第三十八話 水の行き先
男の手元に残った水を見る。
透き通っていて、何か浮いているようにも見えない。男は器を口元から下ろし、エマちゃんへ顔を向けた。
「……これが悪いのか?」
エマちゃんは首を横に振った。
「まだ分かりません。ただ、眠気の話をされた方が同じ井戸を使っているので、水も調べてみたいんです」
男は器の中を見てから、井戸の横へ置いた。
桶には、汲んだばかりの水が残っている。エマちゃんは鞄から小さな瓶を取り出し、男に断ってから、その水を少し移した。
明るい方へ持ち上げ、栓をする前に匂いも確かめる。
「どう?」
「見た目も匂いも、普通ですね」
「……まさか飲んで確かめたりしないよね?」
「しません」
「よかった。気になると、とりあえず試すのかと思った」
「何でも口に入れるわけではありませんよ」
ちょっとだけ、不満そうだった。
そこは信用していいらしい。
セルファが井戸の中を覗き込む。
「ほかの井戸も確かめるか?」
「はい。こちらを使っていて何ともない方もいますし、別の場所でも同じことが起きているか、聞いてみたいです」
エマちゃんは瓶に小さな紙を巻き、採った場所と時刻を書いた。
その間に、セルファが医者へ近づく。眠気を訴えている人たちと井戸の話をすると、医者は眉を寄せ、こちらへ歩いてきた。
エマちゃんが手帳を見せながら、聞いたことを説明する。医者は途中でいくつか尋ね、それから井戸へ目を向けた。
「私の方でも、診た人がどこの水を使っているか確認してみよう。君たちは、何か分かったら知らせてくれるか」
「はい。ほかの井戸のことも調べてきます」
井戸の周りにいた人たちには、調べがつくまで別の場所の水を使うよう、医者から話してくれた。
男が置いた器は、まだ半分ほど水が残っていた。
女の人が、エマちゃんの手元を見つめる。
「……何か分かったら、教えてもらえますか」
「はい。先生にも、必ずお伝えします」
女の人は頷き、家へ戻っていった。
扉が閉まる直前、奥へ駆けていく足音が聞こえた。
私はその扉から目を離し、エマちゃんについて歩き出す。
昨日は、珍しい花を調べに行った。
今日は、あの人が起きない理由を探している。
◇
次の井戸は、二本先の通りにあった。
桶を持って並んでいる人たちへ、エマちゃんが声をかける。最近、普段と違うほど眠くなることはないか。朝になっても目を覚まさない人を知らないか。
聞かれた人たちは、顔を見合わせた。
「そんな話は聞かないね」
「うちの子は毎朝起こすのに苦労するけど、起きないってほどじゃないよ。布団を剥がせば文句は言うし」
周りから、少し笑いが起こった。
さっきの通りとは、空気が違う。
エマちゃんはここの水も瓶へ入れ、色と匂いを確かめてから、別の紙を巻いた。
「違い、ありそう?」
「今見たところでは、分かりません」
並べて見ても、私には同じ水に見えた。
さらに南へ歩き、もう一つの井戸でも話を聞く。こちらでも、目を覚まさない人の話は出なかった。
ただ、一人だけ、最近やけに眠いという人がいた。
エマちゃんが詳しく尋ねると、その人は北側の通りで働いているらしい。昼は仕事場の近くで食べ、水もそこで飲んでいると言った。
「……最初の井戸?」
「はい。あちらを使っているそうです」
エマちゃんが手帳へ書き足す。
住んでいる家は離れている。それでも、昼間に使う井戸は同じだった。
「家の場所だけ聞いても、分かんないんだね」
「そうですね。家で使うものと、外で口にするものが同じとは限りませんから」
手帳には、名前と場所を結ぶ線が増えていた。
横から覗き込むと、エマちゃんが今話した人の名前を指し、その先に仕事場の位置を書き足してくれる。
シルヴィーが腕を組んだ。
「けど、最初の井戸を使ってても平気な奴はいたよな。あの女も、亭主と同じ水だろ」
「はい。もし水に原因があるなら、飲んだ量や、飲んだ時期の違いも調べないといけません。毎日少しずつ飲んでいたのか、一度にたくさん飲んだのかでも変わるかもしれませんし」
エマちゃんは、最初の通りで聞いた記録へ戻った。
「ただ、まだ水に何か入っていると確かめられたわけではありません。別の共通点がある可能性も残っています」
「そっか。井戸が同じだから、もうそれだと思っちゃった」
「私も気にはなっています。でも、決めてしまうと、ほかの話を聞き落とすかもしれませんから」
私はもう一度、手帳を見る。
名前の横には、食べたものや眠くなり始めた日も書いてあった。
これを全部聞いて、比べているのか。
……私なら、途中で誰の話か分からなくなりそう。
エマちゃんは手帳を閉じ、北へ顔を向けた。
「水がどこから来ているかも、確かめたいです」
「昨日の水路か」
セルファの言葉に、私も昨日歩いた道を思い浮かべる。
畑の脇を通り、町へ続いていた細い流れ。
「井戸と繋がってるの?」
「同じ水源を使っているものはある。だが、あの井戸がどうなっているかは確認が要るな」
