第十五話 『リサ・ローズブレイドⅡ』
リサが動いたのは、自分の誕生日の前夜だった。
リサはトロイメライの寝室に足を運び、気を失ったように眠るトロイメライの下へと歩く。
さすがエルフと言うべきか、トロイメライは「どうしたの」と目を閉じたままリサに尋ねた。
その声色は相手がリサであることを理解している声色だ。リサはランプをテーブルに置いて、横になっているトロイメライの上に跨る。
「ぐえ」
そうしてようやく、トロイメライは目を開けてリサを見上げた。
「本当にどうしたの」
さすがのトロイメライもリサの異変を感じ取る。リサは唇を噛み締めて、トロイメライの肩に手を置いた。
「本当に、私の呪いは解けないんですか」
震えた声で告げられた言葉はリサの本音だ。トロイメライはリサの言葉の意味がわからないのか、また子供を安心させるようにこう告げる。
「解けるよ」
トロイメライはリサが言いたいことの一欠片も理解していなかった。
同じ人外でもキタリスや狐、小鳥や兎たちの方がリサの感情を理解している。それでもリサは生まれた時から自分の世話をしてくれたトロイメライを嫌いになれなかった。
「眠りたくないんです」
だから今も起きている。トロイメライはリサの目の下のクマに気付き、何故今まで気付かなかったのだろうと息を止めた。
「五百年なんて……どうして……」
ぼろぼろとリサの瞳から溢れてくる涙はトロイメライの頬に落ちる。
物心ついた時から十七歳の誕生日の日に五百年眠ると聞かされていたリサは、子供の頃に一年の長さに絶望した。従者の一人が年老いて亡くなった時、従者の年齢を聞いて息を止めた。
その時その時の感情が一気に溢れてくる。
肩を抑えられているトロイメライは自分のそれもリサのそれも拭うことができない。ただ、例えリサに拘束されていなくてもリサの言葉に衝撃を受けたまま動くことができなかっただろう。
「ごめんね」
こういう時は謝らなければならない。十六年前に教わったことを実行すると、トロイメライの肩を掴むリサの力が強くなった。
リサはずっと涙を流している。何も言わないということはトロイメライはリサからも許されていないということだ。誰かを憎んだことがないリサが唯一憎んだ相手がいかなる時も傍にいた自分になるならば、トロイメライはさすがに落ち込む。
リサだってどんな時でも自分の味方でいてくれたトロイメライを憎みたくなかった。
リサがそんな運命を背負った理由がトロイメライだと聞かされた十歳の夏までは。
「呪いを解いてください」
リサの声は掠れている。鳥のように透き通った綺麗な地声だったが、今の地声は美しくない。泣き過ぎてくしゃくしゃに歪められた顔も美しくない。
どんな時でも、どんな瞬間でも、大陸の財宝のように美しかったあのリサなのに。リサの強い負の感情がリサに掛けられた祝福を跳ね除けようとしている。
「解いて、ください」
丁寧な言葉だけがリサに掛けられた祝福の強さを物語っていた。
「解いた結果だよ」
トロイメライも言葉を絞り出す。
リサはトロイメライの首に触れようとしたが、どうしても、手が肩よりも先に進まなかった。
「……っ」
美しい心を持つ人間はこの世に存在するありとあらゆる命を奪わない。
リサの両手は鎖で繋がれたかのようにトロイメライの肩に固定されている。それに抵抗しようとすればする程に心が乱れる。だから涙が止まらないのだ。
美しい心を持つ人間は汚い言葉を吐かない。
言いたいことはたくさんあるのに、罵声以外の言葉しか吐き出せない。
「…………呪いを、戻して」
直接的な言葉でさえ言えなかった。だが、本来の呪いの内容を知っているトロイメライはリサが言いたいことのすべてを理解した。
「駄目だよ」
トロイメライはリサの予想通りの反応をする。リサはそんなトロイメライに落胆した。
「貴方は……」
期待しても無駄だと諦めるからトロイメライの肩から手を離して体を起こす。
「……私の願いを一つも叶えない」
体中の力が抜けた。泣く体力さえリサには残っていなかった。
「一つも、って」
トロイメライは眉間に皺を寄せる。様子がおかしいリサを前にしても、違うことは違うときちんと訂正したいと思うのがトロイメライだ。
「毎朝起こしたりご飯を食べさせたり……」
「頼んでないわ」
起きることができなくても良かった。
