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第三十話 昔の

結局、服屋では少し悩んだ。

窓から見えた上着は、近くで見ても可愛かった。でも、隣の服もよかった。鏡の前で交互に合わせていると、どっちが欲しかったのか分からなくなってくる。


「両方買えばいいじゃん」


口に出してから、自分の荷物を見た。

馬車から降ろしたばかりの鞄は、すでにそれなりに膨らんでいる。

……一着にしとこ。


エマちゃんは棚の隅で、革紐と留め具を眺めていた。服を見に来たはずなのに、いつの間にか小さな金具を二つ並べて比べている。


「何に使うの?」

「瓶を固定するところを、少し変えたくて。歩く時にぶつかるので」

「あー、なるほど」


腰に下げている薬の瓶へ目を向ける。

馬車でも、揺れるたびに小さく音がしていた。

エマちゃんが留め具を選ぶ間に、私は上着を一着買った。

店を出ると、セルファが向かいの壁にもたれて待っていた。


「終わったか」

「終わった。一着だけ」

「何の報告だ」

「ちゃんと我慢しましたっていう」

「そうか」


反応が薄い。

もう少し褒めてもいいと思う。

その後は、本屋にも寄った。

エマちゃんが選んだのは、植物の本と、この辺りの地理について書かれた本だった。どっちも結構分厚い。


「重くない?」

「重いです」

「買うんだ」

「読みたいので」


迷いがない。

店を出て少し歩いたところで、セルファが地理の本を受け取った。

エマちゃんは一度遠慮したけど、家までだと言われると、素直に頭を下げる。

私も服の包みを見せてみた。


「私のも持つ?」

「それくらい持て」

「ですよね」


◇

大通りを離れると、店の代わりに古い家が増えていった。

石畳は緩やかな坂になり、低い石壁の向こうから木の枝が伸びている。開いた窓から食器の触れ合う音がして、少し先では老人が庭の椅子に腰を下ろしていた。

広場と同じ町なのに、こっちはずいぶん静かだった。

セルファは迷わず道を曲がり、小さな橋を渡っていく。


本当に、ここで暮らしてたんだ。

服屋の前ではただ待っていただけなのに、今は角を曲がる前から、次に進む方を見ている。

橋の下を流れる水も、庭先の木も、こいつには見慣れたものなのかもしれない。

やがて、住宅が並ぶ一角で足を止めた。


「ここだ」


二階建ての家だった。

木の扉の横に窓が二つあり、低い石壁で囲まれた庭まである。草は少し伸びていたけど、荒れ果てているわけではなかった。

思っていたより、普通にちゃんとした家だ。


「……でかくない?」

「そうか?」

「庭あるじゃん」

「ああ」

「やっぱ金持ちじゃん」

「まだ言うのか」


エマちゃんも、庭から二階の窓まで見上げている。

私は門へ近づきかけて、セルファが動かないことに気づいた。


「どうしたの?」


彼が見ている方へ目を向けると、玄関の扉が、少し開いていた。


「……開いてるけど」

「ああ」


セルファは門を押し、庭へ入っていった。

私とエマちゃんも後を追う。

玄関まで来ると、彼は扉の隙間から中を確かめた。壁際へ目を向け、わずかに息を吐く。


「来てるな」

「昔の仲間?」


返事の代わりに、セルファが扉を開いた。

玄関には、大きな靴が置いてあった。

壁際には荷物と、長い柄《え》のついた武器。鋭い穂先に、横へ張り出した刃。その反対側には鉤《かぎ》までついている。

柄の途中にも金具があって、一本の棒というには、ずいぶん複雑だった。

あれ、持ち歩くの?


「おい」


セルファが奥へ声をかけた。

椅子を引く音、続いて、足音。

奥の部屋から現れた男を見て、私は武器より先にこっちを見せてほしかったと思った。

でかい。

背が高いだけじゃない。肩幅も広いし、首も腕も太い。黒っぽい服の上からでも身体の厚みが分かって、そこに立つと廊下が急に狭く見えた。

髪は後ろへ流していて、顎《あご》には短い髭《ひげ》がある。

首元には、光を受けて艶《つや》の出る、硬そうな模様が見えた。

……鱗《うろこ》?

男はまず、セルファを見た。


「遅えな」

「やっぱり来てたか」

「ああ」


それだけだった。

久しぶりじゃないの?

