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第三十七話 朝になっても

「医者には見せたのか?」


女の人の近くにいた男が尋ねた。


「今、呼びに行ってもらっています。でも、息はしてるんです。熱もないし……ただ、眠ってるみたいで」


女の人は、掴んでいた袖から手を離した。それでも落ち着かないのか、今度は自分の指を握り込んでいる。

エマちゃんが人の間を抜けていった。

私たちも後を追う。


「すみません。目を覚まさないのは、今日の朝からですか?」


声をかけられた女の人が振り返った。


「ええ。昨日の夜は普通だったんです。夕食も食べて、いつも通り寝たんですけど……」

「その前に、具合が悪そうな様子はありませんでしたか?」

「特には……」


言いかけて、女の人が眉を寄せる。


「でも、最近は少し眠そうにしていました。仕事で疲れてるんだと思って」

「いつ頃からですか?」

「三、四日前くらいかしら」


エマちゃんは鞄から手帳を取り出した。

花や土について書いていたページを捲《めく》り、何も書かれていないところを開く。


「お仕事は?」

「靴を作っています」

「最近、北側の森へ行かれたりは?」

「森? いえ。夫は、ほとんど店と家にいますから」


昨日の白い花が頭に浮かんだ。

エマちゃんも、あの場所が気になったんだろうか。

でも、森へ行っていないなら関係ないのかもしれない。


「おい、こっちもだ」


人だかりの向こうから声がした。

やって来たのは、少し息を切らした老人だった。近くの家を振り返りながら、女の人へ向き直る。


「うちの向かいの旦那も起きねえらしい。朝になっても出てこねえから、声をかけに行ったんだが」


周りの人たちが顔を見合わせた。

エマちゃんのペンが止まる。


「その方も、呼びかけても目を覚まさないんですか?」

「ああ。女房が揺すっても駄目だってよ」

「息は?」

「してる。ただ寝てるように見えるんだ」


二人目。

疲れて、いつもより長く寝ている。

そういう話ではないらしい。

呼んでも、揺すっても起きない人が、同じ朝に二人。

シルヴィーが老人へ尋ねた。


「そっちは、何の仕事だ?」

「荷運びだ。町の中を一日中歩いてる」

「森へは?」

「行かねえと思うが……何かあったのか?」


エマちゃんは首を横に振る。


「まだ分かりません。何か同じことをしていないか、確認しているんです」


靴を作る人と、荷物を運ぶ人。

仕事は違うし、二人とも森には行っていない。

私は少し声を落とした。


「昨日の花とは、関係ないのかな」

「今は、どちらとも言えません」


エマちゃんも小さな声で答える。


「花がここで育っていたことと、人が目を覚まさないことは、別々に確かめないと」

「……そっか」


昨日見つけたから、気になっただけだ。

二つとも変だからって、同じ理由とは限らない。

エマちゃんは女の人へ向き直った。


「昨日の食事は、何でしたか?」

「豆と肉を煮たものと、パンです」

「普段と違うものを食べたり、薬を飲んだりは?」

「いいえ。私も同じものを食べましたけど、何ともありません」

「お昼は?」

「店が家の隣なので、昼も家で食べます」


荷運びの人は、仕事の合間に外で食べることが多いらしかった。ただ、昨日どこで何を食べたのかは、老人も知らない。

エマちゃんは、分かるところだけを書き留めた。

その時、人だかりの外から男が覗き込んできた。腕に荷物を抱え、こちらを不思議そうに見ている。


「何の騒ぎだ?」


近くにいた人が事情を話すと、男は目を見開いた。


「起きねえって……そういや、俺も最近やたら眠いな」

エマちゃんが顔を上げる。

「いつ頃からですか?」

「え?」

「強く眠くなるのは、いつ頃からでしょうか」


男は少し戸惑ってから、考えるように顎《あご》を引いた。


「ここ何日かだな。昼過ぎになると、眠くてしょうがねえ」

「以前からですか?」

「いや。昨日なんか、仕事中に座ったまま寝ちまって怒られた」


男は苦笑した。

周りからは、笑い声が返らなかった。

それに気づいたのか、男も口を閉じる。


「……俺も、そうなるってことか?」

「まだ分かりません」


エマちゃんは手帳を胸元へ寄せた。


「眠くなる理由は色々あります。今の話だけで、同じものだとは言えません。ただ、もう少し詳しく聞かせてください」


