第二十五話 おかえりのある場所
森を出るまでに、三回休んだ。
一回目は倒れた木に座り、二回目は岩に腰を下ろした。三回目は、座れそうなものを探す元気もなくて、そのまま地面へ。
「……帰り道、長くなってない?」
「来た時と同じだ」
「じゃあ森が伸びた」
「伸びてない」
セルファも、今日は先を急かさなかった。
木に背を預け、私が水を飲み終えるのを待っている。脇腹に当てた布には血が滲み、息を吐いた時、わずかに眉が寄った。
ゼノの冠は、彼の荷物の中にある。
私を焼けていない場所へ座らせてから、セルファが拾いに戻った。
布で包み、そのまま持ち帰ると言った。
壊せないのかと聞いたけれど、刀ではどうにもならないらしい。
持って帰るのも嫌だけど、森へ置いてくるのも嫌だ。
知らない間に、また腕が生えていたらどうするの。
……考えるんじゃなかった。
水筒の蓋を閉め、杖を支えに立ち上がる。膝が揺れると、セルファが手を貸してくれた。
「ごめんね。遅くて」
「俺も休める」
「……なら、いいけど」
彼は短く頷いた。
いつもの調子で問題ないと言われるより、少し安心した。
◇
町へ戻った時には、店先の灯りが点き始めていた。
パンを売る声も、馬車の車輪が石を踏む音も、朝と変わらない。
屋台から肉を焼く匂いが流れてきた。
同じ焦げた匂いなのに、こっちは普通においしそう。
そう思った途端、お腹が鳴った。
「……生きてるわ、私」
「そうだな」
宿の扉を開けると、奥の席にエマちゃんがいた。
本は開いている。でも、目は入口へ向いていた。
私たちを見つけた瞬間に立ち上がり、椅子が床を擦る。
「ヤマハさん、セルファさん!」
駆け寄ってきた彼女の視線が、私の顔から服へ下がった。それから、セルファの脇で止まる。
「……調べるだけって、言いましたよね」
「うん」
「どうして血がついてるんですか」
「向こうが、調べられるだけで終わってくれなくて……」
エマちゃんが私を見た。
笑ってくれなかった。
「先に座ってください」
はい。
これは、大人しくするやつだ。
◇
部屋へ戻ると、エマちゃんは鞄から布や小瓶を取り出した。
私はベッドの端に座り、セルファは椅子へ腰を下ろす。
眼鏡を外すと、水で湿らせた布が頬に触れた。
「痛いところは?」
「全体的に」
「特に痛いところです」
「膝と、肩。あと心」
「心は少し待ってください」
後回しにされた。
エマちゃんは袖についた土を払い、肩の擦り傷を確かめる。
薬が触れた瞬間、身体が跳ねた。
「いっ……!」
「少し沁みます」
「それ先に言って。今の、少しじゃなかったし」
肩は転がって打ったうえに、木にもぶつけている。
膝まで曲げると痛くて、どこに力を入れれば楽なのか分からなかった。
エマちゃんはそのたびに手を止め、痛む場所を聞き直してくれた。
セルファの手当てになると、表情がさらに真剣になる。
上着を脱いでもらい、血のついた布を外す。傷の周りを拭かれている間も、セルファは黙っていた。
「痛くないの?」
「痛い」
「顔に出なさすぎじゃない?」
エマちゃんが包帯を巻くと、眉がわずかに動いた。
出た。
ちょっとだけ。
「私にできるのは、ひとまず血を止めるところまでです。あとで、きちんと診てもらってくださいね」
セルファが頷く。
エマちゃんは道具を片づけながら、今度は私へ顔を向けた。
「ヤマハさんも、今日は魔法を使わないでください」
「出したくても出ない」
「なら、試さないでください」
「……はい」
二人まとめて注意された。
それでも、エマちゃんが近くにいて、部屋に灯りが点いているだけで、身体の力が少しずつ抜けていった。
窓の外から、誰かの笑い声が聞こえる。
森では、こんな音はしなかった。
「……ただいま」
ぽつりと言うと、エマちゃんが手を止めた。
それから、少しだけ笑った。
「おかえりなさい」
◇
温かいスープを飲んで、ようやく指先まで落ち着いた。
宿の人に頼んだパンも、いつの間にか半分なくなっている。
空腹だったはずなのに、食べ始めてからの方がよく分かった。
セルファは向かいの椅子に座っていた。
上着を脱いだせいで、包帯がよく見える。その横に置かれた二本の刀には、もう雷は残っていなかった。
私は器を置いた。
「セルファ」
彼が顔を上げる。
「帰ったら聞くって、言ったよね」
「ああ」
今度は、話を変えなかった。
聞きたいことを頭の中に並べる。
ハイクさんのこと。ゼノの言葉。森で見えた景色。
その中から、一つ選んだ。
「レグナディアって、前から使ってた技?」
セルファは二本の刀へ目を向けた。
「そうだ」
「雷がないと使えない?」
「ああ。俺一人では使えない」
森で見た光が浮かぶ。
二本の刀へ集まった雷。それを受け止め、迷わず踏み込んだ背中。
「じゃあ、前は誰かと使ってたんだ」
セルファが頷いた。
その相手を聞こうとして、口を閉じる。
先に、私のことを話したかった。
「……私、その名前、知らなかったんだよ。セルファから聞いてないし、本で読んだ覚えもない。でも、構えたところを見たら、出てきた」
エマちゃんは片づけの手を止め、黙って聞いていた。
「雷を流す時も、なんか分かった。どっちの刀に必要なのか。全部じゃないけど、考える前に手が動く時があって……自分でやってるのに、自分でも分かんないの」
