第四十五話 追われる背中
木々の隙間から畑が見えた時、ようやく息を吐けた。
畝の間で、一人の男が鍬を振っている。道の端には荷車が停まり、その脇の籠から、葉のついた野菜がはみ出していた。
水の砕ける音も、木の折れる音も、もう聞こえない。
それでも、シルヴィーは森の方を向いたままだった。
「ここで少し止まるぞ」
道を外れ、大きな岩の陰へ入る。
エマちゃんがすぐに鞄を下ろした。
「シルヴィーさん、傷を見せてください」
「町まで持つ」
「見せてください」
二度目は、少し強かった。
シルヴィーが諦めたように腰を下ろす。服を持ち上げると、脇腹に当てていた布が赤く染まっていた。
「……痛そう」
「痛えよ」
「だよね」
エマちゃんが新しい布を畳み、傷へ当てる。
シルヴィーの眉が寄った。
首元に浮いていた鱗は、いつもの目立たないものに戻っている。けれど、息はまだ少し荒かった。
「ここを押さえていてください。町へ戻ったら、先生に診てもらいましょう」
私もしゃがもうとして、膝の痛みに気づいた。
橋でぶつけたところから、少し血が出ている。走っている間は、それどころじゃなかった。
エマちゃんがこちらを見る。
「ヤマハさんも」
「私は大丈夫。ちょっと擦っただけ」
「では、ちょっと見せてください」
言い方だけ合わせてきた。断る隙がない。
大人しく膝を見せていると、セルファが森から戻ってきた。少し引き返して、後ろを確かめていたらしい。
「追ってきていない」
「……あの人が、止めてるんだよね」
セルファが頷く。
私は鞄を開き、布に包んだ封刃を確かめた。
落としていない。布の端をめくると、黒い柄が見えた。
これを奪うために、あそこまで追ってきたんだ。
すぐに布を戻し、鞄を閉じる。
「ネレイアだっけ。町まで来たりしない?」
聞いてから、畑へ目を向けた。
鍬を振っている男は、まだこちらに気づいていない。腰を伸ばして空を見上げ、また作業へ戻った。
セルファも同じ方を見る。
「来る可能性はある。警備へ知らせる」
「あの男が勝てば、来ねえだろうがな」
シルヴィーが傷を押さえ、立ち上がった。
「そっちを当てにして帰るわけにもいかん」
セルファが歩き出す。
畑の向こうに見える町が、急に近すぎる気がした。
◇
北側の入口には、警備の人が二人いた。
私たちの泥と血のついた服を見ると、一人がすぐに詰所へ走る。残った人へセルファが事情を話し始め、その顔が険しくなった。
「遺跡へ行った者たちは?」
「先に町へ向かった。戻っているか」
「ああ。水路の管理人が、森で襲われたと知らせに来た。全員いる」
エマちゃんの肩が、少し下がった。
私もようやく、鞄から手を離す。
「相手は黒冠だ。少人数で確かめに行くな。遺跡の作業も止めてくれ」
セルファは、私たちが逃げた道と、最後に女を見た場所を説明した。
詰所から戻った警備の人が、広げた地図へ印をつける。
「まだ森にいるのか」
「別の男と交戦している。今の位置は分からん」
「その男は?」
「素性は分からない。ただ、ネレイアを追っていた」
紙の上を動いていた手が止まった。
「町へ来ると思うか」
「断言はできない。北側の見張りを増やしてくれ。異変があれば、住民を奥へ下げろ」
警備の人が短く指示を出す。
門の近くに停まっていた荷車が、別の通りへ誘導された。森へ向かおうとしていた人も呼び止められる。
少し前まで、普通に出入りしていた場所なのに。
私たちの話を聞いた人から、動きが変わっていく。
「俺はもう一度、北へ出る」
セルファの言葉に、顔を上げた。
「戻るの?」
