第二十九話 リュネア
レイゼルの門が、少しずつ遠ざかっていく。
窓の外を眺めながら、私は座席へ深く身体を預けた。車輪が石を踏むたびに揺れるけど、自分の足で歩くことに比べれば、全然気にならない。
「馬車っていいね」
「前にも乗っただろ」
「今回は長いじゃん。寝ても進むんだよ」
「前も進んだだろ」
そこじゃない。
一か月も歩かずに済む。その素晴らしさを、もう少し共有してほしかった。
行き先は、リュネア。
セルファの家がある町だ。
馬車はエマちゃんが手配してくれた。御者に料金を聞き、途中で寄る町や宿泊する場所まで確認していたらしい。
私が部屋で荷物を詰め直している間に、大体の話は終わっていた。
ちなみに、荷物は少し増えた。
焼けた服の代わりを買うついでに、もう一着だけ買ったからだ。駄目になった服は処分したので、ものすごく増えたわけではない。
そこはちゃんとしている。
杖を窓際へ立てかけ、揺れても倒れないように手を添えた。
向かいでは、エマちゃんが膝の上に本を広げている。外を見ては本へ目を落とし、時々、挟んだ紙に何か書いていた。
その隣で、セルファは窓の外を眺めている。
「ねえ、セルファ」
「なんだ」
「家に帰ったら、封刃のこと調べるんだよね」
「ああ」
「ほかにも、何かあるの?」
セルファは流れていく景色から目を離さず、少し間を置いた。
「昔の仲間に会えるかもしれん」
「家にいるの?」
「たまに戻ってくる。俺がいなくてもな」
「勝手に?」
「あいつも使ってる家だ」
「あ、そうなんだ」
一人で住んでいたわけじゃないらしい。
セルファと一緒に旅をしていた人。
その人も、私を見たら何か言うんだろうか。
少し気になったけれど、会ってもいない相手について考えても仕方ない。
「どんな人?」
「よく喋る」
「へえ。セルファと真逆じゃん」
「騒がしいぞ」
「その言い方、本人に聞かれたら怒られない?」
「俺にも似たようなことを言う」
ちょっと会ってみたくなった。
セルファが何を言われるのかも、気になる。
「いるといいね」
「ああ」
町を離れると、道の両側には畑が広がっていた。遠くで働いている人が顔を上げ、私たちの馬車を見送る。
少し先の分かれ道には、行き先を書いた木の板が立っていた。
リュネアまで、一か月。
着く頃には、どれくらい景色が変わるんだろう。
◇
しばらくして、畑の代わりに木が増え始めた。
道も土が目立つようになり、車輪の音が変わる。窓から入る風が気持ちよくて、座っていると眠くなってきた。
そこで、ふと気づく。
「これ、途中で魔物も出るよね」
「ああ」
「馬車でも?」
「魔物は馬車を避けてくれんからな」
ですよね。
楽に移動できるからといって、安全になるわけではないらしい。
「まあ、その時は頼むね」
「遠くにいるうちなら、お前の雷で追い払える」
「え、私?」
「狙える相手ならな。近づかれる前に止められる方がいい」
セルファは当たり前みたいに言った。
確かに、馬車を止めて、セルファが降りて、魔物のところまで走るより早いのかもしれない。
早いけど。
「私、休暇のつもりだったんだけど」
「いつからだ」
「乗った時から」
「魔物に言っておけ」
「話通じるなら、最初からそうしてるって」
セルファがわずかに口元を緩めた。
「大きいのを撃つ必要はない。少ない魔力で狙った場所へ当てる練習にもなる」
「……それは、やりたいけど」
「無理な距離なら撃つな。近づいてきたら俺が出る」
私は窓の縁へ肘を置いた。
今のところ、見えるのは木と草ばかり。
できれば一か月、ずっとそれでお願いします。
「エマちゃんも何か言ってよ」
返事がない。
振り向くと、エマちゃんは本を開いたまま眠っていた。
