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第二話 海はまだ遠い

相談所を出てから、私は道端で財布を開いた。

千円札が数枚と、小銭が少し。指でずらしてみても、この世界のお金が紛れ込んでいるわけではない。


「……使えないじゃん」


通りの向こうでは、屋台の男が肉を焼いていた。脂が火に落ちるたびに煙が上がり、いい匂いが流れてくる。


お腹が鳴った。

魔法は使えるようになったけど、ご飯は買えない。今日泊まる場所もない。


神様、初期装備にお金くらいつけてよ。


建物の脇へ寄り、学校鞄を開ける。教科書、筆箱、イヤホン、スマホ、化粧ポーチ。いつもの中身を順番に見ていると、横から声がした。


「金がないのか」


顔を上げると、訓練場にいた男が立っていた。髪の隙間から尖った耳が見えて、またそっちへ目がいってしまう。


「ない。これしか」


千円札を一枚見せると、男は紙幣へ目を落とした。


「ここでは使えないな」

「知ってる。今めっちゃ実感してる」


財布へ戻し、代わりに鞄の口を広げる。


「何か売れそうなものないかな」


男の視線が中を動き、教科書の横に差し込んだスマホで止まった。


「それは?」

「スマホ」

「すまほ?」

「……説明むず」


取り出して画面を点けると、男がわずかに目を細めた。


薄い板が急に光ったように見えるのか。こっちの人からしたら、これも魔法っぽいのかもしれない。


「珍しい物を扱う店なら、値段がつくかもしれない」

「そういう店あるの?」

「ああ」


場所を聞いてみたけれど、最初の角を曲がって、次の通りを抜けて、その先の路地へ入る辺りで分からなくなった。


男が説明を止める。


「……何?」

「近くまで行く」

「いいの?」

「このままだと迷うだろ」


否定したい。

でも、すでに最初の角が怪しい。


「……お願いします」


財布とスマホを鞄へ戻し、男の後を追った。

人の流れに入ると、男は迷わず進んでいく。隣へ追いついてから、名前も知らないことを思い出した。


「名前、聞いてもいい?」

「セルファ」

「セルファね。私は霞《かすみ》ヤマハ」


隣の足音が止まった。

二、三歩進んでから振り返ると、セルファは通りの途中に立ち止まり、私を見ていた。


「……カスミヤマハ」

「うん。霞が名字で、ヤマハが名前」


聞き取りにくかったのかと思って説明したけど、返事がない。通り過ぎる馬車の音が、二人の間を埋めた。


「何? 変な名前?」

「……そうか」

「何が?」


セルファは小さく息を吐き、また歩き出した。


「行くぞ」

「いや、気になるんだけど」


追いついて横から顔を覗いても、進む先を見ている。

名前くらいしか言ってないのに、何だったんだろう。

案内してもらってるからついていくけど、ちょっと変な人かもしれない。


◇


古物商へ向かう途中で、さっき見つけた服屋の前を通った。


白いシャツと緑色のベスト。その隣の灰色のローブも、まだ掛かっている。歩く速さを落とすと、少し先でセルファが止まった。


「欲しいのか?」

「ちょっと。魔法使えるようになったし、こういうの着てみたいじゃん」


近づくと、肩には小さな金具がついていた。長い裾も、落ち着いた色も、いかにも魔法使いっぽい。


「旅で着るなら、もう少し軽い方がいい」

「これ重いの?」

「ああ」


裾をそっと持ち上げてみる。厚い生地が指の上に重なり、思ったよりずっしりしていた。


これを着て、さっきの草原を歩くのか。


「……重。可愛いのに」

「雨には強いぞ」

「ずっと雨なら考える」


今はいいかな。

生地を戻し、セルファの隣へ並んだ。


「セルファって旅してんの?」

「ああ」

「だから詳しいんだ」

「普通だ」


こっちに来たばっかの私には、全然普通じゃないんだけど。


でも、買う前に聞けてよかった。可愛いからって買って、重すぎて持ち歩けないとか、普通にありそう。


セルファが建物の間へ入っていく。明るい大通りから外れると、石壁に挟まれた細い道が続いていた。


こんなところに入口あったんだ。

曲がり角を覚えようと一度振り返ってから、私は足を速めた。


◇


古物商の中は、物でいっぱいだった。


古い食器の隣に動物の角。その下には小さな箱が並び、壁には剣まで掛かっている。棚の間に残された通路を進むだけで、何度も目移りした。


金属の輪に、細い針が何本もついた道具がある。