男が頷く。

私はエマちゃんの横へ立ち、手帳に書かれる内容を追った。

いつから眠いのか。食事はどこで取っているのか。

住んでいる場所と、仕事で行く場所。

話を聞いていると、近くにいた別の人も口を開いた。


「私も、このところ昼間に眠くなるわ」

「俺は別に何ともないが」

「春でもねえのにな」


全員ではなかった。

同じ通りに住んでいても、何ともない人はいる。離れたところから仕事に来ていて、眠いと言う人もいた。

エマちゃんは一人ずつ確かめ、答えを分けて書いていく。

さっきまで何となく集まっていた人たちも、彼女の問いに耳を傾けていた。

やがて、鞄を持った年配の男が早足でやって来た。

女の人がすぐに駆け寄る。


「先生、こちらです」


医者らしかった。

二人は人だかりを抜け、少し先の家へ入っていく。私たちは道を空け、壁際へ寄った。


「エマちゃん、何か分かりそう?」


手帳へ目を落としたまま、エマちゃんが首を傾げる。


「まだ、共通していることが見つかりません」

「仕事も違うし、食べたものも違うもんね」

「はい。強く眠くなり始めた時期は近いんですが……」


シルヴィーが通りの先を見た。


「荷運びの方にも、医者を呼んだか?」

「ああ。別の先生が向かってる」


老人の答えに、シルヴィーが頷く。

何かを探しに行く時とは、違った。

目の前で誰かが困っている。

その人にエマちゃんが話を聞いていて、私は横に立っている。

何を聞けば役に立つのか、分からなかった。

手帳に書かれた家の場所を見ながら、通りへ目を向ける。

店は開いている。荷車も通る。

少し先では、女の人が洗濯物を干していた。

そのすぐ近くの家で、人が目を覚まさない。


「……寝てるだけなんだよね」


つい口から出た言葉に、セルファがこちらを見た。


「そう見えるだけかもしれん」

「うん」


だから、みんな怖いんだ。

目を閉じて、息をしている。

いつもと同じように見えるのに、起こせない。

今夜、自分が眠っても大丈夫なのか。

さっき眠いと言っていた男も、何度も家の扉へ目を向けていた。

その扉が開く。

医者と女の人が出てくると、待っていた人たちが顔を上げた。


「どうだった?」


医者は難しい顔のまま答える。


「脈も呼吸も安定している。熱もないし、目立った傷もない」

「では、どうして……」


女の人の問いに、医者はすぐには答えなかった。


「今のところ、原因は分からん。呼びかけにも反応がない。引き続き診るが、変化があればすぐ知らせてくれ」


女の人が家の中を振り返る。

エマちゃんは医者に会釈《えしゃく》してから、尋ねた。


「薬を飲んだ形跡や、何かの中毒らしい様子はありましたか?」

「今の段階では判断できん。家族にも、心当たりはないそうだ」


エマちゃんが頷く。

息があると聞いて安心したはずなのに、女の人の顔を見ると、何も言えなかった。

さっき眠いと言っていた男が、抱えていた荷物を足元へ置いた。


「……喉、渇いたな」


近くの井戸へ歩いていき、桶《おけ》を落とす。

縄が擦れる音がした。

男は汲《く》み上げた水を木の器へ移し、その場で飲んだ。

私は、ぼんやりそれを見ていた。

隣で、エマちゃんが手帳を開き直す。

紙へ目を落とし、それから井戸を見た。


「どうしたの?」

「……一つ、聞いていませんでした」


エマちゃんは女の人へ近づいた。


「普段、飲み水はどこから汲んでいますか?」

「水ですか?」


女の人は不思議そうにしながら、井戸を指した。


「そこの井戸です。料理にも使っていますけど……」


エマちゃんが老人へ向き直る。


「もう一人の方のお宅は?」

「同じだよ。この辺の家は、大体そこを使ってる」


井戸の横にいた男も、こちらを見た。


「俺も、いつもここの水だ」



エマちゃんの視線が、男の手元で止まる。

さっきまで見つからなかった共通点。

私も、その器へ目を向けた。


「すみません。その水、少し残しておいてもらえますか?」


口へ運びかけていた男の手が止まった。

器の中には、まだ半分ほど水が残っていた。

透き通っていて、何も浮いていない。

さっきまでなら、私も普通に飲んでいたと思う。



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