近くで畑仕事の道具を運んでいた男に尋ねると、水路の手入れをしている人のところを教えてくれた。
◇
教わった小屋には、長靴を履いた男がいた。
壁に掛かった道具の横で、巻いてあった図を広げてくれる。町の道と井戸、水路らしい線が描かれていた。
セルファが最初の井戸の場所を指すと、男はその北側を指で辿った。
「あそこは北の湧き水を引いてる。こっちの水路も同じだ。町へ入る手前で、分かれてる」
「ほかの井戸もですか?」
エマちゃんが尋ねると、男は首を振った。
「南は別だよ。地面を掘って出た水を使ってるところもある。全部同じじゃない」
エマちゃんは断ってから、必要な部分を手帳へ写した。
最近、水の流れを変えたか。手入れで何か気づいたことはないか。
男は腕を組み、しばらく考えた。
「このところ水は多いが……見た目がおかしいとか、そういうのはなかったな。何かあったのか?」
事情を話すと、男の顔から笑みが消えた。
水路を一緒に見ようかと言ってくれたけれど、セルファはまずこちらで確認すると答えた。男は北へ向かう道と、水が分かれる場所を教えてくれる。
小屋を出る頃には、エマちゃんの手帳がまた一ページ埋まっていた。
「エマちゃん、今度は水だね」
「はい」
「花と土と水。家のテーブル、足りる?」
「瓶なら、土の横に並べられます」
「私のご飯は?」
「食事の時には片づけますよ」
横でシルヴィーが笑った。
「庭があるぞ」
「なんで私が外なの」
瓶には場所も用意してもらえるのに。
私にも、もうちょっと丁寧な扱いが欲しい。
◇
北へ戻ると、昨日渡った水路が見えてきた。
畑の脇を流れ、道の下へ入っていく。今日はその流れを、来た方へ辿った。
エマちゃんが水を採る間、セルファは周りの道を確かめていた。町へ向かう流れの途中で、細い水筋が横から合わさっている。
「こっちからも来てる」
私が指すと、シルヴィーがその先へ目を向けた。
「森の方だな」
草の間を、細い流れが通っていた。
石で囲まれた水路と違い、土が浅く削れたような形をしている。途中からは草に隠れ、近づかなければ水があることも分からなかった。
エマちゃんがしゃがみ込む。
その横に、見覚えのある白い花が咲いていた。
「……ここにもある」
「はい」
昨日、森で見つけた花と同じだった。
エマちゃんは根元の土を少し除ける。表面の下は黒く湿っていて、昨日の遺跡で見たものと似ていた。
「水の近くだから咲いてるのかな」
「それも考えられます。ただ、ほかの水路のそばでは見かけませんでしたね」
エマちゃんが畑の方を振り返る。
そちらにも草は生えているけれど、今見える範囲に白い花はない。
「土の違いかもしれませんし、この流れに何か含まれているのかもしれません。ここの水も持ち帰りたいです」
瓶を取り出し、細い流れから水を採る。
その先にも、白い花が点々と続いていた。
昨日は花を追って、森へ入った。
今日は水を追っているのに、同じ方へ向かっている。
セルファが木々の向こうを見る。
「昨日の遺跡に近いな」
「ここから行ける?」
「ああ。ただ、道から外れる。足元を見ろ」
私は頷き、低い枝の下をくぐった。
◇
木陰へ入ると、流れはさらに細くなった。
落ち葉に隠れて見えなくなるところもある。水の音を聞きながら、足を置く場所を選んで進んだ。
昨日歩いた道より、靴が沈む。
持ち上げた足に、湿った土がついてきた。
「……これ、帰ったら玄関で止められるやつじゃない?」
「今のうちに落とせ」
「セルファもついてるよ」
「俺も落とす」
自分の家でも、そこはちゃんとするらしい。
シルヴィーが前の枝を押さえ、私とエマちゃんを先に通してくれた。最後にセルファが抜けると、背後で葉が擦れる。
少し先に、崩れた石壁が見えた。
「あ……」
昨日の遺跡だった。
広場へ入った場所とは違う側に出たらしい。壁の向こうから、途中で折れた柱が覗いている。
エマちゃんは花のそばへしゃがみ、根元の土を触った。それから、少し離れた地面も確かめる。
「こちらは、あまり湿っていません」
「花のところだけ?」
「今触ったところでは、そうですね」
私も近くの落ち葉を除けてみた。
下の土は、指で押すと少し崩れた。エマちゃんが見ている根元より、色が薄い。
セルファが壁沿いを歩き、そこで足を止める。
「こっちだ」
近づくと、石壁の下に小さな隙間があった。
積もっていた土が崩れ、石の端が剥き出しになっている。その奥から、細く水が出ていた。
水は白い花の根元を通り、私たちが辿ってきた流れへ続いている。
「……遺跡の中から?」
屈んで覗いても、奥は暗くて見えなかった。
エマちゃんが隙間の前に膝をつき、鞄からもう一本、瓶を取り出す。
昨日、私たちはこの上を歩いた。
石を動かし、花の根を調べ、何も見つからないまま帰った。
その間も、この水は流れていたのだろうか。
瓶の中へ、少しずつ水が溜まっていく。
石の奥から出てくるそれも、町の井戸で見た水と同じように、透き通っていた。