右手を見下ろすと今は、何も出ない。
握って、開いても、ただ指が動くだけだった。
「森で、何か見えたのか」
顔を上げた。
「なんで分かるの?」
「途中で、目の前を見ていなかった」
私は膝の上へ手を戻した。
黒い空。焼けた地面。
思い出そうとすると、そこまでは浮かぶ。
けれど、その先を掴もうとすると、輪郭が崩れてしまう。
「……少しだけ。ここじゃない場所みたいなのが。夢を見てる感じとも違ったんだけど」
「今、無理に追うな。魔力も使いすぎている」
「じゃあ、休んだら考えていい?」
「ああ。今は、覚えていることを書いておけばいい」
それは、思っていなかった答えだった。
気にするな、と言われるつもりでいた。
少しだけ黙ってから、私はセルファを見た。
「何か知ってるんでしょ。ハイクさんが言いかけたことも、ゼノが言おうとしたことも」
返事はなかった。
廊下を歩く足音が近づき、扉の前を通り過ぎる。
セルファは、こちらから目を逸らさなかった。
「知っていることはある」
「じゃあ――」
「だが、俺から話してはいけないこともある」
私は口を閉じた。
また、聞けない。
そう思うと腹が立った。
「なんで? 私のことなんでしょ。私が知らないところで、私を見て驚く人がいて、変な名前が口から出てきて……それで何も聞くなって、無理だよ」
言い終わってから、少し息を吸った。
セルファは黙って聞いていた。
「聞くなとは言わない」
「でも、答えてくれない」
「答えられないことがある」
知らないふりは、もうしていなかった。
何もなかったことにしようとしているわけでもない。
それでも、納得できるほどの答えではなかった。
「……私が自分で調べるのは?」
「止めない」
すぐに返ってきた。
「誰かに聞いたり、本を読んだりしても?」
「ああ」
「セルファにも、また聞くからね」
「答えられることは答える」
全部話してくれる、と期待していた。
そこまでは届かなかった。
私は膝の上で指を組み直した。
セルファは知っている。私は、まだ分からない。
それだけは、はっきりした。
「……分かった。今日は、ここまでにする」
セルファの肩から、わずかに力が抜ける。
「でも、納得したわけじゃないから」
「ああ」
「質問、増えると思う」
「もう十分多い」
「まだ序盤だよ」
隣で、エマちゃんが小さく笑った。
私も少し笑って、それからパンへ手を伸ばした。
◇
器が空になった頃、セルファが言った。
「しばらく町で休む」
「うん」
「その間に、旅を続けるかどうかも考えておけ」
私は顔を上げた。
ゼノの笑う顔が、頭を過ぎる。
炎も、飛んでくる腕も、もう見たくない。
あんなものがほかにもいると知った今、気軽に楽しそうとは言えなかった。
セルファの包帯へ目が落ちる。
私がいなければ、逃げられたのかもしれない。
守らなきゃいけない相手がいなかったら、あの拳を受けずに済んだのかもしれない。
「……今日、私のせいで怪我したよね」
セルファがこちらを見る。
「お前がいなければ、最後の技も使えなかった」
「それは、そうかもしれないけど」
「次は、逃げるために魔力を残せ。大きいのを撃つ前に、その後どうするか考えろ」
私は頷いた。
そこは、言い返せない。
倒せなかった時のことを考えずに、ほとんど使い切った。
「あと、止まれるようになる」
「そうしろ」
「木で止まるの、普通に痛いし」
転がった肩をそっと押さえる。
エマちゃんに見られ、すぐ手を離した。
私は少し考えてから、セルファへ向き直った。
「……旅、続けたい」
彼は黙って聞いていた。
「まだ行きたい場所もあるし。海も見てないし。それに、気になることができた」
器の縁を指でなぞる。
知らない技の名前。見えた景色。
私を見て、何かを知ったように笑ったゼノ。
何も分からないまま、ここで終わりにするのは嫌だった。
「私のことなのに、私だけ分からないままなの、嫌だから」
セルファはすぐには頷かなかった。
しばらく私を見てから、短く答える。
「分かった」
エマちゃんが私たちを交互に見た。
「続けるのは、二人とも治ってからですよ」
「分かってるって」
「森へ行く前も、そう言っていました」
「……今回はほんと」
信用がない。
まあ、今日の服を見たら仕方ないか。
◇
眠る前に、エマちゃんが貸してくれた紙を机へ置いた。
椅子に座り直し、ペンを持つ。
レグナディア。
文字にしてみても、どうして知っていたのかは分からなかった。
下へ、覚えていることを書き足す。
黒い空。青白い雷。二本の刀を持った背中。
そこで手が止まった。
窓の外には町の灯りが見える。通りを歩く人の声も、遠くの店から漏れる笑い声も、まだ聞こえていた。
今ここにいることは、ちゃんと分かる。
今日、森へ行ったことも、ゼノと戦ったことも、全部覚えている。
その中に、自分のものかも分からない景色が混じっていた。
私は書いた言葉を、もう一度読む。
セルファの背中を見た時、怖さとは違うものも感じていた。
よく分からないのに、あそこへ雷を流せばいいと思えた。
隣に立てるような気がした。
ペン先を紙へ戻し、最後に一行だけ書く。
どうして、知っている気がしたんだろう。




