第二十一話 灰の向こう
宿へ戻り、水と手当て用の道具を小さな鞄へ詰めた。
買った上着は、椅子の背に掛けておく。
いつもの服なら何度も森を歩いているし、汚しても、あっちほどは落ち込まない。
最後に杖を取ると、机の横にいたエマちゃんが顔を上げた。
「……黒冠を、調べに行くんですか?」
「ああ。目撃された場所を確かめる」
セルファの返事を聞き、エマちゃんは私を見た。
「ヤマハさんも?」
「うん。私も行くことにした。見つけても戦わないで、危なかったら戻るって」
「ですが、とても危険だと聞いたことがあります」
それは、さっき私も聞いた。
町が一つ消えることもある。
倒したはずなのに、また現れる。
鞄へ水を入れていると、エマちゃんが自分の荷物へ目を向けた。
「私も、何かお手伝いできれば……」
「今回は残れ」
セルファが答える。
「見つからずに動く必要がある。薬や手当てが必要になった時は頼むが、今は人数を増やしたくない」
「……分かりました」
少し俯いたあと、エマちゃんは机から小瓶を一つ取った。
「せめて、これを持っていってください。傷を洗ったあとに使う薬です」
布で包み、私の鞄の手前へ入れてくれる。取り出す時に、ほかの荷物をひっくり返さずに済む場所だった。
「ありがと、エマちゃん。めっちゃ助かる」
「使わずに戻ってきてくださるのが、一番です」
「それはほんとにそう」
鞄を閉じて、肩へ掛ける。
準備が終わった途端、急に行きたくなくなった。さっきまで目の前にあったのは水と薬だったのに、今度は身体から離れた腕が頭に浮かぶ。
「セルファ。もし見つかったら、ちゃんと逃げるんだよね?」
「ああ。退くために戦うことはあるが、長くやり合うつもりはない。お前は俺の指示を聞け」
「そこは聞く。今日はめっちゃ聞く」
セルファが扉を開けた。
エマちゃんもそこまで来て、私たちを見送る。
「気をつけてくださいね」
「うん。行ってきます」
軽く返したつもりなのに、声が少し硬くなった。
◇
レイゼルの門を出ると、町の賑わいが背中の方へ遠ざかった。
街道の両側では、背の低い草が揺れている。空は晴れているし、道も歩きやすい。昨日なら、どこかで休憩してお菓子を食べたくなるような日だった。
今日は、草むらが動くたびに目がいく。
「……セルファ」
「何だ」
「自分で行くって言ったけど、普通に怖い」
「ああ」
「そこ、もうちょっと安心する返事ない? ああ、じゃ、そりゃ怖いよなって言われてる気がするんだけど」
「怖いなら、周りを見ろ。俺だけを追うな」
「見てるよ。さっきから草まで気になる」
「それでいい」
いいらしい。
足を動かすたび、膝の辺りに変な力が入る。
魔物が飛び出してきた時は、驚いてから怖くなった。今回は何も見ていないのに、ずっと落ち着かない。
道の先と、両脇の草むらを交互に見る。
少し前を歩くセルファは、いつもと同じ速さだった。でも、時々道から目を外し、森の奥まで確かめている。
怖がっていないだけで、気にしていないわけではないらしい。
「ゼノを見つけたら、何を調べるの?」
「何をしているか。町へ向かう様子があるか。近づかずに分かる範囲でいい」
「分からなかったら?」
「無理に確かめるな。居場所だけでも、持ち帰る意味はある」
そこまで聞いて、少し肩の力が抜けた。
何か分かるまで、ずっとついて回るわけじゃない。
私は杖を持ち直し、セルファの隣へ並んだ。
「そもそもさ、黒冠って何がしたいの? ギルドでは、めっちゃ危ないってことしか分からなかったんだけど」
「全員が同じことをしているわけじゃない」
「じゃあ、ゼノは?」
「今、この辺りへ何をしに来たかは分からん」
それを調べに行くんだった。
「昔から、ただ暴れてたの?」
「……夜、『夜』に関わる連中だ」
「夜?」
思わず空を見る。
雲の端まで明るい。昼間から夜の話をされても、いまいち想像しにくかった。
「暗くなったら来る、あの夜?」
「違う。空を覆い、光を奪うものだ」
セルファは、足元へ目を落とした。
「覆われた土地は、やがて沈む」
「……沈む?」
「道も、家も、そこにいる人間も。地面ごと、暗闇の中へ消えていく」
「逃げれば……」
「逃げる先にも、夜は広がる」
足元を見る。
土を踏んでいる感触はある。それなのに、さっきまで気にしていなかった地面を、もう一度踏み確かめてしまった。
「……それ、どこまで?」
「止めなければ、世界がなくなるまでだ」
すぐには、言葉が出なかった。
セルファが歩き出す。
置いていかれないように続いたけれど、今度は空より、足元が気になった。道の脇には小さな花が咲き、その向こうには畑がある。少し前にすれ違った荷車も、まだ遠くに見えていた。
ここも、なくなるんだろうか。
「……でも、今は止まってるんだよね?」
尋ねると、セルファが頷いた。
「ああ。かつて、夜に覆われた土地はある。だが、今は退けられている」
