第十八話 『カレン・クラウセンⅡ』
ボーディルは数秒間だけ黙った後、こう尋ねた。
「クラウスから聞いたの?」
抑揚のない話し方だ。デュアル王国の王女であるカレンに対して壁を作っているように感じるが、話をしてくれない訳ではない。
「き、聞くって何を……?」
話をしたかったが、カレンはボーディルの言葉の意味がわからなくて聞き返した。
その声色は何も知らない者の声色だ。ボーディルは少しだけ体を弛緩する。
「何故人間になりたいの?」
無理だとは言わなかった。だからカレンは縋る思いでこう言った。
「好きだから!」
だから居ても立っても居られない。今すぐに会いたい人がいる。
一度触れてしまったらもう元には戻れなかった。
ボーディルはカレンに視線を向ける。相変わらずの無表情だが、視界に入れる程度にはカレンの願いに関心があるようだ。
「お願いします! なんでもします!」
カレンは頭を下げることしかできない。願いを言い続けたら叶えてくれるなんて思っている訳ではないが、頼れる相手はボーディルしかいなかった。
「しなくていいわ」
海の魔女と呼ばれる程魔法を極めたボーディルにできないことはない。カレンに何かをさせるならば、自分でやった方が早い。
おずおずとボーディルを見上げたカレンは、問うような目をした。ボーディルはそんなカレンから視線を外して再び杖を振った。
「見なさい」
ボーディルが作った棚から浮いたのは複数の瓶だ。ボーディルはそれをカレンの前まで飛ばし、瓶の中の黒い靄を見せる。
「これは……なんですか」
世間知らずのカレンでも良くない物であることは一目でわかった。
「人間から貰った物よ」
蓋を取って黒い靄を外に出す。ボーディルが再び杖を振るうと杖の先から泡が出てきて、黒い靄を丸ごと包んだ。
「……ぁ」
思わず声が漏れる。黒い靄は泡の中に溶けて、泡は人間──中年の女を映し出した。
女は小舟に乗ってカレンが泳いだ海を進んでいる。その先でボーディルに出逢い、何かを頼む。
ボーディルは杖を振って黒い光線を女に浴びせた。女の項には不思議な形の痣ができたが、女が痛そうに抑えたのは項ではなく右目だった。
「この女は魚が捕れなくて困っていたらしいわ」
苦しむ女を見続けることができなくて視線を逸らしたカレンに言う。
「……え?」
ボーディルの言葉はすべて難しくないはずなのに、意味は何一つとして飲み込むことができなかった。
自分が世間知らずで馬鹿だからではない。ボーディルの常識とカレンの常識が海と陸のように違うのだ。
同じ言葉を使っているのに理解できない。そんな人魚に出会ったのは初めてだった。
「だから人魚の匂いをあげた。代わりに貰ったのが人間の右目よ」
映像が消えると黒い靄が発生する。よく見ると中に目玉があり、じっとカレンを見つめていた。
「いやぁっ!?」
咄嗟に後退って海に落ちた。不自然に生えている海藻がカレンの鰭に絡まって陸に戻るのを妨害する。絡まったのが人間だったら確実に死ぬだろう。
カレンは顔を歪め、無理矢理千切って再び海上に顔を出した。ボーディルはカレンを見ていない。大事そうに棚から取り出した瓶を指の腹で撫でている。
「どうして!」
様々な感情が溢れ出して吐きそうになった。
魚は友達だ。食べ物ではない。
人間が魚を食べることは知識として知っていたがその片鱗を目の当たりにすると恐怖で震える。魚と同族同然の人魚が人間に魚を売ることも信じられなかった。
ボーディルは何も答えない。それは、またいつもの黙りだった。
ボーディルが棚から取り出した瓶は他にもあるが、それらを開けようとはしない。だが、開けなくても中身は察しがつく。
カレンは今になってボーディルがマーヴァル王国の付近に住むことを決めた理由に気が付いた。ボーディルは人間から体の一部を貰う為に、人間の近くに住んで人間の願いを叶えることにしたのだ。例え人間が納得してボーディルに差し出したものであっても、カレンはボーディルを悪趣味だと思った。
魚は太古から人魚の友達だが、人間と友達になれないとは思っていない。
ヴィガに触れた時に初めて実感したが、人魚は半分魚で半分人間なのだ。
いくら人間を嫌っていても、ボーディルの行いに嫌悪感を抱かない人魚はいないだろう。
優しい人魚だと思っていたのに。
あの時よりも前から人魚や魚たちに疎まれていた理由にもようやく気付く。
「どうしてそんなことをするのよぉ!」
叫んだ瞬間に涙が溢れた。拭っても拭っても止まらない。カレンは人魚も魚もクラーケンも大好きだ。人間だって大好きになりたい。ボーディルの行いはカレンの心を裂く。
ボーディルはカレンの涙を見てカレンが洞窟に来た時と同じように体を強張らせた。
カレンの涙には弱い。クラウスによく似た瞳のせいでもある。良くも悪くも親に似た子供だった。
「人間になる為よ」
ボーディルも自分の行いが嫌悪感を抱かれるものであることを理解している。それでもどうしても叶えたい願いがある。
同じ願いを持つ者に否定されることも、カレンに否定されることも、受け入れたくない罰だった。
「────」
だが、ボーディルの予想に反してカレンの涙が自然と止まる。
「どうして」