何これ。ちょっと気になる。

手を伸ばすと、後ろから声が飛んできた。


「触るなよ」

「なんで?」

「知らん」

「知らないのに止めたの?」

「だからだ」


それはそう。


手を引っ込めて見るだけにしたけど、今度は隣の箱が気になった。蓋に変な模様が彫ってある。


「嬢ちゃん、売りに来たんじゃないのか?」


奥から声をかけられ、顔を上げた。

カウンターに年老いた男が座っている。私の様子を見ていたらしく、笑っていた。


「あ、そうだった」

「忘れとったのか」


それから、後ろのセルファへ顎を上げる。


「久しぶりじゃな」

「ああ」


顔見知りなんだ。

カウンターへ近づき、鞄からスマホを取り出した。


「これって売れる?」

「なんじゃ、こりゃ」

「スマホ」

「すまほ?」


またそこから。


画面を点けて渡すと、店主の眉が上がった。裏返して背面を眺め、薄い側面を指でなぞってから、もう一度画面を見る。


「ほう……変わったもんじゃな」

「売れそう?」

「珍しい物には違いないの。どこで作られた?」

「それは、ちょっと説明むずい」


異世界から持ってきました、とは言いにくい。

店主はそれ以上聞かず、スマホの角度を変えて眺めていた。


「こういう珍しいの、たまに来るの?」

「たまにな。同じ物は見たことないがの」


少し考えるように、店主が顎を触る。


「先代だったか、先々代だったか……昔、何に使うのかも分からん妙な品を見たと言っとったな」

「どんなの?」

「知らん」

「知らないんだ」

「ワシも詳しく聞いとらん。古物商をやっとれば、出所の分からん品なんぞ珍しくもない」

「そんなもんなんだ」


棚を見れば、私にも使い道の分からない物がいくつもある。さっき触ろうとした道具だってそうだ。スマホも、ここに置けばその仲間になるらしい。


「で、これ売ったらいくら?」

「切り替えが早いの」

「だって今日の宿代ないし」


まずは寝床。


店主がつけてくれた値段は、聞いただけでは高いのか安いのか分からなかった。宿と食事ならどれくらいかを教えてもらうと、思っていたより頼りになる額だった。


それなら、と頷きかけた時、画面が暗くなった。


黒い画面に、自分の顔が薄く映っている。毎日何度も触っていたスマホが、店主の手に収まっていた。


そのまま棚へ並べられるところを想像して、急に惜しくなる。

ここで売ったら、同じものはもう買えない。


「……やっぱり、これはやめてもいい?」


店主は私を見てから、スマホをカウンターへ置いた。


「構わんよ」

「ごめん」


引き寄せると、見慣れた重さが掌へ戻ってきた。

まだ、手放すのは無理かも。


代わりに筆箱を開け、ペンを何本か出した。ほかの小物も見てもらうと、そっちにも値段がつくらしい。


店主が紙へペンを走らせ、書き味を確かめている。少し空いた筆箱を閉じて待っていると、カウンターに硬貨が並べられた。


店を出てから財布へ移す。

日本円の隣に、見たことのないお金が入った。傾けると硬貨の縁が触れ合い、小さな音を立てる。


「……よし」


これで、ご飯が買える。


◇


近くの屋台で、薄いパンに肉と野菜を挟んだものを買った。


受け取った包みはまだ温かい。はみ出した肉の端には焼き色がついていて、一口かじると、肉汁が口の中に広がった。


うま。

名前も聞いたけど、一口目で忘れた。もう一回聞くより、もう一口食べたい。


セルファは近くの壁へ寄りかかり、通りを見ていた。


「セルファ食べないの?」

「もう食った」

「いつ?」

「お前と会う前」

「ちゃんとしてる」

「普通だ」


こっちは今日死んで、異世界まで来てるんだから、普通も何もない。


最後の一口を食べ終えると、ようやく落ち着いた。空腹が解決したので、次は寝床だ。


「安い宿って知ってる? 変なとこじゃなければいいんだけど」

「ここから近い」


セルファが壁から離れる。

また案内してくれるらしい。隣へ並び、横顔を見上げた。


「セルファって暇なの?」

「何でそうなる」

「ずっと付き合ってくれてるじゃん」

「今日はもう用事がない」

「じゃあ暇じゃん」

「違う」


何が違うんだろう。

でも、助かってるからそこはいいか。


大通りへ戻ると、建物の隙間から差す光が赤くなっていた。店先の品物を奥へ運ぶ人もいれば、入口に明かりを灯している人もいる。石畳には長い影が伸び、昼間とは違う料理の匂いが流れていた。