食べることができなくても良かった。
そうすれば人間が死ぬことを知っている。リサの中では筋が通っていたが、トロイメライはリサの真意に気付かなかった。
トロイメライはまだ人間の感情を正しく理解し切れていない。リサの言葉をそのまま受け取って、「確かに」と呟いている。
「でも、君のことを死なせたくなかった」
トロイメライは起き上がってリサを自分の体から退かせる。リサはトロイメライの濁りのない空色の瞳を見つめ返した。
何も気付いていないのに核心をついている。善意はないが悪意もない。ある意味そんなトロイメライだからリサは今日まで余計なストレスなく生きて来れたのかもしれない。
リサは再び両手を上げる。次は何をするのかとリサの動きを観察するトロイメライを抱き締めて──
「貴方も、死なないで」
──心からトロイメライの無事を祈った。
「五百年後に会いに行くよ」
「いいの、生きていてくれたらそれでいいの」
この世に存在するありとあらゆる命は寿命でなくても簡単に亡くなる。トロイメライが五百年後も生きている保証はどこにもないのだ。
「会いに行くよ」
トロイメライはリサを抱き締め返す。
生きたいと思う気持ちもなければ祝福のせいか本人の性格なのか欲を封じて我儘を一切言わないリサの本音がそれならば、トロイメライは全身全霊を掛けて叶える。
「必ず叶えるから」
トロイメライの言葉は涙が出る程に嬉しい言葉だったが、リサはトロイメライを信じない。
期待して裏切られた時が一番悲しい。経験していなくてもそれがわかるリサは自分の心を守る為にそうせざるを得ない。
「いい夢を見てね」
「今夜は眠りたくないわ」
赤子の頃のようにリサの背中をとんとんと叩いていたトロイメライは、体を起こしてリサの充血した桃色の瞳を見つめ返す。
「悪い子だね」
「いい子は飽きたの」
トロイメライは吹き出してからからと笑った。リサがそんなことを言うなんて。明日はエルフの森が燃えるかもしれない。
「じゃあ、悪いことしよう」
トロイメライはベッドの傍に置いていた杖を振って部屋に光の玉を溢れさせた。
トロイメライは朝になるまで、リサに自分の人生で起きた面白い出来事を語り続けた。
*
翌朝リサが王と王妃に案内された場所は、塔の中だった。
トロイメライはベッドに入ったリサとリサを囲む王と王妃を部屋の隅でそっと見守る。
「リサ、愛しているわ」
リサの両手を握り締めた王妃の涙は止まらない。その泣き顔は昨夜のリサによく似ていた。
「……っ」
リサもぼろぼろと涙を流す。昨夜あんなに泣いたのに涙は枯れない。
他国に嫁いで二度と両親に会えない女の話はよく聞くが、だからといって平気な訳がない。
「お母様、ありがとう、ありがとう……!」
リサの世話をしていたのはトロイメライだが、王妃が何もしていなかった訳ではない。リサを教育したのは王妃だ。
これまで厳しくリサに接していた王妃だが、王妃の愛をリサはしっかりと受け取っている。愛故の厳しさだと理解しているから、リサは王妃も嫌いになれなかった。
「私、お母様の教えは絶対に忘れません」
「えぇ、覚えていて、忘れないで」
王妃は必死に言葉を繰り返す。王に肩を触れられた王妃は我に返り、リサの手を離した。
「リサ。私たちは五百年後にはこの世にいない」
リサは鼻を啜る。わかっている、だからこんなに悲しいのだと言いたくて──
「でも必ず傍にいる」
──王の言葉に頷いた。頷いたが期待はしていなかった。
「お父様もありがとう」
リサは完璧な笑顔を見せる。
体が温まっているのはそろそろ眠くなってきた証拠だろうか。トロイメライは充血も目の下のクマも肌荒れも消えたリサに驚く。
呪いも祝福も力は強まっている。
トロイメライはそのことに気付いたが、リサは気付かないまま瞳を閉じた。
悲しいのに揺り籃に揺られているかのような安心感を抱いているのは何故だろう。
リサ・ローズブレイドは、こうして五百年の眠りについた。
「あぁ、アーサー」
王妃は王の胸の中に顔を埋める。
「ベリル、大丈夫だ」
王は王妃を抱き締めた。
「二人とも、外に出るよ」
これで終わりではない。トロイメライは二人に声を掛けて茨に囲まれる前の城の外へ窓から出す。
王と王妃は、城が茨に閉ざされる様をトロイメライの腕の中で見守っていた。




