第三十九話 同じ井戸、違う一日
エマちゃんは瓶を傾け、石の隙間から流れる水を受けた。
採り終えると栓をして、手帳に場所を書き込む。その間に、セルファが崩れた土の前へしゃがんだ。
「ここが崩れたのは、そう古くないな」
「分かるの?」
「土に湿り気が残っている。落ち葉も、ほとんど積もっていない」
言われて見ると、ほかの場所は枯れ葉に覆われているのに、ここだけ黒い土と石が見えていた。土の断面から、切れた細い根も出ている。
シルヴィーが少し離れ、壁全体を見上げた。
「土だけか?」
「石にも亀裂がある」
セルファが壁を指す。
根の下から、斜めに細い線が伸びていた。古い石だから割れたのか、土が崩れた時に傷んだのか。私には分からない。
「中、入れそう?」
「この隙間では無理だ」
「じゃあ、石をどけるとか」
シルヴィーが壁へ手をかけた。
軽く押しただけで、上の方から石の擦れる音がした。私が顔を上げるより先に、セルファの手が肩へ触れる。
「離れろ」
一歩下がったところへ、土と小さな石が落ちてきた。
「……危な」
シルヴィーも手を離し、上を見た。
「下と一緒に動くな」
「ああ。開けるなら、先に上を支える必要がある」
封刃があるかもしれない遺跡。
その奥から流れてくる水。
気になるものがすぐそこにあるのに、ちょっと覗いて済む場所ではないらしい。
エマちゃんが鞄を閉じた。
「先に、この流れのことを管理している方へ伝えたいです。それと、土が崩れた時期も確かめられれば」
「眠くなり始めたの、三、四日前だったよね」
「はい。その頃に何か変わっていないか、もう少し聞いてみます」
私は隙間へ目を戻した。
水は止まらず、靴の横を流れていく。
この先で、畑の水路に合わさる。
その水路は、町へ続いていた。
◇
管理人の小屋へ戻ると、さっきの男が道具を片づけていた。
私たちを見つけ、手を止める。
「どうだった?」
エマちゃんは手帳を開き、辿ってきた流れを図に書き足した。遺跡の壁の下から水が出ていることを話すと、男が眉を寄せる。
「あそこから? 前に見た時は、ほとんど水のない溝だったぞ」
「いつ頃ですか?」
「先月だな。枝が流れ込んでないか、見に行ったんだ」
男の指が、図の上を滑った。
「この枝なら、北の水路へ入る。町へ引いてる方へも混じるな」
「以前は水が少なかった場所から、今は流れてきているんですね」
「ああ。遺跡の方で何か崩れたのか?」
エマちゃんが、壁の下の土と石の亀裂について説明する。
それから、顔を上げた。
「最近、この辺りでまとまった雨は降りましたか?」
「降ったなんてもんじゃねえよ」
男は棚へ道具を置き、こちらへ向き直った。
「何日も続いた。四日前に、ようやくやんだところだ」
「何日も?」
「ああ。特に北の森がひどかった。長くこの仕事をしてるが、あんな降り方は初めて見た」
エマちゃんのペンが止まった。
「流れてきた枝や土で、水路が何度も詰まってな。片づけたそばから、また詰まる。今朝、水が多いと言ったのも、そのせいだ。遺跡の方で土が崩れてても、おかしくはねえ」
私たちが町へ来た時には、もう晴れていた。
そんな雨が続いていたなんて、知らなかった。
シルヴィーが男へ尋ねる。
「町も同じくらい降ったのか?」
「こっちも降ったが、森ほどじゃない。北へ見に行った奴は、昼でも先が見えなかったと言ってたよ」
セルファとシルヴィーが、目を合わせた。
一瞬だけだった。
エマちゃんは雨がやんだ日を書き、質問を続ける。
「雨の後、水の量はどうなりましたか?」
「しばらく増えてた。今は大体戻ってるが、遺跡の方までは見てない」
「流れを変えるような手入れは?」
「してねえな。詰まったものを取り除いたくらいだ」
四日前に、雨がやんだ。
三、四日前から、眠そうにしている人がいた。
エマちゃんの手帳に、二つの日付が並ぶ。
男もそれを見て、口元を引き締めた。
「……井戸の話と、関係がありそうか?」
「まだ分かりません。ただ、雨の前と後で、水の流れが変わった可能性はあります」
セルファが、遺跡の壁へ不用意に触れないよう付け加えた。
男は頷き、小屋の奥へ声をかける。出てきた二人に事情を話すと、一人が図を覗き込み、もう一人は道具を手に取った。
「流れはこっちで確かめる。町にも知らせよう。あの井戸は、調べがつくまで使わない方がよさそうだな」
「先生からも、近くの方には別の水を使うよう話していただいています」
「なら、ほかの通りにも伝えておく」
エマちゃんが礼を言う。
小屋を出て振り返ると、男たちはもう道具を運び始めていた。
私たちが辿ってきた細い流れを、今度は別の人たちが確かめに行く。
◇
北側の通りへ戻ると、朝より人が少なくなっていた。
井戸のそばには誰もいない。置かれた桶も、空になっていた。
靴職人の家の扉を叩く。
出てきた女の人は、私たちを見ると、すぐエマちゃんへ目を向けた。
「何か分かりましたか?」
「井戸へ来る水に、遺跡から流れ出た水が混じっているようです。以前はほとんど流れていなかった場所だそうで、管理している方に確かめてもらっています」
女の人が息を呑む。
エマちゃんは、その顔を見ながら続けた。
「まだ、それが原因だと分かったわけではありません。ご主人の様子は、いかがですか?」
「変わりません。先生も、また来てくださるそうです」
声が落ちた。
エマちゃんは頷き、手帳を持ち直す。