もっと何かあるかと思ったけど、二人とも普通に顔を見合わせている。

男が玄関まで来た。

セルファの横にいるエマちゃんへ目を向け、それから私を見て、そこで、動きが止まった。

目が合う。

顔から髪へ、それから眼鏡へ。

視線がもう一度顔へ戻ってきても、男は何も言わなかった。


「……なんかついてる?」


頬に触れてみる。返事はない。

セルファも黙っていた。

男が一歩、近づいてくる。

思わず少し身を引いた。

その動きを見たのか、男は足を止めた。


「……ヤマハ」


服の包みを抱えた指に、力が入った。

私は、名乗っていない。

ハイクさんの時もそうだった。

初めて会った人のはずなのに、向こうは私を知っている。


「なんで、私の名前知ってるの?」


男は口を開きかけた。

けれど、声は出なかった。

大きな手が持ち上がる。

私に触れようとしたのかもしれない。

その手は途中で止まり、ゆっくりと握られた。

男がセルファを見る。


「いつ見つけた」

「少し前だ」

「どれくらい前だ」

「ひと月以上にはなる」


男の目が細くなった。


「……俺は、その間も探してた」

「分かってる」


男が私の前から離れる。

次の瞬間、重い音がした。


「えっ」


隣でエマちゃんが声を上げた。

男の拳が、セルファの胸へ当たっていた。

セルファの身体がわずかに揺れる。

けれど、避けもしなかった。殴られたところを押さえず、相手を見ている。


「なんで言わなかった」


怒鳴ってはいない。

それでも、私の名前を呼んだ時より、ずっと低い声だった。


「悪かった」

「それで終わりか」

「ここで会えなければ、お前を探すつもりだった」


男はセルファを睨んでいた。

拳に、もう一度力が入る。

私は反射的に一歩出た。


「ちょ、待って。殴るのは――」


男の目が、こちらへ向いた。

そこで言葉が詰まる。

怒っているのはセルファに対してなのに、私を見た時だけ、顔が少し変わった。

拳が下ろされる。

男はセルファへ向き直った。


「……クソ野郎」

「ああ」

「そこは否定しろ」

「今は無理だろ」


男が短く鼻を鳴らした。

笑ったようにも聞こえたけど、すぐに顔を背けたので、よく見えなかった。

しばらく、誰も話さない。

開いた玄関から風が入り、足元を抜けていった。

私を探していた。

会えたことを知らされず、怒った。

そこまでは分かる。

でも、この人が私を探す理由だけが分からない。

セルファが知っていると言った私のことを、この人も知っているらしい。

男がこちらへ戻ってきた。

今度は、さっきより少し離れた場所で止まる。


「ヤマハ」

「……うん」


その名前で合っている。

ただ、この人に呼ばれることには、まだ慣れなかった。

男は私の顔を見てから、セルファへ一度だけ目を向けた。

セルファが、わずかに頷く。

二人の間で、また何かが伝わった。

私には分からないまま。


「……名前、聞いてもいい?」


尋ねると、男がこちらを見た。

それから大きな手を差し出す。


「シルヴィーだ」


その手を見て、顔を見上げた。


「私は……」

「知ってる」


そうだった。名前は、もう知ってるんだった。

でも、それだけじゃ困る。

私は服の包みを抱え直した。


「……ごめん。私は、シルヴィーのこと分かんない」


声に出すと、胸の奥が落ち着かなくなった。

会ったことがあるのかも、何を一緒にしていたのかも分からない。

向こうがこんな顔をする理由も。

シルヴィーは手を差し出したまま、少し黙った。


「……そうか」


私は頷く。

その短い返事を聞くと、謝ることではなかったのかもしれないと思った。

けれど、何を言えばよかったのかも分からなかった。

シルヴィーが、少しだけ口元を緩める。


「なら、また知りゃいい」


私は顔を上げた。

差し出された手は、そのままだった。


「今は名前だけでいいだろ」


服の包みを左腕へ寄せ、その手を握る。

大きかった。

指の付け根には硬いところがあり、触れると少しざらつく。

さっきセルファを殴った手。

なのに、握り返す力は思っていたよりずっと弱かった。


「……よろしく」

「ああ」


手が離れる。

隣で、エマちゃんが小さく頭を下げた。


「エマと申します。セルファさんたちと、一緒に旅をしています」

「おう。シルヴィーだ」


シルヴィーは彼女にも頷き、それからセルファへ顔を向けた。


「話はあとだ」

「分かってる」

「長えぞ」

「ああ」


二人の間には、私が聞いていない話がまだ残っている。

気にならないわけじゃない。

でも、玄関で立ち尽くしているうちに、鞄を持った肩が痛くなってきた。


「……とりあえず、入っていい?」


シルヴィーがこちらを見る。

それから、足元の荷物へ目を落とした。


「おう。悪かったな」

「一か月馬車乗ってきて、さっき買い物もしたし。私、もう鞄下ろしたい」

「よく喋るな」

「持ってくれる?」

「寄越せ」


え。冗談のつもりだったのに。

シルヴィーが鞄を受け取り、奥へ運んでいく。私が両手で持っていたものを、片手で軽く持ち上げていた。

エマちゃんと一緒に、家の中へ入る。

この人のことは、まだほとんど知らない。

でも、名前を聞いた。

手を握った。

荷物も持ってもらった。

前に何があったのかは分からないままでも、今のシルヴィーなら、一つずつ知っていけそうだった。


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