第四十四話 追う者
エマちゃんの手を引いて、木々の間を走った。
枝が袖に引っかかる。避けた先には根が張り出していて、足元に気を取られると、今度は顔に葉が当たった。払いのける暇もなく、そのまま走る。
背後で、何かが砕けた。
振り返りかけた私の肩を、セルファが押す。
「止まるな」
その向こうで、水が木の幹を貫いた。
倒れてくる木を、シルヴィーがユスラフの柄で押し返す。幹が隣の木に引っかかり、頭の上から葉と細い枝が降ってきた。
「こっちだ!」
セルファが斜面へ向きを変える。
木々の間に、石の露出した道があった。昔は荷車でも通っていたのか、草に埋もれた轍が二本続いている。
「この先に橋がある。渡れば、上へ抜けられる」
握った手が、汗で滑りそうだった。
エマちゃんの息が近くで聞こえる。私も、もう苦しい。遺跡からずっと走っているのに、後ろの音は少しも遠ざかってくれなかった。
◇
橋は、細い谷に架かっていた。
濁った水が下を流れている。手すりの一部は折れ、古い板の隙間から谷底が見えた。
セルファが先に足をかける。
板が鳴った。
「……これ、渡って大丈夫なやつ?」
「一人ずつ来い」
答えになってない。
けれど、セルファはもう向こう岸へ渡っていた。こちらを振り返り、橋の先で待っている。
「エマ、先だ」
「エマちゃん、行って」
「でも、ヤマハさんは……」
「私もすぐ行くから。向こうで待ってて」
エマちゃんが橋へ踏み出す。
一歩ごとに板が沈み、張られた縄が揺れた。見ているだけで、変なところに力が入る。
早く渡ってほしい。でも、急いで踏み抜かないでほしい。そんなことを考えている間に、シルヴィーが私の前へ出た。森の奥で、水音がした。
濡れた地面から細い流れが集まり、木々の間を這ってくる。その上を歩くようにして、あの女が現れた。
裂けた袖の下に、赤い傷が見える。
さっき、私の雷が当たった場所だ。それでも、こちらへ来る足は止まらなかった。
「ずいぶん大事に運ぶのね」
女の視線が、私の鞄へ落ちる。
中には、布を巻いた封刃が入っている。私は肩紐を握り直した。
「使い方も知らないくせに」
「だから渡すとでも思ったか?」
シルヴィーがユスラフを構えたまま、私に言う。
「ヤマハ。行け」
エマちゃんは、もう向こう岸へ着いていた。
私は橋へ走った。
一歩目で、思ったより大きく揺れる。
「うわっ」
手すりを掴み、なんとか足を出した。下は見ない。板を見る。踏めそうなところだけを見る。
背後で、武器が何かを弾く音がした。
あと少し。
セルファの手が届きそうなところまで来た時、飛んできた水が橋を叩いた。
靴の裏が滑る。膝が板へぶつかり、痛いと思うより先に、身体が横へ傾いた。
「ヤマハ!」
セルファが岸から身を乗り出し、私の腕を掴んだ。
そのまま引かれ、土の上へ転がり込む。鞄が横腹に食い込み、息が詰まった。
「立てるか」
「……立てる」
膝がひりひりする。でも、動く。
セルファの手を借りて立ち上がると、対岸では、シルヴィーがまだ女と向き合っていた。
◇
水の刃が、ユスラフの柄を滑った。
シルヴィーが武器を傾けて受け流し、そのまま女の足元へ穂先を突き出す。女は半歩下がり、刃は土を抉った。
腰についた黒冠の周りで、水が薄く広がる。
その一部が、シルヴィーの脇を抜けた。
こっちへ来る。
セルファが私たちの前へ出て、二本の刀で流れを断った。弾けた水が顔にかかる。その後ろから、もう一本が伸びてきた。
「下がれ!」
エマちゃんと一緒に身を伏せる。
頭の上で、手すりが切れた。
縄が外れ、橋の片側が大きく沈む。板が傾き、何枚かが谷へ落ちた。
まだ、シルヴィーが渡っていない。
「シルヴィー!」
声を上げた時、対岸で落ち葉が一斉に浮いた。
シルヴィーの足元から風が広がり、迫る水の刃を横へ押し流す。ユスラフの鉤で女の前に張られた水を引き裂くと、その隙に橋へ踏み込んだ。
板が割れた。
けれど、シルヴィーは落ちなかった。
踏み切った足の下から風が吹き上がり、大きな身体が傾いた橋を飛び越える。
こちらの岸へ着地した瞬間、セルファが腕を掴んだ。二人の足が土を削り、谷の縁で止まる。
「……風も使えんの?」
シルヴィーは橋の向こうを見たまま、短く息を吐いた。
首元の鱗が、さっきよりはっきり浮いている。袖から見える腕にも、硬そうな鱗が連なっていた。
「あと、なんか……身体も変わってない?」
「龍気だ」
セルファが答える。
シルヴィーはユスラフを握り直し、こちらを見ずに言った。
「説明は後でな」
谷の向こうで、水が持ち上がった。
壊れた橋が押しのけられ、残っていた板も落ちていく。女が足を前へ出すと、その下へ水が集まった。
流れが、谷を渡るように伸びてくる。
橋がなくても、関係ないんだ。
セルファが私を見た。
「ヤマハ。刀へ流せるか」
二本の刃が差し出される。
私は頷き、右手を上げた。指が少し震えている。走ったせいか、怖いせいか。たぶん、どっちもだ。
それでも、やり方は覚えている。
「《フルメクタ》」
指先で弾けた火花が、刀身へ移った。
黎閃と宵閃に青白い光が走る。セルファは刃に流れる雷を確かめ、女へ向き直った。
「シルヴィー」
「ああ」
エマちゃんが私の袖を引く。
「こっちです」
