第三十三話 引き出し
翌朝、目が覚めると、窓から薄い光が入っていた。
庭の方で鳥が鳴いている。
しばらく天井を眺めてから身体を起こし、肩へ落ちてきた髪を払った。
ベッドの脇に置いた眼鏡をかける。
昨日みたいな頭の痛みはない。
机には、書き足した紙が置いてあった。寝る前にも一度読んだけれど、その後に何かを思い出すことはなかった。
ただ、目を覚ました時に、ここがどこなのか考えなかった。
初めて泊まる部屋なら、いつも少しは戸惑うのに。
鏡の前へ行くと、それより気になるものがあった。
寝癖だ。
片側だけ、妙な方向へ跳ねている。
「……ひど」
手で押さえても戻らない。
寝てる間に、何があったの。
櫛をどこへ入れたんだろう。昨日、荷物を出した時には見た気がする。
そんなことを考えながら、私は部屋を出た。
廊下は静かだった。
端にある小さな棚の前へ行き、扉を開ける。一番上の引き出しを引くと、紐や小さな布の奥に、木の櫛が入っていた。
「あるじゃん」
少し古い。でも、使えそうだった。
髪へ何度か通していると、後ろで扉が開いた。
シルヴィーが欠伸をしながら出てくる。
「おはよ」
「おう。早いな」
「寝癖ひどくて」
「寝癖に起こされたのか?」
「起きてから気づいたの」
シルヴィーがこちらへ歩いてきた。
私の手元を見たところで、足が少し止まる。
「それ、どこにあった?」
「ここ」
開いた引き出しを指差した。
シルヴィーは棚へ目を向け、それから櫛を見た。
「ああ」
「借りていいよね?」
「構わねえだろ」
その返事を聞いて、私はもう一度髪を梳かした。
引っかかっていたところが、少しずつほどけていく。
そこで、手が止まった。
開いたままの引き出しを見る。
私は、ほかの場所を探していない。
部屋を出て、ここへ来た。
棚の扉を開けて、一番上を引いた。
櫛を見つけたというより、取りに来たみたいだった。
「……私、なんでここ開けたんだろ」
シルヴィーを見る。
さっきまで眠そうだった目が、こちらへ向いていた。
「櫛を探してたんだろ」
「うん。でも、この棚にあるって誰かに聞いたわけじゃないし。普通、先に自分の鞄見るじゃん」
シルヴィーが引き出しへ目を戻す。
「……そうだな」
昨日の部屋のことを思い出した。
机に触れた時には、知らない景色が見えた。
今は何も見えていない。頭も痛くない。
それなのに、手が迷わず正しいところへ向かった。
櫛を握ったまま考えていると、別の扉が開いた。
セルファが出てくる。
いつも束ねている髪を下ろしていて、肩から背中へ長く流れていた。結んでいる時より、ずっと長く見える。
「おはよ」
「ああ」
「髪、そんな長かったんだ」
「今さらか」
「いつも結んでるから。下ろしてると、ちょっと違うね」
セルファが私の手元へ目を向けた。
櫛を見て、それから開いた引き出しを見る。
また、反応した。
「これ、借りてる」
「ああ」
「セルファの?」
「違う」
誰の、と聞きかけて口を閉じた。
昨日の部屋と同じ聞き方をしたら、また答えてもらえない気がした。
私は棚へ目を戻す。
「……最初から、ここに来たんだよね。探してないのに」
「そうか」
セルファはそれ以上言わなかった。
昨日、廊下を歩いた時に棚は見た。
でも、中は開けていない。
この家へ来たのは初めてなのに、物の場所を知っていた。
どうしてかは分からない。
でも、起きたことまで気のせいにするのは違う気がした。
櫛を元の場所へ戻したところで、エマちゃんの部屋も開いた。
「おはようございます……」
「おはよ」
声より先に、髪へ目がいく。
私よりひどかった。後ろまで跳ねている。
どう寝たら、そこが立つんだろう。
「エマちゃん、寝癖すごい」
「えっ」
エマちゃんが慌てて髪へ手をやった。
触って確かめようとしているけれど、押さえたところの隣がまた跳ねる。
「櫛あるよ」
「貸してください」
「ここ。一番上」
引き出しを開けて渡すと、エマちゃんがほっとした顔をした。
「ありがとうございます」
「後ろ、まだ立ってる」
「ここですか?」
「もうちょい右。あ、そこ」
「……見えないと、難しいですね」
私は笑いながら、部屋の鏡を指差した。
エマちゃんがそちらへ向かうと、シルヴィーも自分の部屋へ戻っていった。
セルファは棚の扉を閉め、一階へ下りていく。
誰も、櫛のことを説明しなかった。
気にはなる。
けれど、どこにあったかを知っていたのは、今回は私の方だった。
◇
朝食は、焼いたパンと卵の入ったスープだった。
四人で席へ着くと、シルヴィーがパンの籠をこちらへ寄せる。
「昨日の夜の残りかと思ったら、ちゃんと朝ご飯だ」
「何だと思ってた」
「肉と酒」
「朝から飲まねえよ」
私は笑いながらパンを取った。
外側は少し固くて、割ると中から温かい湯気が出る。スープにつけて食べると、ちょうどよかった。
