「帰らない」
バックパックを背負い直す。
重いのは、重い。
でも、まだ知らないところへ行きたくて出てきたんだし。
「行こ」
セルファの横を通り過ぎ、坂へ向かう。
何歩か進んでから、隣に足音がないことに気づいた。振り返ると、セルファはまだ立っていた。
「何してんの?」
呼ぶと、こちらを見ていた目が一度伏せられた。すぐに歩き出し、隣へ並んでくる。
「行こって言ったじゃん」
「少しくらい待て」
「歩くって意味なんだけど」
「分かってる」
「じゃあ来てよ」
返事の代わりに、セルファが前を向いた。
何だったんだろ。
気になったけれど、坂を上り始めると、それどころではなくなった。緩く見えていたのに、意外と長い。背中に汗が滲んでくる。
「……ねえ」
「今度は何だ」
「休憩っていつ?」
「まだ町を出て一時間くらいだぞ」
「一時間も歩いたじゃん」
「先が思いやられるな」
「私も今ちょうどそう思ってた」
◇
坂を越えた先で、ようやく荷物を下ろした。
道の脇に座ると、肩から重さがなくなった。身体がふわっと浮くような感じがする。
水を飲み、首を回す。セルファは立ったまま、進む先を見ていた。
「セルファ、平気なの?」
「何がだ」
「歩くの」
「慣れてる」
同じ距離を来たのに、全然疲れて見えない。
私も、そのうち慣れるんだろうか。
足を伸ばして、ローファーのつま先を見る。今のところ、元気になる自分より、明日もっと疲れている自分の方が想像できた。
それでも、水を飲んで風に当たっていると、少し楽になってくる。
セルファが荷物を持ち直すのを見て、私も鞄へ腕を通した。
そのあとも、何度か足を休めながら進んだ。
道沿いには木が増え、草の色も少しずつ変わっていく。木陰へ入るたびに涼しい風が通り、そこだけはゆっくり歩きたくなった。
少し前を行く背中へ声をかける。
「そろそろ休憩しない?」
「さっきしただろ」
「あれ、結構前じゃない?」
「まだ十分くらいだ」
「三十分は歩いた気がする」
「十分だ」
体感、三十分なんだけど。
肩紐を引き上げたところで、セルファの足が止まった。
「ほら。休憩?」
「違う」
声が低かった。
セルファは少し離れた草むらを見ていた。視線を追うと、背の高い草の間で灰色のものが動いている。
一匹の頭が見えた。その後ろに、もう一匹。
横の草も揺れ、三匹目の背中が現れた。
大型犬ほどの身体に、灰色の毛。背中には骨のような突起が並んでいる。
見覚えがあった。
「昨日のやつじゃない?」
「同じだ」
薬草を採っていた時、飛びかかってきた魔物。
昨日は一匹。今日は三匹。
杖を持つ手に、力が入った。
「……あれ、名前は?」
「ヴァルグだ。この辺りじゃ珍しくない」
「珍しくないんだ……」
道を歩いていたら、普通に出るらしい。
日本なら、絶対ニュースになるやつなのに。
三匹は草の中をゆっくり移動していた。時々顔を上げ、こちらの様子を窺っている。
口元に、長い牙が見えた。
あれには毒もある。
「一匹でも怖かったんだけど」
「昨日は何もしてないだろ」
「見てる側も怖いの」
声を落として答える。
一匹がこちらへ顔を向けた。目が合ったような気がして、動けなくなる。
セルファが刀の柄へ手を添えた。
昨日の銀色の光を思い出す。飛びかかってきた魔物は、すぐに倒れていた。
今度も、何とかしてくれる。
そう思って横顔を見ると、刀は抜かれなかった。
「ヤマハ」
「何?」
「いい機会だ。一匹、お前がやってみろ」
「……え?」
草むらへ目を戻す。
ヴァルグが草を踏み分けた。さっきまで隠れていた前脚も、長い牙も、はっきり見える。
「私が?」
「ああ。残りは俺がやる」
「いや、でも」
「間に合わなければ、俺が止める。まずは荷物を下ろせ」
背中の肩紐へ手をかける。
昨日、練習に付き合ってほしいとは言った。言ったけど。
いきなり動くやつ?
鞄を足元へ下ろしても、身体はちっとも軽く感じなかった。
「……マジで?」
セルファは冗談を言っている顔ではなかった。
杖を握り直すと、掌が汗ばんで、柄が少し滑った。
昨日、鏡の前で持った時とは全然違う。
木板は、こっちへ飛びかかってこなかった。