「誰が止めたの?」
「英雄が払ったとも、神が封じたとも伝わっている」
「……どっちが本当?」
「土地によって話が違う。昔話では、同じ出来事でも語られ方が変わる」
私は、もう一度空を見た。
「じゃあ、黒冠は?」
「『夜』に関わる連中だ。だが、ゼノが今ここで何をしているかは、まだ分からん」
セルファは紙に書かれた場所と、森の入口を見比べた。
「それを確かめるぞ」
神様には、気ままに冒険すればいいと言われた。
魔法を覚えて、知らない町へ行って、いつか海を見る。その町も海も、暗闇に沈んでしまうかもしれないなんて聞いていない。
「……知らないこと、多すぎるんだけど」
呟くと、セルファが紙を畳んだ。
「ここから入る。声は落とせ」
「……うん」
街道を外れ、木々の間へ足を踏み入れる。
さっきまで頬に当たっていた日差しが、葉の陰へ入った途端に弱くなった。
◇
森の中は、柔らかい土と落ち葉に覆われていた。
セルファのあとを歩き、伸びた枝を避ける。振り返ると、街道を通る荷車が木々の隙間から少しだけ見えた。
その姿も、すぐに見えなくなる。
「待て」
セルファが止まった。
視線を追うと、草の色がそこだけ違っていた。黒く縮れ、土の上へ倒れている。近づくにつれて、焦げた匂いがした。
焼けた範囲は、私が両腕を広げても届かないくらいある。中心では地面まで抉れ、周りの落ち葉にも灰がかぶっていた。
「……魔法?」
「だろうな」
セルファがしゃがみ、焼けた土へ指を触れる。
私も隣へ腰を落としかけたけれど、彼は地面を見たまま言った。
「周りを見ていろ」
「あ、うん」
慌てて顔を上げる。
調べている人の横で、同じものを覗き込んでいても仕方ない。
木々の間を見回す。揺れているのは葉と細い枝ばかりで、人の姿はなかった。
「新しい」
「ゼノがやった?」
「可能性はある」
セルファが立ち上がり、焼けた場所の先へ目を向けた。
折れた枝が低い位置で垂れ、草が踏み倒されている。土にも、靴でつけたような跡が残っていた。
「これ、追うの?」
「ああ。足元に気をつけろ」
声が、さっきより小さくなった。
私も頷き、杖を身体へ寄せる。見つける前から、枝へ引っかけて音を立てたくない。
セルファは歩く速さを落とした。
私もそのあとに続き、乾いた枝を避けながら足を置いていく。
目の前の背中ばかり見ないよう、時々左右へ顔を向けた。
木々が重なるにつれて、地面に落ちる光が少なくなる。
聞こえるのは葉の擦れる音と、私たちの足音だった。口を閉じていても、自分の呼吸が大きく感じられる。
前で、セルファが片手を上げた。
私はその場で止まった。
彼が太い木の陰へ寄り、奥を見る。
私もすぐ後ろへ移動し、幹から顔を出しすぎないように覗いた。
少し焼けて開けた場所に、一人、立っていた。
頭と胴体があり、二本の脚で地面に立っている。遠目なら、人だと思ったかもしれない。
けれど、肩の先には何もなかった。
腕は、身体から離れたところに浮いていた。
その間を炎のような魔力が繋いでいる。片方の腕が地面へ近づいても、身体は屈まなかった。肩との距離が伸び、指だけが草の上へ届く。
息を吸いかけて、止まった。
服をどう着るのかなんて、今は考えられない。
目の前で動いているのに、知っている身体の動きと合わなかった。腕があそこへ行ったなら、肩も動くはずなのに。頭の中でそう思うたび、別々の場所へ動いていく。
右腕の、手首より少し上。
そこに、黒い冠があった。
私はセルファの袖へ、そっと触れた。
彼が一度だけこちらを見て、頷く。
ゼノだ。
声に出して聞く必要はなかった。
幹の後ろへ身体を寄せ、杖の先を下げる。さっきまであんなに話していたのに、今は口を開くことさえ怖かった。
ゼノは少し歩いては止まり、地面を見ていた。
岩の周りを確かめ、浮いた手で草を払う。何もなかったらしく、次の岩へ移動する。
そこでも同じように、陰になった部分へ手を伸ばした。
何かを探している。
セルファも、その手の動きを追っていた。
私は空いた手で岩を小さく指し、彼の顔を見る。頷きが返ってきた。
居場所は分かった。
何かを探していることも、分かった。
でも、それが何なのかまでは見えない。さっき聞いた『夜』と関係があるのか、この森に別の用があるのか。
ゼノが、岩の裏側へ回った。
もっと見ようとして顔を動かしかけると、セルファの手が私の腕に触れた。
ゆっくり、後ろへ引かれる。
離れるんだ。
私は頷き、先に足元を確かめた。後ろには乾いた枝が一本ある。それを踏まないよう、少し横へ足をずらす。
その時、地面へ伸びていたゼノの手が止まった。
浮いた腕が、少しずつ身体の横へ戻る。
顔が上がった。
私は足を下ろせないまま、その場で固まった。
こちらを向いている。
幹に隠れているはずなのに、目が合った気がした。
隣で、セルファの指が刀の柄にかかった。




