第二十六話 同じ
水滴が落ちた。
濡れた床に小さな輪が広がり、壁際の燭台が映した火を揺らす。
窓のない部屋には、三つの人影があった。
「……ゼノが身体を失ったわ」
中央に立つ女が言った。
長い衣の裾は濡れた床へ届いている。けれど、その胸から下は、腰につながっていなかった。離れた身体の間に薄い水の膜が張り、呼吸に合わせるように膨らんでは戻る。
膜の内側で、黒い冠が揺れていた。
奥の椅子で、男の指が止まった。
「誰にやられた」
「そこまでは、まだ」
女は目を閉じたまま答えた。
男の顔がこちらを向く。肩は椅子の背に預けられたまま、動いていなかった。首の上にあるはずの頭だけが、少し高い位置に浮いている。
その下の暗がりに、黒い輪が見えた。
「また?」
壁際から、笑い混じりの声がした。
もう一人の女が、壁にもたれていた。片脚で立ち、もう一方の膝から下は、床へ触れずに揺れている。足首に嵌まった冠が、爪先の動きにつれて傾いた。
「懲りないわね」
「冠は残っている」
「なら、そのうち戻るでしょ」
誰も席を立たなかった。
水滴が一つ落ちる間、浮いた脚だけがゆっくり揺れていた。
「封じられてはいないの?」
「ええ。まだ繋がっているもの」
水を纏う女は、懐へ手を入れた。抜き出したのは、一本の短剣だった。刃の根元に刻まれた印が、燭台の明かりを受けて浮かぶ。
壁際の女が目を細めた。
「それ、まだ持ち歩いてるんだ」
「誰かに持たれるより、いいでしょう?」
「自分を閉じ込めるものなのに」
女は答えず、刃を傾けた。
水の膜に映った光が、離れた身体の内側へ滑っていく。
「あなたは開けてくれるの? 私が入れられたら」
「気が向けば」
「なら、手放せないわね」
短剣が衣の中へ消えた。
壁際の女は、楽しそうに肩を揺らした。
水の膜が、小さく震えた。
中央の女が、懐から戻しかけた手を止める。
閉じた瞼の下で、目が動いた。
「……どうした」
椅子の男が尋ねた。
返事はなかった。
女は何もない場所へ指を伸ばした。指先がわずかに曲がる。見えない糸を手繰るような動きだった。
遠くに残された、焼けつくような気配。
その奥に、細い何かが混じっていた。
触れようとすると、弾かれる。
女の爪の先で、水が一滴跳ねた。
「雷」
浮いていた脚が止まった。
「ゼノをやったものか」
「残っているわ。ほんの少し」
椅子の男が、身体を起こした。
頭が遅れて低くなり、肩の上へ近づく。その目は、女の指先を見ていた。
「覚えがあるのか」
女の唇が、わずかに開いた。
答える代わりに、もう一度、指を曲げる。
青白い光。黒い空を裂くほどの眩しさ。
遠いはずのそれが、目を閉じている今のほうが鮮やかだった。
「……まだ、いたの」
床へ落ちた水滴の音が、妙にはっきり響いた。
壁際の女が、ゆっくり姿勢を変える。浮いた爪先が床すれすれまで下がった。
「誰のこと?」
水の膜に、細かな波紋が重なった。
「消えたと思っていたのよ」
「答えになっていない」
男の声が低くなる。
女はようやく目を開いた。
口元には笑みがあった。けれど、懐へ戻した手は、衣の上から短剣の柄を押さえていた。
「同じ雷を持つ何かがいる。それだけは、確かね」
「同じ、ね」
壁際の女が繰り返した。
「見間違いじゃない?」
「顔を見たわけじゃないもの」
「なら、なおさらでしょう」
女は否定しなかった。
指先に残る感触を確かめるように、親指を人差し指へ重ねた。椅子が軋んだ。
「ゼノを倒した程度で、決めつけるな」
「だから、見てみたいの」
男は立ち上がった。
先に身体が扉へ向かい、浮いた頭がそのあとを追う。女のそばを通る時も、顔は正面を向いたままだった。
「あなたは気にならない?」
「確かめたいなら、自分で行け」
扉が開いた。
廊下から流れ込んだ空気に、燭台の火が傾く。
男が出ていったあとも、女はしばらく扉を見ていた。
「機嫌、悪くなったんじゃない?」
壁際の女が囁いた。
「いつものことよ」
「そう?」
浮いた脚が、また揺れ始めた。
水を纏う女が歩き出した。
裾が床を擦る。その下から細い波が広がり、足跡の代わりに燭台の光を歪めていった。
「ゼノを拾いに行くの?」
「手がかりにはなるでしょうね」
「戻してあげる?」
女は扉の前で振り返った。
「話を聞く価値があれば」
壁際の女が、声を出さずに笑った。
「倒した相手が持っているかもしれないわよ。あの冠」
「それなら、探す手間が省けるわ」
「向こうは、あなたに会いたくないかも」
「そうでしょうね」
笑みは消えなかった。
壁際の女は片手を上げ、別れを告げるように指を振った。その足首を囲む黒い冠が、ふと燭台のほうへ向く。
「こっちの探し物も、忘れないでよ」
扉へ掛けた手が止まった。
「まだ、何も?」
「三つとも」
短い返事だった。水の膜が静まった。
部屋の中で動いているのは、火と、壁際の女の爪先だけになった。
「長いわね」
「ええ。黙ってるにしては、長すぎる」
女は懐へ目を落とした。
そこに収められた短剣の輪郭を見て、壁際の女が口を開く。
「それ一本で済む話じゃないんだから」
「分かっているわ」
「ならいいけど」
扉が開いた。
女が出ていくと、床に広がっていた水が細く流れ、その裾を追った。濡れた石の上に、燭台の光だけが残る。
最後の一人は、閉じた扉を見つめていた。
浮いていた脚を引き寄せ、膝の下へ戻す。
触れ合う直前で、脚は止まった。
「……同じ雷、ね」
水滴が落ちた。
今度は、誰も笑わなかった。
◇
遠く離れた町の一室で、布に包まれた黒い冠が鳴った。ごく小さな音だった。
廊下を歩く足音に紛れてしまいそうな、それでも部屋の中では場違いな、硬い響き。
セルファは椅子から立ち上がった。
卓の上には、二本の刀が置かれている。その脇にある包みへ手を伸ばし、布を開いた。
焼けた森から持ち帰った冠には、傷一つなかった。
内側に、細い光が走った。青白い光だった。
指を近づける前に、それは消えた。
セルファはしばらく冠を見つめ、それから隣の寝台へ顔を向けた。
ヤマハは眠っていた。
毛布から片手が出ている。指先には、森でついた小さな擦り傷が残っていた。枕元へ置かれた眼鏡に、卓の明かりが映っている。
寝息は変わらない。セルファは布を冠へ戻した。
そばに置かれた紙の端が、その手に触れて揺れた。
レグナディア。黒い空。二本の刀を持った背中。
書きかけの文字を、彼は黙って見下ろした。
やがて紙を元の位置へ戻し、椅子を寝台のそばへ寄せる。二本の刀は、座ったまま手の届く場所へ移した。
窓の外では、人が笑っていた。
店じまいを告げる声がして、少し遅れて、通りを走る車輪の音がした。
灯りのある町の、いつもの夜だった。
セルファは眠らなかった。