「どちらへ動いているか、確かめる」
「でも、さっき二人でも止められなかったじゃん。今度は一人で行くの?」
「戦いには入らん。離れた場所から見る」
それでも、行ってほしくなかった。
セルファがシルヴィーを見る。
「二人を頼む」
「ああ。変な気を起こすなよ」
「お前も休め」
シルヴィーは何か言い返しかけたけれど、脇腹を押さえ直して口を閉じた。
私はセルファの袖を、少しだけ掴んだ。
「……見つかる前に帰ってきてよ」
「ああ」
手を離すと、彼は門を抜けていった。
さっき一緒に帰ってきたばかりなのに、また背中が遠くなる。
「ヤマハ」
シルヴィーに呼ばれ、振り向く。
「こっちは医者だ。エマの持ってるものも、早く届けんとな」
エマちゃんが鞄を抱え直した。
中には、遺跡で採った水と根が入っている。
私は頷き、二人について歩き出した。
◇
四人の姿が木々の向こうへ消えても、男はそちらを見なかった。
ネレイアの足元で、水が膨らむ。
細い流れが坂を這い、男の両側へ回り込んだ。正面の水膜を斬らせ、その隙に背後から首を落とす。
男が剣を下げた。
刃先が土すれすれを通り、弧を描く。
左右を走っていた水が跳ね上がった。背後へ届く前に流れを断たれ、ネレイアは正面の膜を厚くする。
踏み込んできた男の剣が、その膜を裂いた。
一枚では足りない。
二枚目を重ね、剣の進みが鈍ったところで身体を引く。
それでも、剣先が腰を掠めた。
ネレイアは、腰に吊った短剣の鞘へ手を添えた。
男の視線が、その手へ落ちる。
「それを、お前が抜くな」
「持っているのは私よ」
答えながら、水の刃を男の左脇へ放つ。
四日前にも、そこを貫いた。
男が剣を返す。水は弾かれたが、その衝撃で左肩がわずかに下がった。
傷は、まだ塞がっていない。
ネレイアは間を空けず、同じ場所へ二本目を放った。
男が横へ踏み出す。
外套が裂け、その下から血の滲んだ布が覗いた。
だが、距離は開かなかった。
ネレイアが退いた分だけ、男は前へ出てくる。
「また、その傷を増やしたいの?」
返事はない。
剣が、水膜の縁へ滑り込んだ。
正面から斬るのではなく、薄い部分を押し広げる。開いた隙間から、剣先が喉へ伸びた。
ネレイアは首を引き、足元の水を一気に持ち上げる。
坂の土が削れ、木の根が剥き出しになった。男の踏み込んだ足が、崩れた地面へ沈む。
その一瞬で、ネレイアは木々の間へ退いた。
本来なら、ここで攻める。
足を取られたところへ水を重ね、立ち直る前に仕留めればいい。
だが、肩には雷撃の痺れが残っていた。脇腹にも刀傷がある。水を操ろうと腕を動かすたび、傷が引き攣れた。
あの四人を追う前から、万全ではなかった。
四日前の戦いから、男はこうして追ってくる。振り切っても、立ち止まればまた現れた。
今ここで、さらに傷を増やす必要はない。
ネレイアは木々の間へ水を通した。
右手には、町へ続く道が見える。
そちらへ向きを変えかけた時、背後から迫った男の剣が、道端の幹を斜めに裂いた。
木が傾く。
ネレイアは足を止め、倒れてくる幹を避けた。
その間に、男が道との間へ立つ。
「逃げるなら、また追う」
血のついた剣を下げたまま、こちらを見ていた。
ネレイアは短剣の鞘を握り直す。
この男を残して町へ向かえば、背中を晒す。四人を捜している間にも、追いついてくるだろう。
奪い損ねた一本のために、今持っている一本まで失うわけにはいかなかった。
周囲の水を、一斉に男へ叩きつける。
幹が軋み、枝から葉が吹き飛んだ。男が剣を振り上げたところで、ネレイアは反対へ身を翻す。
北へ。