道の脇に、崩れかけた石壁があった。二人でその陰へ入り、坂の下を見る。
走るだけじゃ、追いつかれる。
あの人を、一度止めないと。
◇
水の上から女がこちらの岸へ降りた瞬間、シルヴィーが地面を蹴った。
足元の石が跳ねる。さっきより、速い。
ユスラフの斧刃を、女が水の膜で受け止めた。衝突の音が石壁の向こうまで響き、膜が大きく沈む。
シルヴィーは押し返されず、そのまま柄を捻った。
鉤が膜の端に食い込む。
そこへ風が吹き込み、水を横へ引き剥がした。
セルファが、空いた隙間へ入る。
青白い光が二本、交差した。
女が身を捻る。長い刃が脇腹を掠め、短い刃が腰の冠へ迫った。
その直前で、水が弾ける。
刀を逸らした女が、初めて大きく後ろへ下がった。
「……鬱陶しい」
足元の水が、二人を囲むように広がった。
シルヴィーがユスラフを引く。中央で柄が分かれ、左右の刃がそれぞれの手に収まった。
右の刃で顔を狙い、女が避けた先へ左の刃を振るう。
迫っていた水の切っ先は、風で横へ逸れた。シルヴィーはそのまま踏み込み、女の腕を弾き上げる。
脇腹から血が落ちた。
遺跡で受けた傷だ。服に赤い染みが広がっているのに、シルヴィーは下がらなかった。
セルファの刀が、もう一度腰へ伸びる。
女が足を踏み込んだ。二人の足元で、水が盛り上がる。
「セルファ!」
私は石壁から手を出した。
女の顔へ狙いをつける。
「《フルメン》!」
青白い雷撃が、一直線に走った。
女がこちらへ顔を向け、肩を引く。光は頬のすぐ横を抜け、後ろの木に弾けた。
外した。
けれど、女が私へ注意を向けた一瞬、足元の水の立ち上がりが鈍った。
セルファが跳び退く。シルヴィーも風をまとって横へ抜けた。
直後、噴き上がった水が、二人のいた場所を打ち抜く。石が砕け、破片が壁に当たった。
エマちゃんが私の腕を引く。
「ヤマハさん、上へ!」
石壁の横には、坂道が続いていた。
走り出すと、すぐにセルファが追いついた。シルヴィーも後ろへつく。
四人で坂を上がった。背後で、木が折れる。
足音は、まだついてくる、あれだけやっても。
傷だって、増えたのに。
「逃がすと思った?」
声が、近かった。
◇
坂の途中で、セルファが足を止めた。
私たちを背中へ下げ、刀を構える。シルヴィーも隣へ立った。息が荒い。
鱗の浮いた首元に、汗が流れていた。ユスラフを繋ぎ直す手にも、血がついている。
女は、坂の下からゆっくり歩いてきた。
片手を脇腹へ添えている。その指の間から血が滲んでいたけれど、もう片方の手には水の刃が伸びていた。
「その鞄を渡せば済む話でしょう」
私は肩紐を握った。
渡したら、帰れるのかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
でも、帰してくれるなんて、この人は一度も言っていない。女の手が上がる。
水の切っ先が私へ向き、その先端が、ふっと揺れた。
女が森へ顔を向ける。
私も、つられてそちらを見た。
木々の奥から、一人の男が歩いてきた。
土のついた長い外套。片側だけ留めた襟の下に、古い傷が見える。手には、鞘から抜いた剣を下げていた。
走ってはいない。
こちらへ声をかけることもなく、そのまま坂へ出てくる。
女の周りで、水が動いた。
私へ向いていた刃が引き戻される。セルファたちの足元へ伸びていた流れも、女の前へ集まった。
全部、あの人へ向いた。
女は脇腹を押さえていた手を離し、両手を構える。
「……まだ追ってきたの」
さっきまでとは、声が違った。
男は、血のついた女の手を見た。それから、腰の冠へ目を移す。
「返してもらうぞ、ネレイア」
女は答えなかった。
二人の間に、水の膜が幾重にも重なる。
セルファの刀も、まだ下がっていなかった。
「シルヴィー。二人を連れて行け」
「……ああ」
いつもなら何か言いそうなシルヴィーが、それだけで頷いた。
私の肩へ、大きな手が触れる。
「歩け。足元を見ろ」
「でも、セルファは?」
「すぐ来る」
男が、坂へ一歩踏み出した。
ネレイアの水が、その足元へ走る。
下げていた剣が動いた。
水の刃が二つに割れ、その向こうの地面まで裂ける。遅れて土が跳ね上がり、男の外套を汚した。
私は息を止めた。
剣を振ったのは見えた。
でも、どうして、その先の地面まで斬れたのか分からない。
セルファの手が、私の背中を押す。
「行け」
◇
シルヴィーの後ろを歩いた。
走れと言われたら、もう無理だったかもしれない。エマちゃんも息が苦しそうで、私の袖を掴んだまま足元を見ている。
背後で、激しい水音がした。
続いて、何かが地面を打つ。
振り返りかけると、シルヴィーが首を振った。
「見るな。今のうちだ」
セルファが追いついた。
それでも、誰もほっとした顔にはならなかった。二本の刀にはまだ雷が残り、セルファは私たちの後ろを歩いている。
坂を曲がり、木々の向こうへ入った。
もう、あの二人は見えない。
「……今の人、味方?」
尋ねると、セルファは少しだけ後ろを見た。
「俺たちを助けに来たわけではないだろうな」
鞄が、歩くたびに腰へ当たる。
私は肩紐を持ち直した。
ネレイアに追われていた時とは、違う怖さが残っていた。
あの人は最後まで、私たちの顔を一度も見なかった。




