第三十二話 好きなものばかり
階段を上がると、廊下にいくつか扉が並んでいた。
窓から夕日が差し込み、奥の壁を照らしている。床を踏むと小さく音がして、エマちゃんが抱えた本を持ち直した。
「どこまで使っていいんだろ」
「まず見てみましょうか」
手前の扉を開ける。
ベッドと机、それから小さな棚。窓の外には、隣の家の屋根が見えた。
普通にいい部屋だった。宿と違って、何日後に出るか考えなくていいのもありがたい。
「ここでもいいね」
「机もありますしね」
エマちゃんは早速、机の広さを確かめていた。本を置いても横に余裕があるのを見て、満足そうに頷く。
「ここを使わせてもらおうかな」
「早くない? まだ一部屋目だよ」
「何か足りませんか?」
「いや、足りてるけど」
買い物ではあんなに本を選んでたのに。
部屋は、机があれば決まるらしい。
後ろから、セルファとシルヴィーが上がってきた。セルファは私たちの鞄を持ち、シルヴィーは自分の荷物を肩へかけている。
「エマちゃん、ここがいいって」
「ああ。使えばいい」
セルファが部屋の入口へ鞄を下ろした。
「二人はどこ?」
「俺はそこだ」
セルファが向かいの扉へ目を向ける。
シルヴィーは、その隣へ歩いていった。
「俺はこっち」
「ちゃんと決まってるんだ」
「前から使ってるからな」
二人とも、部屋を覗くことすらしなかった。
自分の部屋なら、そうか。
私は荷物を受け取り、隣の扉も開けてみた。
こっちも悪くない。ただ、窓が少し小さい。
荷物を置いて机へ座るところまで想像したけど、まだ決まらなかった。
廊下の奥に、もう一つ扉がある。
「あそこも見てくる」
「はい。私は少し、本を置いておきますね」
エマちゃんを残して、奥へ向かった。
後ろで男二人が何か話し始めたけれど、声が小さくて聞き取れない。
扉の前で鞄を置き、取っ手へ手をかける。
少し重い扉を押し開けると、ほかの部屋とは違う色が目に入った。
壁に、布の飾りが掛かっていた。
色は褪せているけれど、縁には小さな刺繍《
しゅう》がある。窓際には机があり、その横の棚には本と小物が並んでいた。
誰かが使っていた部屋らしい。
私は入口で少し迷ってから、中へ足を踏み入れた。
棚の上には、小さな鳥の置物があった。
丸い身体に、妙に短い嘴。
……可愛い。
隣には、細い金具で作られた髪飾りもある。買ったばかりの上着に合わせたら、結構よさそうだった。
壁際の服掛けには布のカバーが掛かっている。その裾から、服の端が少しだけ覗いていた。
「どうしました?」
エマちゃんが入口から顔を出す。
「こっち、物がいっぱいある」
「本当ですね」
隣へ来たエマちゃんも、部屋を見回した。
私は鳥の置物を指差す。
「これ、可愛くない?」
「ヤマハさん、好きそうですね」
「でしょ。ちょっと間抜けな顔してるのがいい」
「……確かに、目が離れていますね」
エマちゃんの言い方だと、急に鳥がかわいそうになった。
でも、布の飾りも髪飾りも好みだった。
今の私が店で見つけたら、足を止めるものばかり置いてある。
「前に使ってた人、めっちゃ趣味合いそう」
「気に入りました?」
「うん。ここがいいかも」
窓も大きいし、庭が見える。
机はその横に置かれていた。椅子に座れば手元へ光が入り、顔を上げれば外も見える。
この位置がいい。
そう思いながら近づいて、少しだけ足を止めた。
まだ座ってもいないのに、どうしてそんなにしっくりくるんだろう。
机の角に、小さな傷があった。
何気なくその端へ手を置く。
頭の奥が、ずきりと痛んだ。
「っ……」
思わず目を閉じた。
けれど、閉じたはずの目の前に、窓が見えた。
光が入っている。
今より鮮やかな布の飾りが、風に揺れていた。
机には小物と紙が散らばっている。私は椅子に座り、片手で紙の端を押さえていた。
後ろで扉が開く。
――また勝手に入ってきた。
自分の声だった。
誰かが笑う。
――いいだろ、別に。
低い声。
椅子へ手がかかり、私は振り返ろうとした。
「ヤマハさん」
肩に手が触れた。
目を開けると、エマちゃんが顔を覗き込んでいた。
窓際の布は色が褪せていて、机の上に紙はない。椅子も、来た時と同じように机へ収まっている。
私は、立ったままだった。
「……今」
「頭、痛むんですか?」
こめかみに触れている自分の手に気づき、ゆっくり下ろした。
痛みはもう薄れていた。
でも、心臓はまだ少し速い。
「何か、見えた」
「何か?」
「この部屋。誰かが入ってきて……私、座ってた」
言葉にすると、余計に分からなくなった。
夢なら、寝ていたことになる。
でも私は、ここへ入ってきたばかりだ。机に触れて、立っていただけだった。
エマちゃんは私の顔を見てから、椅子を引いた。
「少し座りましょう」
「……うん」
言われた通りに腰を下ろす。
足が床につき、机がすぐ目の前に来た。その感触で、ようやく息が落ち着いていった。