町から離れる、深い森へ。
水を斬り払った男が、その背中を追った。
◇
医者の家で椅子へ座った途端、脚が重くなった。
さっきまでは歩けていたのに、もう立ち上がりたくない。膝だけじゃなく、太腿もふくらはぎも、まとめて文句を言っている感じだった。
隣では、シルヴィーが傷を診てもらっていた。
先生が布を外すと、その顔が険しくなる。
「これで歩いてきたのか」
「歩かんと帰れんからな」
「だからといって、平気な顔をする必要はない」
「別に、平気な顔は――」
傷へ触れられ、シルヴィーが口を閉じた。
私はそっと目を逸らす。
痛そうって、もう言わないでおこう。
エマちゃんは、奥の机へ瓶を並べていた。
遺跡の水。白い花の根。崩れた水路の近くで採ったもの。
濡れていないか手帳を確かめ、見てきた場所を説明する。
「古い水路が壊れていました。根の浸かっていた水が、そこから外へ流れています。町へ続く流れにも繋がっていました」
先生はシルヴィーの傷を覆い、包帯を留めてから机へ来た。
「北の井戸へ流れ込んでいた水は、それか」
「可能性は高いと思います。ただ、何が眠気を起こしているのかは、まだ分かりません。花の成分なのか、水の中に別のものがあるのか……」
エマちゃんが瓶を一つ手に取る。
「ここで採ったものは、町の水より強く反応しました。採った場所ごとに、比べてみたいです」
「分かっているところから確かめよう。水を替えた後も、眠ったままの二人は変わっていない」
靴職人の奥さんの顔が浮かんだ。
早く、何か分かればいい。
でも、そのために何をすればいいのか、私には分からない。
机の端に並んだ瓶を見る。
「エマちゃん。私、何かできる?」
「では、瓶の印を読んでいただけますか。採った場所を、もう一度確かめたいです」
「それならできる」
瓶へ手を伸ばしかけ、指に土がついていることに気づいた。
先に布で拭き、それから一つずつ、書かれた文字を読む。
エマちゃんが手帳と照らし合わせ、先生が別の紙へ書き留めていく。
さっきまでは、追ってくる水を見ていた。
今は、瓶の中の水を見ている。
こちらは何も動かない。透明で、底に小さな欠片が沈んでいるだけだった。
それでも、見ただけでは安心して飲めないものになっていた。
◇
窓から差す光が傾いた頃、扉が開いた。
セルファだった。
思わず椅子から立ち上がり、膝の痛みに顔をしかめる。
「……帰ってきた」
「ああ」
服には土がついていたけれど、血は増えていなかった。
それを確かめてから、顔を上げる。
「どうだった?」
「北へ移っている。町からは離れていた」
セルファは先生にも聞こえるように、見てきたことを話した。
木が倒れ、地面が抉れていたこと。
水の跡が、森の奥へ続いていたこと。
離れた尾根から、ネレイアとあの男が、さらに北へ進むのを見たこと。
「警備にも伝えた。今夜は北側を見張る」
「じゃあ……もう大丈夫?」
「今すぐこちらへ来る様子はない。ただ、遺跡へは近づくな」
私は頷いた。
それだけでも、さっきより息がしやすかった。
シルヴィーが椅子にもたれたまま尋ねる。
「男も追ってたか」
「ああ」
「そうか」
二人とも、それ以上は言わなかった。
あの人が、まだ止めている。
私たちが手当てをしてもらって、椅子に座っている間も。
机の上の瓶へ目を戻す。
この町には、まだ目を覚まさない人がいる。森には、私の鞄を狙う相手がいる。
帰ってきたからって、全部終わったわけじゃなかった。
それでも、セルファが空いていた椅子へ座ると、ようやく四人で帰ってきた気がした。