「もう少し、普段のことを聞いてもいいですか。ご主人は日中も、こちらの井戸の水を飲んでいますか?」
「ええ。店に水差しを置いています。空になると、私が足しています」
「一日に何度くらい足されますか?」
「何度か……正確には分かりませんけど、よく飲みます。仕事をしていると、喉が渇くって」
エマちゃんが書き留める。
女の人はその手元を見てから、自分の胸へ手を当てた。
「でも、私も同じ井戸を使っているんです。私が起きているのは、どうしてでしょう」
私も、それが気になっていた。
同じ家で、同じものを食べていた。
片方だけ起きないのは、どうしてなのか。
「奥様は、昼間もずっとこちらに?」
「いいえ。昼は南の店で働いています。食事もそちらで」
「水も、そのお店で飲まれますか?」
「はい。家にいるのは、朝と夜くらいです。夕食も、
お茶も、こちらで用意しますけど……」
エマちゃんのペンが止まり、朝に書いたページへ戻った。
同じ家。同じ井戸。
でも、一日中、同じ水を飲んでいたわけじゃなかった。
「……飲んだ量が違うってこと?」
私が尋ねると、エマちゃんは小さく頷いた。
「その可能性はあります。ご主人の方が、こちらの水を口にする機会は多そうです。ほかの方にも確かめたいです」
女の人へ礼を言い、次の家へ向かった。
荷運びの男も、まだ目を覚ましていなかった。
家族に話を聞くと、仕事へ出る時には、あの井戸の水を革袋へ入れて持っていくらしい。途中で空になれば、戻ってきた時にまた汲んでいた。
眠くなり始めたのは、やはり数日前。
それまでは、いつも通り働いていたという。
朝、眠いと言っていた男にも会えた。
こちらは仕事場にある別の井戸を使うことも多く、北の井戸の水だけを飲んで一日を過ごすことは少ないらしい。
エマちゃんが、手帳へ聞いたことを書き足す。
私は横から、それを見た。
「同じ井戸を使う、だけじゃ足りなかったんだね」
「はい。いつ、どれくらい使っていたかも違います」
眠ったままの二人は、日中も繰り返し、あの井戸の水を飲んでいた。
起きている人の中には、昼間は別の水を飲む人がいる。
ただ、全員が綺麗に分かれたわけではなかった。量なんて覚えていない人もいたし、眠くなり始めた日が曖昧な人もいた。
エマちゃんは、分からないところもそのまま書き残していく。
「水を替えたら、起きるのかな」
小さく尋ねると、彼女の手が止まった。
「……そうだといいですね。でも、もう眠っている方を
どう起こすかは、別に調べないといけません」
私は頷いた。
これ以上、同じことが起きないようにする。
それだけでは、家の中で待っている人への答えにはならなかった。
◇
医者へ聞いたことを伝えた後、私たちは家へ戻った。
エマちゃんがテーブルへ、瓶を順番に置く。
北側の井戸。別の通りの井戸。畑の水路。そして、遺跡の隙間から採った水。
どれも、見た目は同じだった。
昨日の花と土も、その横へ並ぶ。
私は瓶にぶつからないよう、椅子を少し離して座った。
シルヴィーが向かいから水を見比べる。
「飲む量で違うなら、俺たちはどうだ?」
「家では、どこの水を使っていますか?」
エマちゃんに尋ねられ、セルファが南の井戸の場所を答えた。
今日、話を聞いて回ったところだった。
私は少し息を吐く。
「じゃあ、たまたま違うところだったんだ」
「外で飲んだ分もある。今、何ともないからといって決めつけるな」
セルファの言葉に頷いた。
エマちゃんは手帳を開き、雨について書いたところを指す。
「雨で土が崩れて、遺跡の中の水が流れ出したのかもしれません。眠気が出始めた時期とも近いです」
「ずっと同じ井戸でも、雨の前と後じゃ、中の水が違ったかもしれないってこと?」
「はい。以前は平気だった、というだけでは、今も同じとは言えません」
エマちゃんが遺跡の水を手前へ寄せた。
私はその瓶を見る。
色も変わらず、変な匂いもしない。
何も知らなければ、普通に飲んでいたと思う。
シルヴィーは瓶ではなく、窓の外を見ていた。
「……何日も、か」
セルファも顔を上げる。
「北の森が、特にひどかったと言っていたな」
「ああ」
二人の間で、会話が止まった。
さっきも、管理人の話を聞いて目を合わせていた。
「何か気になるの?」
セルファが私を見る。
「雨の降り方だ。心当たりはある」
「雨を降らせるやつがいるってこと?」
彼はすぐには答えなかった。
隣でシルヴィーが、腕を組み直す。
「普通の大雨だったなら、それでいい。だが、森の方だけそこまでひどかったってのは気になるな」
私は窓へ顔を向けた。今は晴れている。
木々の上を、薄い雲が流れていた。
「……もうやんでるんだよね」
「ああ。ただ、やんだ理由までは分からん」
セルファの声は、いつも通りだった。
それが逆に、気になった。
エマちゃんが袖を捲る。
「まず、水に何が含まれているかを確かめます。花や土にも、何か違いが残っているかもしれません」
その声で、テーブルへ目を戻した。
「私、何かできる?」
「この紙を、瓶の横へ置いてもらえますか。場所が混ざらないように」
「分かった。そこは任せて」
受け取った紙を、一枚ずつ並べる。
北の井戸の瓶を置く時、朝の女の人の顔が浮かんだ。
何か分かったら、教えてほしい。
そう言って、家へ戻っていった人。
エマちゃんは道具を並べ、最初の栓へ手をかけた。
私は書かれた場所をもう一度確かめてから、瓶を彼女の前へ寄せた。