知らない国の夕方を、エルフの男と歩いている。

朝の私に言っても、絶対信じないと思う。


「ねえ、セルファ」

「何だ」

「海ってある?」

「ああ」

「遠い?」

「ここから東へ行くなら、数年はかかる」

「……数年?」


思わずセルファを見る。冗談を言っている顔ではなかった。


「海見るだけで?」

「旅を続けていけばな」

「めっちゃ遠いじゃん」


今日の草原で足が痛くなってる場合じゃなかった。


建物の間から見える空へ目を向ける。この向こうに、何年もかけて歩く道が続いているらしい。その先にある海って、どんな色なんだろう。


「他の国も通る?」

「ああ」

「魔物って町の外なら普通にいる?」

「場所による」

「竜は?」


セルファがこちらを見た。


「見たいのか?」

「遠くからなら」

「やめとけ」

「そんなヤバい?」

「今見つかれば死ぬだろうな」

「……じゃあ、めっちゃ遠くから」

「同じだ」


怖。

今日死んだばっかなんだけど。


でも、本当にいるんだ。空を飛んだりするのかな。建物より大きかったりするのかな。


死ぬのは嫌だけど、見てみたいものは増えていく。


◇


案内された宿は、石造りの三階建てだった。


入口の向こうには卓が並び、何人かの客が座っている。食器の触れる音や話し声が聞こえて、ひとまず変な場所ではなさそうだった。


「今日はありがと。魔法も、店も」

「ああ」

「じゃあ、またどっかで」


手を上げて入口へ向かうと、後ろから名前を呼ばれた。


「ヤマハ」


振り返る。セルファはまだそこに立っていた。


「これからどうするつもりだ」

「これから?」

「この町にいるのか」


宿とご飯で頭がいっぱいだった。明日からの予定、何もない。


「色々見たいかな」


服屋も、古物商も、屋台も。今日だけで、足を止めたくなるものがいくつもあった。ほかの町なら、また違うものがあるんだろう。


「せっかく来たし。ずっとここにいるのは勿体ないじゃん」


セルファは少し黙ってから言った。


「俺は東へ行く」

「東って、海の方?」

「ああ。いくつか町を回るつもりだ」

「へえ」


それは気になる。


「途中まで同じ道を行くか」

「……一緒に?」

「ああ。お前も町の外を見たいんだろ」

「見たいけど」


随分助けてもらったし、悪い人には見えない。でも、今日会ったばかりだ。顔がいいからって、知らない男にそのままついていくのもどうなんだろう。


「明日決めてもいい?」

「ああ」

「もうちょいセルファのこと知ってから」

「その方がいい」


あっさり言われた。


「……いいんだ」

「自分で決めろ」


誘ったのそっちなのに。

でも、急かされないのはありがたかった。今すぐ返事をしなくても、気を悪くする様子はない。


「セルファ、明日は?」

「ギルドに行く。簡単な依頼を受けるつもりだ」

「私も行っていい?」

「ああ」

「じゃあ行く」


仕事も見てみたいし、もう一日一緒にいれば、今日よりはどんな人か分かりそうだ。


旅に行くかは、そのあと決めよう。


◇


宿代を払い、案内された部屋へ入った。


小さなベッドと机、椅子が一つ。窓から夕方の光が差して、床とベッドの脚を照らしている。


学校鞄を下ろし、やっとローファーを脱いだ。足の指を動かしてからベッドへ座ると、身体が思ったより沈む。


あ、もう立ちたくない。


廊下で足音がした。どこかの扉が開き、下の階からは客同士の話し声が届いている。


鞄からスマホを取り出して画面を点けた。見慣れた表示を少し眺め、机へ置く。


売らなくてよかった。

その横で右手を開いてみる。普通の手だ。


でも、今日ここから雷が飛んだ。木板に残った焦げ跡も、あの乾いた音も、まだ覚えている。


雷戰《レグリア》って人は、どれくらい出せたんだろう。


明日、セルファに聞いてみようかな。

そう思ったところで、名前を伝えた時の顔が浮かんだ。あの時だけ、妙に黙っていた。


あれも、ちゃんと聞けるだろうか。

ベッドから立ち上がり、窓へ近づいた。


知らない屋根の間に細い道が見え、店の明かりが増えている。荷物を抱えた人が、ゆっくりその前を通り過ぎていった。


「……明日、何着よ」


自分の制服を見下ろす。


草原に寝転がって、そのあと町中を歩いた服だ。袖を払ってみても、着替えが増えるわけではない。


「服、買お」


ご飯と宿代は残しておきたい。でも、さすがにもう一着くらい欲しい。今度は軽いローブも見てみよう。


机へ眼鏡を置くと、部屋の輪郭がぼやけた。ベッドへ戻って枕に頭を預ける。


窓の外では、まだ人の声がしていた。

明日はセルファと仕事。その前に、服屋。


店への曲がり角を思い出しているうちに、瞼が重くなった。

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