第四十三話 逃げ道
エマちゃんの手を引き、壁沿いに走った。
シルヴィーが空けてくれた通路まで、あと少し。
その横で、女が腕を上げた。
セルファが踏み込む。右の刀が首元へ迫ると、水の膜が立ち上がり、刃を外へ滑らせた。
女がこちらへ向きかける。
そこへ、シルヴィーの《ユスラフ》が突き出された。
長い柄の先に、尖った槍の穂先。その脇には大きな斧の刃が張り出し、反対側には内へ曲がった鉤がついている。
女が身を引いた。
穂先が、その頬を掠める。
シルヴィーは武器を引きながら捻った。水の膜を鉤で横へ払い、すぐに斧の刃を返す。
膜がそちらへ寄った隙に、セルファの刀が入った。
女が部屋の中央へ退く。
通路の脇に浮いていた水も、そちらへ引かれた。
「そのまま行け!」
濡れた床で、靴が滑った。
繋いだ手に力が入り、エマちゃんも一歩よろめく。どうにか踏み直し、通路へ向き直った。
女がこちらを見ると、足元の水が持ち上がる。
「伏せろ!」
エマちゃんの肩を抱いてしゃがんだ。
頭のすぐ上で、石が弾ける。
壁へ刻まれた溝から、細かな欠片が落ちてきた。髪に何かが触れたけれど、確かめている暇はない。
セルファの刀が、女へ続けて迫る。
水の刃がこちらから離れた。
私は立ち上がり、通路へ飛び込んだ。
「エマちゃん、走れる?」
「はい……!」
息を切らしながらも、頷いてくれた。
片手で鞄を押さえている。採った根も、水も、手帳も、その中だ。
階段の上に、外の明かりが見えた。
そこへ向かおうとした時、後ろで大きな音がした。
振り返る。
シルヴィーが床を滑っていた。
両足を踏ん張り、長い武器を斜めに構えている。刃へ押しつけられた水が、白く泡立っていた。
背中が柱へぶつかる寸前、柄の端が床へ突かれる。
それを支えに身体を捻り、水を横へ流した。
逸れた水が柱を叩く。
太い石に亀裂が走った。
シルヴィーはすぐに武器を引いたが、女はもう懐へ入っていた。
あの長さじゃ、振れない。
そう思った瞬間、金属が鳴った。
柄を握っていた両手が、左右へ離れる。
武器が、真ん中から二つに分かれていた。
長かった柄が縮まり、それぞれの手に短い刃が残る。片方には尖った穂先、もう片方には斧の刃と鉤がついていた。
右の刃が女の腕へ迫る。
水の膜に受けられると、左の刃が低く走った。女がそちらへ膜を伸ばしたところで、右が返る。
袖が裂けた。
「……分かれんの?」
思わず声が出た。見たいとは言った。
シルヴィーがあれを使って戦うところ、確かに見たかった。
でも、今じゃない。
今、そんな場合じゃない。
「前を見ろ!」
セルファに怒鳴られ、私は階段へ向き直った。
一段目へ足をかける。
水が、靴の周りに集まった。
下へ落ちていたはずの水が、段を上ってくる。
「ヤマハさん!」
エマちゃんに腕を引かれた。
さっきまで足を置いていた場所を、水が貫く。
石段の端が欠けた。
細い水の筋が壁へ突き刺さり、そのまま横へ動く。
私はエマちゃんを引き寄せ、階段の脇へ身体を押しつけた。
明かりは、すぐそこに見えていた。
でも、通れない。
◇
通路の向こうで、二本の刀が光った。
セルファが女の腕を弾き、身を低くして腰へ刃を向ける。
黒い輪。黒冠。
女が半歩退くと、その間へ水が入り込んだ。セルファは無理に追わず、すぐに刀を返す。
頭のあった場所を、水の刃が通った。
シルヴィーが反対側から踏み込む。
右、左と、短い刃が続けて振られた。
女の前で水が形を変える。シルヴィーはその外側へ足を運び、女を振り向かせた。
セルファの刀が、反対側から迫る。
腕から血が散った。当たった。
それなのに、女は止まらない。
水が二つに分かれ、シルヴィーの両側から迫った。
片方を刃で払い、もう片方を避けた直後、足元から別の水が跳ね上がる。
セルファが彼の腕を掴んで引いた。
二人がいた場所を、白い飛沫が覆う。
「封刃を置いていきなさい」