頭が少し傾き、馬車が揺れるたびに髪が肩を滑る。さっきまで何か書いていたはずなのに、いつの間に。
「……早くない?」
「昨日、遅くまで起きていたからな」
「何してたの?」
「傷薬を作っていたらしい」
「また?」
昨日も、机に小さな瓶が並んでいた。
宿を出る前に見せてもらったけど、エマちゃんはもう少し確かめたいことがあると言って、丁寧に布へ包んでいた。
「あれ、まだ使えないんだ」
「俺たちには、確かめてあるものを使ったと言っていたぞ」
「それは助かる」
私たちの傷で新作を試していたわけではないらしい。
安心したところで馬車が大きく揺れ、エマちゃんの膝から紙が滑った。
セルファが落ちる前に拾う。
本人は起きなかった。
私は本を受け取り、紙を挟んで隣へ置いた。
エマちゃんの頭が、またゆっくり傾く。
窓へぶつかりそうだったので、畳んだ上着を間に挟んでおいた。
「これでよし」
エマちゃんは頬を上着へ預け、そのまま眠り続けた。
◇
魔物は出た。
一匹も出ないでほしいというお願いは、三日目に終わった。
街道脇の茂みから現れた魔物が、馬へ顔を向ける。
御者が速度を落とした。
セルファも戸口へ手をかける。
「狙えるか」
私は窓から外を見た。
魔物は、まだ道へ出ていない。向こう側に人影もなかった。
「……いける」
杖を左手で押さえ、右手を向ける。
大きくしなくていい。
狙うのは、目の前の一匹だけ。
「《フルメン》!」
青白い雷が走った。
魔物の前脚へ当たり、身体が横へ跳ねる。地面を掻いて体勢を戻すと、今度はこちらへ来ず、茂みの奥へ逃げ込んだ。
御者が馬を宥め、馬車が動き出す。
私は窓から身体を引いた。
「……本当に私がやったじゃん」
「助かった」
「そう言われると、文句言いにくいんだけど」
セルファは戸口から手を離し、座り直した。
私も自分の右手を見る。
まだ、魔力は残っている。
森で大きな龍を落とした時とは、全然違った。
「今くらいでいいんだ」
「ああ。当たれば退く相手もいる」
「毎回倒さなくても?」
「こっちへ来なければ、追う必要はない」
私はもう一度、魔物が消えた茂みを見た。
逃げるのは、私たちだけじゃないらしい。
その後も、何度か魔物に遭遇した。
遠くにいるうちに気づけば、私が雷で追い払う。道を塞がれた時には馬車を止め、セルファと一緒に降りた。
いつの間にかセルファは、窓の外に魔物を見つけると、先に私を見るようになった。
仕事を振る上司の顔だった。
「今、私見たよね」
「ああ」
「自分で行こうとか思わない?」
「近づいてきたら行く」
「遠い時は私?」
「適材適所だ」
「便利な言葉だね、それ」
向かいでエマちゃんが笑っていた。
私が右手を下ろすと、彼女も窓の外へ目を向ける。
「でも、最初の時より狙うのが早くなりましたね」
「……そう?」
「はい」
私はちょっと姿勢を戻した。
「まあ、だいぶ慣れてきたし?」
「だからといって、遠すぎるものまで狙うなよ」
「今ちょっと褒められてるとこなんだけど」
セルファがこちらを見る。
私はその目を見て、頷いた。
「分かってる。調子乗って空っぽになるのは、もうやんない」
◇
それでも、一か月ずっと戦っていたわけじゃない。
町へ着けば宿へ泊まり、街道の途中では馬を休ませた。
野営の夜もあったけど、荷物を背負って一日中歩かずに済むだけで、夕方の疲れ方は全然違う。
ある町では、買ったパンが思っていたより硬くて、私
とエマちゃんでしばらく無言になった。
「これ、食べるものだよね」
「そのはずです」
「武器じゃない?」
「スープにつけろ」
セルファに言われた通りにすると、普通においしかった。
「先に教えてよ」
「噛む前に分かると思った」
「パンに警戒したことないから」
