第二十三話 『旅の準備』
「お。おったしょうゆ」
城の厩舎にいたしょうゆに声を掛けると、しょうゆは黒兎から視線を逸らす。
「は?」
しょうゆが逸らした視線の先に行くと、今度は違う方向を見た。
「拗ねとんのか」
「そうみたいだな」
一日会わなかっただけで無視される程、自分はしょうゆに懐かれていただろうか。数秒だけ考え込み、「飯不味かったんか?」と落ちていた飼葉をしょうゆの口元に差し出した。
「バルルルルッ!」
合っていたらしい。突然全身を使って暴れ出したしょうゆを黙って眺める。
しょうゆは滅多に疲れない持久力がある馬だ。だからできることなのだが、気が済むまで暴れさせてストレスを発散させた方が後々楽だと黒兎は経験上思っている。
「な、何してるの? この肉」
馬車のところに向かった虎獅狼ではなく黒兎について来たカレンは、呆然としょうゆを見上げていた。
陸に住む人間や亜人以外の哺乳類はすべて肉だと思っているらしい。朝御飯として肉料理を食べた黒兎と虎獅狼をカレンはドン引きしながら眺めていたが、「魚じゃないなら我慢する」と一人でほぼ水のスープを飲んでいた。
「バルッ!」
「それはあかんしょうゆ!」
足でカレンを蹴り飛ばすのかと思ったが、しょうゆは良い意味でも悪い意味でも賢い馬だ。最初からカレンが男よりもか弱い女だと理解しており、間に割って入った黒兎の目の前で足踏みを披露する。次言ったら蹴ると言っているようだった。
「肉ちゃう。馬や」
馬肉は好きだがしょうゆを食べるつもりはない。しょうゆが黒兎に懐いているのかはわからないが、黒兎はしょうゆに愛着がある。
背後にいるカレンにしょうゆについて詳しく説明しようと振り返ると、カレンの上半身にタコが巻き付いていた。
「タコ! タコや!」
手を伸ばすとまた顔面に墨を吐かれる。反射神経は悪くないはずだが、どうしてもタコには敵わない。
「コノエ……なんで嬉しそうにクラーケンに手を伸ばすの?」
目元を拭うと、カレンが引き攣った表情でタコを頭上まで抱き上げていた。
黒兎はそっと手を下ろす。魚食を嫌悪しているカレンだ。黒兎がメルヒェン大陸の人間全員が食料として見ていないタコを好物としていることを知れば、嫌な思いをするだろう。
「か……かっこええなぁと思って……」
視線を逸らすとしょうゆが視界に入る。しょうゆの目は冷めており、黒兎の本心を見抜いているようだった。
「本当に?」
カレンもジト目で尋ねてくる。嘘を吐くのは心苦しいが、本当のことは言えない。
カレンの表情はわかりやすく、思ったことはすぐに言う。今後も疑われたらすぐにわかるだろう。
「デビルフィッシュやもん。な! デビルフィッシュ、うん」
次第にジト目をやめたカレンは、「だってさ」とタコ──クラーケンに声を掛けた。
「ちゅーかなんでここにタコおんねん」
「心配なんだって。大丈夫って言っても聞かないんだよぉ」
カレンはクラーケンの胴体を掴んで引っ張る。魚食は嫌悪するが、雑に扱うのは問題ないらしい。
「わかったわかったわかったからぁ」
腕をぶんぶんと振り回したクラーケンに対してカレンは折れた。
「……タコと話せるん?」
「え? 話せないの?」
本気で言っているのだろう。きょとんとした表情に少し苛立つ。
「しょうゆと話せるんか」
親指でしょうゆを指すと甘噛みされた。
「話せないけどぉ」
カレンは唇を尖らせて頭部にクラーケンを乗せる。八本の腕はカレンの髪と同化しており、黒兎は思わず吹き出した。
「なんで笑うの?!」
カレンは気付いていないらしい。クラーケンは八本の腕で黒兎に対してファイティングポーズをとる。
耐え切れなくて笑っていると、クラーケンに殴られて顔面がめり込んだ。
「コノエ坊、クドウ坊が待っているぞ」
ハインツに声を掛けられて黒兎はようやくしょうゆの縄を引く。
しょうゆはクラーケンから片時も目を離さず、クラーケンは黒兎から片時も目を離さなかった。
「食い物ちゃうで」
縄を引いてしょうゆに教える。間違えてしょうゆがクラーケンを食べたら目も当てられない。
虎獅狼は心配ないが、カレンと共にいる限り黒兎が魚を食べることはないだろう。花と海の国であるマーヴァル王国でしか食べられない物なのかもしれないが、黒兎は徐々に食べられる物が減っていることに気付いて落ち込んだ。
「なんか増えてない?」
馬車の中に頭を突っ込んでいた虎獅狼は、そこから顔を出してカレンの頭部にいるクラーケンを見下ろす。虎獅狼はクラーケンのことは知らなかったらしい。まじまじと見つめてそっと指を近付けると、一瞬で叩き落された。
「子守りやって」
「成程ね」
「なんで納得したの?!」
カレンはクラーケンを頭に乗せたままショックを受ける。ハインツにとっては誰もが幼子だが、虎獅狼にとって黒兎とカレンは若者だ。クラーケンの気持ちは理解できた。
虎獅狼はしょうゆにハーネスを付け、黒兎はクラーケンを乗せたままのカレンを抱き上げて馬車に乗せる。
「お、おぉ」
カレンは足を床につけて、恐る恐る腰を下ろした。
この馬車には座席がない。最初はウーリの嫌がらせなのかと思ったが、座席がない分多くの荷物を乗せることができる。冒険者にとっては良い馬車なのだろう。