女の声がした。私は鞄を押さえた。
厚い布の下に、さっき拾った短剣がある。
「そうすれば、通してあげる」
女はこちらを見ていた。
私たちの前では、細い水の筋が揺れている。
エマちゃんの息が、すぐ隣で聞こえた。
短剣を渡したら。
本当に、出してくれるんだろうか。
「聞くな」
セルファが言った。
女から目を離さず、刀を構え直す。
「次に水が引いたら、上へ行け」
次。次があるように、二人が戦っている。
私は右手を開いた。
エマちゃんへ少し身体を寄せ、声を落とす。
「私より前、出ないで」
「ヤマハさん……?」
部屋の床は水だらけだった。
適当に撃ったら、セルファたちまで巻き込むかもしれない。
狙うなら、水に触れていないところ。
女の肩には、最初から傷があった。
破れた袖。その下の赤い筋。
こちらを見ていた女が、シルヴィーへ腕を向ける。
セルファは、その反対側にいた。
二人の間に、女の肩が見える。
今なら。右手を伸ばした。
掌で火花が弾ける。
「《フルメン》!」
青白い稲妻が通路を抜け、傷のある肩へ突き刺さった。
女の身体が跳ねる。
短い悲鳴と同時に、水の膜が崩れた。
階段を塞いでいた筋も切れ、足元へ落ちる。
「行け!」
私はエマちゃんの背中を押した。
エマちゃんが階段を駆け上がる。
自分も続こうとして、もう一度、部屋を見てしまった。
女は肩を押さえていた。
指の間から血が流れている。
効いた。けれど、倒れてはいない。
こちらへ向けられた目に、息が詰まった。
床へ落ちた水が、また浮き始める。
私は階段を駆け上がった。
◇
外へ出ると、明るさに目が眩んだ。
森の匂いがする。
すぐ先に、管理人たちがいた。道具を置いたまま、こちらへ駆け寄ってくる。
「中の二人は?」
「まだ! 入口から離れてください!」
言いながら、エマちゃんの腕を引いた。
管理人が何か聞こうとしたところで、地下から轟音が響く。
足元の土が震えた。
入口に立てた支えから、砂が落ちる。
「全員、道まで戻れ!」
セルファの声だった。
階段から飛び出した彼が、振り返って刀を構える。
続いて、シルヴィーが出てきた。
上着の脇が裂けていた。血が滲んでいる。
「シルヴィー、怪我――」
「後だ。走れ」
短い刃を持った両手が、身体の前で重なった。
金属が噛み合う音がする。
柄が伸び、長い武器へ戻った。
「それ、どうなって――」
「ユスラフの見物は後だ」
シルヴィーが武器を入口へ向ける。
「帰ってからにしろ」
私は口を閉じ、エマちゃんと走り出した。
帰ってから。
ちゃんと、帰ってきてくれるんだよね。
管理人たちも道具を残し、森の道へ向かう。
背後で石が擦れた。
振り向くと、シルヴィーが入口脇の大きな石へ、ユスラフの鉤をかけていた。
セルファが支えの一本を切る。
シルヴィーが引いた石と一緒に、入口の上の土が崩れた。
石段が埋まる。
舞い上がった土の向こうから、二人がこちらへ走ってきた。
「……塞げた?」
私が聞くと、セルファは首を振った。
「長くは持たん」
その言葉が終わる前に、後ろで石が割れた。
崩れた土の間から、水が噴き出す。
押し上げられた石が転がり、細い木の幹へぶつかった。
私は鞄を抱え直す。短剣はある。
エマちゃんも、すぐ隣にいる。
セルファとシルヴィーも、出てこられた。
でも、まだ逃げ切れていない。
「町まで連れていくな」
走りながら、セルファがシルヴィーへ言った。
「ああ。分かってる」
道が二つに分かれる。
右は、私たちが来た町への道。
セルファは管理人たちをそちらへ向かわせた。
「町へ戻って、森へ人を入れるな。ここには戻るなよ」
「あ、ああ!」
男たちが右へ走る。
私たちには、左が示された。
「こっちだ」
「町、逆じゃない?」
「だからだ」
背後で、また木が折れた。
私はエマちゃんの手を握り直し、左の道へ足を踏み入れた。