宿で待っていれば出てくる食事とは、少し違う。
食べ終わった皿は自分で運ぶし、テーブルも拭く。
エマちゃんが片づけを手伝う横で、私は部屋へ戻って紙を開いた。
廊下の棚、その一番上の引き出しに木の櫛があった。
ほかの場所を探す前に、そこへ取りに行った。
忘れないうちに書き足し、紙を鞄へしまう。
それから、四人で町へ出た。
今日はシルヴィーも一緒だった。
玄関に置いてあった大きな武器を背負うと、後ろ姿まで一回り大きくなる。
道へ出て、私はその横へ並んだ。
「昨日から気になってたんだけど、それ何?」
「これか?」
シルヴィーが肩越しに武器を見る。
「《ユスラフ》だ」
「名前じゃなくて、武器として。槍?」
「槍としても使う」
「としても?」
「色々できんだよ」
「何が?」
「使った方が早え」
「今ここで使わないでね」
「使わねえよ」
後ろからエマちゃんも近づいてきた。
「柄の途中、継ぎ目になっていますね」
「おう。よく見てんな」
「やっぱり。そこが動くんですか?」
「ああ。ただ、引っ張れば外れるってもんじゃねえぞ」
二人が武器を見ながら話し始める。
そういうところを見るのか。
私は刃がいっぱいあるな、くらいしか思ってなかった。
先を歩くセルファへ顔を向ける。
「セルファも知ってる?」
「ああ」
「どうなるの?」
「本人に聞け」
「聞いたら、色々できるって」
「なら、色々できるんだろ」
説明する気がなさすぎる。
ただ、今の二人の顔は、昨日の部屋で話した時とは違っていた。
これは、本当に使うところを見せたいだけらしい。
そのまま通りを進むと、店先に掛かったローブが目に入った。
薄い色で、袖には小さな刺繍がある。
……可愛い。
昨日買った上着とは、全然違う。
近くで刺繍を確かめようと足を向けたところで、フードの後ろを掴まれた。
「ぐえっ」
「行くぞ」
「ちょっと、セルファ」
「昨日買っただろ」
「見るだけじゃん」
「昨日もそう言った」
「今日はほんとに見るだけ」
セルファが私の顔を見る。私は店を見る。
「……分かった。歩くから離して」
手が離れたので、首元を直した。
横でシルヴィーが笑っている。
「毎回こうなのか?」
「毎回じゃないよ」
「だいたいそうだ」
セルファがすぐに答えた。
こういう情報は、ちゃんと教えるんだ。
少し歩くと、今度はエマちゃんの足が遅くなった。
通りの横を見て、もう一度振り返る。
「ほら。エマちゃんも止まりそう」
「少し見てもいいですか?」
見ていたのは、軒先に籠を並べた店だった。
乾燥した葉や細い根が、種類ごとに分けられている。棚には瓶もあり、近づくと草を干したような匂いがした。
「薬草屋?」
「そうみたいです」
エマちゃんがセルファを見る。
セルファは店先へ目を向け、頷いた。
「見ればいい」
「私の時と違くない?」
「昨日買っただろ」
「エマちゃんも昨日、本買ってたじゃん」
「本と薬草は違いますよ」
本人から返ってきた。そうだけど。
私の服だって、昨日の服とは違う。
納得できないまま、四人で店先へ向かった。
エマちゃんはすぐに籠の前へしゃがみ込んだ。束にされた葉を見て、隣の根を確かめる。
さっき武器を眺めていた時より、もっと真剣な顔だった。
シルヴィーも横から覗く。
「薬に使うやつか?」
「こちらはそうですね。こっちは料理にも使います」
「見て分かんのか」
「知っているものなら」
エマちゃんが少し嬉しそうに笑った。
私は隣の籠を覗く。葉っぱだった。さらに隣にも、葉っぱ。
「これとこれ、何が違うの?」
「全然違います」
「そうなんだ」
「説明、聞きます?」
「長い?」
「少し」
「じゃあ、あとで」
「あとで聞いてくれますか?」
「……たぶん」
エマちゃんが呆れたように笑い、隣の籠へ手を伸ばしかけた。
そこで、指が止まる。
「……これ」
声が変わったので、私もそちらを見た。
細長い葉の間に、小さな白い花がいくつか残っていた。ほかのものと同じように、乾燥させて束ねられている。
エマちゃんは手を引き、顔を近づけた。
「珍しいの?」
「いえ。でも……」
店の奥で葉の束を括っている男へ、顔を上げる。
「すみません。この花、どこで採れたものですか?」
「それか? 町の北側だったと思うぞ。いつも持ってくる奴がいてな」
エマちゃんが、もう一度花を見る。
「この辺りで?」
「ああ。どうかしたか?」
私はエマちゃんの横へしゃがんだ。
近くで見ても、普通の白い花にしか見えない。
「何か変?」
「これ、もっと寒い地域に多い植物なんです。この辺りで採れるとは思っていなくて」
エマちゃんは小さな花から目を離さなかった。
「町の近くに生えているなら、一度見てみたいです」
服屋へ向かう時の私と、少し似た顔だった。