カレンは考える前に言葉を零した。ボーディルが同じ願いを持っているなんて知らない。ボーディルがその為に生きているなんて知らない。
「会いたいの」
返ってきた言葉は難しくなかった。
ボーディルの常識とカレンの常識は海と陸のように違う訳ではない。ボーディルは自分の力で人間に会おうとしたカレンだ。二人は同じ海だったのだ。
「……私も、会いたいっ」
また涙が溢れる。拭っても拭っても止まらない。
どうして海の者と陸の者が交わることは許されていないのだろう。
手を伸ばしても届かない。届きそうなのに届かない現実が苦しくて苦しくて堪らない。
ボーディルは泣きじゃくったカレンに近付いた。
「誰に会いたいの?」
そっとカレンの肩に触れる。壁を作っているのか作っていないのかよくわからない女だ。
カレンは顔を上げてボーディルの瞳を見つめ返す。カレンには母がいないが、ボーディルはカレンの母でもおかしくない年齢だ。母がいたら相談に乗ってくれたのだろうかと不意に思う。
「ヴィガに」
嗚咽交じりに答えた。
同族ならば良かったのに──そうではないから身が裂かれる。
「貴方は、誰に会いたいんですか」
知らないままではいられなかった。
ボーディルは一瞬だけ唇を噛み、その隙間から息を漏らすように答える。
「フローラに」
ボーディルが会いたいと思っている人間に抱いている感情は恋ではない。
「女の人なの?」
同性だからそう思ったのではなく、ボーディルの表情が恋とは程遠い表情だった。
「友であり師よ。彼女が私に魔法を教えてくれたの」
その答えで謎が解ける。
人魚は水属性の魔法をすべて使いこなすことができるが、ボーディルのように人間と同じ魔法を使いこなせる者はいない。人間に教えを乞わなければ無理なのだ。
会いたい理由は恋だけではない。
大切に想う相手ならば理由がなくても会いたくなる。
「さっきはごめんなさい」
今でもボーディルの行いは褒められたものではないと思っているが、事情を聞かずに怒るべきではなかった。
「いいのよ」
カレンの反応に怒ってカレンを人間にしないと言うこともできたのに、ボーディルはカレンを許す。
ならば同じ願いを持つカレンだけでもボーディルを理解する努力をするべきだと思う。
「あの、ボーディルさん! お願いします! 私に魔法を教えてください!」
ボーディルはカレンが幼い頃からフローラに会う為に努力を続けてきた。ならばカレンもそうするべきだ。
カレンが魔法を覚えたらボーディルと違うやり方が見えるかもしれない。そんな一縷の望みに賭けた。
「努力とかすっごい嫌だけど頑張ります! 弟子にしてください!」
顔を近付けるとボーディルは戸惑いながら体を引く。
「お願いします!」
手を伸ばすとボーディルの腕を掴むことができた。
ヴィガともこんな風になりたい。カレンはどうしてもヴィガを諦めることができない。
まだ何も始まっていないから始めたかった。
「嫌」
ボーディルはカレンの輝く瞳を見ても拒む。泣いても輝いてもクラウスによく似た瞳だ。ショックを受けたその表情でさえクラウスによく似ていて、ボーディルは無意識にカレンの柔らかな右頬に触れた。
「貴方を人間にするわ」
フローラの右頬に触れた時に感じた熱はカレンにはない。
フローラに右頬を触れられた時に感じた熱は今でも強く覚えている。「冷たくて気持ちいいわ」と微笑んだフローラが懐かしかった。
「えっ、それじゃあボーディルさんは?!」
「勇気が出ないの」
ボーディルの瞳からも涙が溢れる。
「もう二十年以上も会っていないんだもの」
二十年以上前、フローラは聖女になったとこの洞窟でボーディルに告げた。
他国で苦しんでいる人々がいる。その人たちから救ってほしいと言われている。だからマーヴァル王国から離れることになった。その数年後にようやく会いに来たと思ったら、花の国に住まなければならなくなったと言って。たまに帰ってくるからと微笑んで。フローラは二度とボーディルの前に姿を現さなかった。
フローラは花のことばかり考えている変人だ。だからか魔獣と呼ばれる人魚のボーディルの怪我を躊躇いなく治した。花を見たことがなかったボーディルに色々と教え、こんなに花に興味を持ってくれた人は初めてと喜んだフローラに驚いた。
人間じゃなくて人魚だと告げるが、同じだとフローラは笑う。
──同じ言葉を使っているのに理解できないの?
首を傾げてそう言ったフローラがボーディルを忘れたとは思えない。
ボーディルと同等以上の力を持つフローラが花の国に監禁されているとは思えない。
花と友に抱く愛は別だと胸を張って言ったフローラを信じたい。
「確かめることが……怖いの」
心の片隅には二十年以上もフローラがいる。大切な人はフローラだけではないが、いつでも会える人魚と突然姿を消した人間とでは重みが違う。
「だから貴方が行って」
カレンもそうだからここにいる。
会えるかどうかわからないフローラよりも、会えるヴィガに会ってほしい。
それが、ボーディルがカレンにしてあげられる唯一の愛情表現だった。
挿入歌
『私が貴方を好きな理由』
歌唱:カレン・クラウセン/ボーディル
作詞作曲:告白