だが、足を得たばかりのカレンにとって座席がない馬車は居心地の悪いものだった。足を抱えているが、揺れる馬車の中では続かない。ずっと正座していた黒兎はそれに気付かなかった。
「なんか買うかぁ。カレン、他に欲しいもんある?」
「ほ、ほしいもの?」
最終的に中腰になったカレンは、黒兎の言うことがよくわからないようだった。
黒兎もカレンのことがわからない。カレンは今まで人魚として生きてきたのだ。その生活を想像しないとカレンとの会話は上手くいかない。
「街に行ったら聞くわ」
実物を見た方が早いだろう。城以外の場所に行ったことがないカレンはいつかのハインツのようにはしゃぐかと思ったが、中腰をやめて横になった彼女が外を見ることはなかった。
街に辿り着いた虎獅狼は決められた場所に馬車を停める。ここは中心部ではないが、城に最も近い場所だ。ギルド周辺と同じくらい賑わっている。
「コノエ坊、荷物はこれで全部か?」
「強いて言うなら武器やけど、ハインツおるしいつでも取り出せるよな」
食料は調味料以外残っていない。少し多めに貰っていたが、その分はアブラハムの胃袋に消えている。
服は今着ている服と着替えだけだ。その着替えは黒兎も虎獅狼も城に滞在している時の寝巻きとして使っている。洗濯したとしても黒兎と虎獅狼の魔法があればすぐに乾くだろう。必要なのはカレンの服だ。
「そういやその服どないしたん。メイド服は?」
カレンを抱き上げて馬車から降ろす。クラーケンはその間にカレンのスカートの中に戻り、人々の視線から逃れていた。
「メイドは解雇だって。だからヒルデがこの服をくれたの」
「あぁ」
黒兎はカレンと初めて会った瞬間を思い出す。エスタに支えられていたカレンは水に濡れており、布で全身を──。
「……カレン。エスタに助けてもろた時、何着てたん」
「え? 何も」
「エスタァ!」
いや。エスタも初めてカレンを砂浜で見た時驚いただろう。エスタはヒルデを撃ったがカレンの件には関わっていない。焦る黒兎と違ってカレンはまったく恥じらっていなかった。
思えばトロールにも恥じらいがなかった。それが亜人の感覚らしいが、これから人間として生きていくならば人間の感覚を理解しないと苦労するだろう。
狂人と虎獅狼と非常識のカレンに脱力する。黒兎もこの世界の常識を知らない。改めてカラマとアブラハムの有り難さを思い知る。
「コノエ坊、クドウ坊、荷物はあまりないみたいだが馬車が盗られるのは困る。どちらか見張りとして残った方がいいだろう」
見ると、同じく虎獅狼も御者台から降りていた。虎獅狼は「え」と嫌そうに顔を歪める。
「お前が残れ」
「えぇなんで」
「財布持ってんのは俺や」
虎獅狼ならば余計な物を買うだろう。大広間で紫色の宝石を欲しがった虎獅狼だ。お使いに行かせたことはないがその辺りはまったく信用していない。
すると、虎獅狼はあからさまに不貞腐れた。
「安心しろ。私もついて行く」
そういう意味で不貞腐れた訳ではないだろうが、自分よりも年上のハインツにそう言われた虎獅狼は渋々と見張りを了承した。
「しょうゆ、頼んだで」
虎獅狼よりもしょうゆの方が賢いかもしれない。しょうゆは黒兎に返事をし、黒兎はカレンにハインツを渡して街に出た。
食料と服以外だと調理器具や食器も荷物に含まれているが、食器は四人分貰っている。食器は買わなくても大丈夫そうだ。
「とりあえず杖の店行くか」
「ならばここがお勧めだ」
ハインツは街の地図を映して赤丸で囲む。その店は歩いて行ける距離だった。
黒兎は店の場所を覚えて歩き出す。カレンはそんな黒兎について行くが、人混みに慣れていないのか数秒で行き交う人々にぶつかった。
「カレン、手ぇ繋ぐか」
「手……? わかった」
カレンは差し出された黒兎の手を素直に取った。歩行を助ける杖を知らないカレンは黒兎の腕を杖にして歩くことも難しい。それでも懸命に歩いている。
そんなカレンに合わせて黒兎は歩いた。
「街は平和やなぁ」
人々の明るい笑顔を見て思う。たまにボーディルに呪われた人々ともすれ違うが、彼らも楽しそうに笑っている。
黒兎が何回か狙撃したが、誰も城で起きたことを知らないようだ。騎士たちが話すとは思えない。誰もボーディルの襲撃とエスタの反逆を知らない。
エスタがどうなったのかは知らないが、街中で聞くことではないだろう。だから黒兎は敢えて聞かなかった。
「そうだコノエ坊、リタ嬢が心配していたぞ」
「えっ?!」
心臓が握り潰される。黒兎はリタの騎士だ。思えば黒兎がマーヴァル王国でしたことはリタの迷惑になることだったのかもしれない。
「魔力切れで寝込んでいただろう?」
「言うなドアホ!」
リタとは棘に刺されても平気だと言い合った仲だ。弱い自分は知られたくなかった。
「不味かったか」
「最悪や……」
「リタって誰?」
頭を抑える黒兎を見上げ、カレンが眉間に皺を寄せながら尋ねる。
黒兎はまだ認めていないが、カレンが仲間になるならば話した方がいいだろう。
「リタは……」
「初めまして、カレン様」
黒兎の声を遮ったのは、ここにいるはずのない人物の声だった。だが、黒兎はそうすることができる存在を知っている。
恐る恐るカレンが持つハインツを見下ろすと、リタが逆さまで映っていた。