エマちゃんが笑いながら、もう一切れをスープへ沈めた。
別の日には、窓の外を見ていた彼女が急に身を乗り出した。
何かと思えば、道端に見たことのない植物が生えていたらしい。
休憩場所で御者へ相談し、来た道を少し歩いて戻った。
エマちゃんは夢中で葉を確かめ、セルファは近くで周囲を見張っている。
私は道端の石へ座り、待っていた。
さっきまで馬車の中で眠そうだったのに、今は茎の細い毛まで覗き込んでいる。
「エマちゃん、好きなもの見つけるとめっちゃ元気になるね」
「気になることがあると、眠くなくなるんです」
「分かる。服屋だと私もそうなる」
エマちゃんが顔を上げて笑った。
私はついてきてくれた御者へ、次の町に服屋があるか聞いた。
それぞれ、気になるものが違う。
同じ馬車に乗っていても、窓の外に見つけるものは全然同じじゃなかった。
途中で国境も越えた。
荷物と通行の書類を確かめられたけれど、そこから先も言葉は通じる。
急に空の色が変わるわけでもないし、私にはまだ国の違いがよく分からない。
ただ、泊まった宿で出てきた料理は、前より少し辛かった。
そういう違いなら分かる。
馬車へ戻るたび、景色も少しずつ変わっていった。
なだらかな畑が続いていたかと思えば、何日か後には岩の多い道を進んでいる。昼間は上着がいらないくらい暖かくても、日が落ちると急に冷えた。
鞄の紙には、あれから何も書き足せていない。
夜、取り出して眺めることはあった。
レグナディア。
あの時は迷わず言えた名前なのに、今は文字を読んでも、続きの景色は浮かばない。
紙を畳むと、隣ではエマちゃんが今日見つけた植物を描いていた。
私はその手元を覗き込み、昼間の話をした。
気になることは消えていない。
それでも、新しく見たいものや話したいことは、旅をしていると増えていく。
気づけば、出発した朝に聞いた一か月が、終わりに近づいていた。
◇
「見えてきたぞ」
セルファの声で顔を上げた。
窓の向こうに、町があった。
遠くからでも分かるくらい大きい。その奥には、城らしき建物まで見える。
「リュネア?」
「ああ」
私は窓際へ寄った。
門を抜けると、淡い茶色や白の建物が通りに並んでいた。二階の窓には花が飾られ、軒先に張られた布が風に揺れている。
広場の噴水の周りでは、子供たちが走り回っていた。
その向こうに、服屋が見えた。
隣にもある。
道を挟んだ反対側には、帽子と靴が並んでいる。
「……いい町じゃん」
「まだ入ったばかりだろ」
「もう分かる」
あの薄い色の上着、近くで見たい。
エマちゃんも窓へ顔を向けていた。
「あそこ、本屋でしょうか」
「どこ?」
「角の店です。棚が見えます」
「あ、ほんとだ」
二人で外を見ているうちに、馬車が広場の近くで止まった。
御者へ礼を言い、荷物を受け取って地面へ降りる。
大きく背伸びをすると、腰が少し鳴った。
楽だった。
楽だったけど、一か月座っているのも、それなりに疲れるらしい。
「家へ行くぞ」
セルファが荷物を持ち直した。
私は服屋を見て、それからセルファを見る。
「あ、ちょっと待って」
「なんだ」
「少しだけ見てかない?」
「本屋にも寄りたいです」
エマちゃんの声が重なった。
セルファが私たちを順番に見る。
「先に荷物を置けばいいだろ」
「帰り、閉まってるかもしれないじゃん」
「本屋はそこにありますし」
「服屋もそこ」
「同時に喋るな」
二人とも口を閉じた。
セルファは通りへ目を向け、店先で商品の札を外し始めた店員を見た。
それから、息を吐く。
「……長居はするなよ」
「やった」
「ありがとうございます」
私はエマちゃんと顔を見合わせた。
一か月かけて辿り着いた、セルファの町。
まず確かめるのは、服と本になった。