「セルファさんを呼んできますね」
「待って」
エマちゃんの袖を軽く掴んだ。
入口へ向けかけた顔が、こちらへ戻る。
「もう大丈夫。ちょっとだけ、ここにいて」
「……分かりました」
エマちゃんは机の脇へ立ち、私が手を離すのを待ってくれた。
私は窓を見る。
さっき見えた時と同じ形だった。
けれど、布の色は違う。机に置かれていた紙もないし、入ってきた人の顔も分からなかった。
森で見えた、あの景色と同じだろうか。
そこにいないはずなのに、自分がいた。
「私、この部屋知ってるのかな」
自分でも、答えようのないことを聞いたと思った。
エマちゃんはすぐには返さなかった。
「今のものが何なのか、私には分かりません。でも、見えたことは書いておいた方がいいかもしれませんね」
「……うん。それは、そうする」
鞄の中には、あの紙がある。
書き足せることができた。
少ししてから廊下で足音がし、セルファが入口に立った。後ろにはシルヴィーもいる。
「決まったか」
私は椅子へ座ったまま、二人を見た。
「ここ、使っていいの?」
「ああ」
「物が残ってるじゃん」
「邪魔なものがあれば、別のところへ移せばいい」
「捨てたりはしないよ。普通に可愛いし」
シルヴィーが棚を見た。
鳥の置物のあたりで視線が止まったけれど、何も言わなかった。私も、そちらへ目を向ける。
「誰が使ってた部屋?」
セルファが私を見ると少し間があった。
「……今は空いている」
「前の人のことを聞いてるんだけど」
セルファは黙った。
私は机の端へ手を置く。
さっき触れたところ。今度は、何も見えなかった。
「今、ここにいる私が見えた」
シルヴィーの視線が、棚から私へ移る。
「机に座ってて、誰かが入ってきた。顔は分からなかったけど。森で見えた時みたいに、急に」
二人を見たまま、続けた。
「それ、この部屋と関係ある?」
セルファは机へ目を向け、それから私を見る。
「見えたものについて、俺からは話せない」
「……また?」
「ああ」
胸の奥が、少し詰まった。
分かっていて聞いたつもりだった。
それでも、いざ返事をもらえないと、やっぱり嫌だった。
「何か見えたら書いておけって、言ったじゃん。書くよ。でも、私が見たものを話したら、何か教えてくれるのかなって思ったんだけど」
セルファは黙って聞いていた。
「答えられることは答える。だが、今の問いには答えられん」
机に置いた手を引き、膝へ戻す。
森では、知っている気がする背中を見た。
今度は、気に入った部屋で知らない景色が見えた。
少しずつ何かが増えているのに、どう繋がるのかが分からない。
「……じゃあ、自分で確かめる」
「ああ」
「ここの物、見てもいいんだよね?」
「構わん」
私は棚を見た。
置物も、髪飾りも、色の褪せた布も、そのままそこにある。
この部屋へ入る時にも、止められなかった。
「じゃあ、ここ使う」
「分かった」
足元の鞄へ手を伸ばすと、エマちゃんが持ち上げてくれた。
机の横へ置き、買った服もその上へ載せる。
シルヴィーが入口から一歩下がった。
「疲れたなら、少し休め。飯ができたら呼ぶ」
「シルヴィーが作るの?」
「なんだよ」
「いや、作れるんだって」
「お前に言われると、腹立つな」
「ちゃんと褒めるよ。おいしかったら」
「腹減った顔して待ってろ」
少し笑うと、シルヴィーも鼻を鳴らした。
二人が部屋を出ていく。
エマちゃんは私の顔をもう一度確かめてから、入口へ向かった。
「何かあったら呼んでください。隣にいますから」
「ありがと」
「はい」
扉が閉まり、一人になった。
鞄から畳んだ紙を取り出す。
レグナディア。
その下に書いた言葉の続きを、少しずつ増やしていった。
窓際の机と、今より鮮やかな布。
机に広げていた紙。部屋へ入ってきた誰か。
また勝手に入ってきた、という自分の声も書き留める。
その相手が入ってきた時、私は怖がっていなかった。
文句を言っていたのに、嫌だった感じもしない。
そこまで書いて、ペンを置いた。
顔は見えなかった。名前も分からない。
思い浮かべようとしても、さっきの景色は戻ってこなかった。
私は紙を机へ置き、買った上着を袋から出した。
服掛けの空いたところへ掛けると、古い服の裾と、新しい上着が並んだ。
……やっぱり、合う。
あとでセルファに聞いて、あの髪飾りも見せてもらおう。
窓際の布は、外して洗っていいんだろうか。色が褪せていても、私は結構好きだった。
荷物を出し終え、ベッドの端へ座る。
この部屋を選んだ理由なら、言える。
置いてあるものが好きだったし、窓も大きい。机の位置も気に入った。
それなのに、初めての部屋へ来た感じが、あまりしなかった。
窓から風が入り、壁の布が少し揺れる。
今夜は、ここで眠る。
答えはまだ分からないけど、別の部屋へ移りたいとは思わなかった。




