第十七話 『カレン・クラウセンⅠ』
初めてヴィガを見た時からずっと、カレンはヴィガの顔が好きだった。
最初にヴィガを見掛けたのはいつだっただろう。
小舟に乗って沖に出て、立ったまま海を眺めるヴィガは子供の頃から美しかった。
漁業が盛んなマーヴァル王国の隣国であるデュアル王国では昔から海岸に行くことを禁じていたが、人間から魔獣と呼ばれる人魚と悪魔と呼ばれるタコだけは特別に行くことが許されている。
だが、海の者と陸の者が交わることは許されていなかった。
毎日のように沖に出て海を眺める幼いヴィガが無害であることに気付いた人魚たちは、我が子を連れてあれが人間だよとヴィガを指す。
珍しい物が好きな人魚たちはヴィガを見によく水面に近付いたが、すぐにただ海を眺めるだけのヴィガに飽きて誰も近付かなくなった。
カレンと共にヴィガを見に来ていたイサベラも、グンヒルドも、ドルテも、ペニーラも、アンネも、ヴィガに飽きて城に帰る。
生まれた時からどんな時でも六人一緒だったが、この時初めて、カレンだけがヴィガの傍に残る決意をした。
ヴィガが海の何に惹かれているのかはわからないが、自分がヴィガの顔に惹かれているのはわかる。
飽きもせずにまた沖に出たヴィガの顔を眺めに行こうとしたある日、デュアル王国が大きく揺れた。
「お前たちッ!」
子供が流されたらデュアル王国には半永久的に戻れない。
叫んで六人の娘を抱き締めたデュアル王国の国王クラウスは、歪に発生した流れに逆らわずに流されることを選んだ。
「お前たち、無事か?」
流れを上手く読んで脱出したクラウスは、六人それぞれの表情を見て確認する。
母は六人が産まれた時からいない。父一人子六人と従者たちで生きてきた。七人で流されたことは不幸中の幸いだ、そう言って安堵したクラウスの表情をカレンは一生忘れないだろう。
カレンは無言でクラウスを抱き締め返した。クラウスは甘えん坊のカレンの頭をそっと撫でた。
全員で手を繋いで国に戻ると、同じく国に戻ってきていた人魚や魚たちが誰かを囲んでいるのが見える。クラウスの姿を視界に入れた者から順に道を開けると、一人の人魚が異様に大人しいタコを抱えていた。
「ボーディル! 戻ってきたのか!」
幼いカレンでも、ボーディルがデュアル王国の外に出た唯一の人魚であることを知っている。
クラウスはボーディルから押し付けられたタコを見下ろし、「まさかクラーケンか?!」と驚いた。
「申し訳ございません……」
この場に集った全員がまさかと思ったが、タコがクラウスの腕の中でしおらしく謝る。
「何故こんなに小さく……ボーディル、君が魔法を使ったのか?」
ボーディルが何も言わない代わりにクラーケンが「そうです」と答えた。
クラーケンは巨体故に動くことを禁じられている海の悪魔だ。クラーケンの八本の足がデュアル王国の国境の役割を果たしているのも知っているが、小さくなったクラーケンを見ていると自分たちはクラーケンに酷いことをしたのだと思う。
「いや、いいんだ。こちらこそ長年無理を言ってすまなかった」
生きている以上動かずにはいられない。うっかり動いてデュアル王国を揺らしたクラーケンは、クラウスの腕の中で号泣した。
カレンは海に溶けていく涙の粒を綺麗だと思った。
「ボーディル、ありがとう」
クラウスがボーディルに近付いて礼を言う。幼いカレンはボーディルが他の人魚や魚たちに疎まれていることを感じ取ったが、デュアル王国とクラーケンを救ったのは間違いなくボーディルだった。
「ありがとう!」
礼を言うと、無表情だったボーディルが少しだけ目を見開く。そして何故か表情を歪めた。
ボーディルはクラウスの手を払ってマーヴァル王国へと泳いでいく。海はボーディルを流すように波を生み出したが、本当に流していたのは小舟だった。
「あっ!」
そこには、驚いて辺りを見回すヴィガがいる。
「ヴィガ王子!」
クラウスは驚いてクラーケンを抱えたまま水面に近付いた。この時初めて、カレンはヴィガの名前と立場を知った。
「ボーディル! ヴィガ王子を頼んだぞ!」
国王であるクラウスも流されたのだ。小舟が流されない訳がない。
ボーディルはマーヴァル王国の王子も救ったのだと思った。それなのに誰も彼女に感謝しない。人魚なのに人間のように魔法を使うボーディルを受け入れられる人魚は、何故かクラウスしかいなかった。
クラーケンがカレンたちの執事として生きることになってからも、ヴィガは沖に出ることをやめなかった。
当然毎日来る訳ではない。雨や風で海が荒れる時も何もない快晴の時も来ない時はまったく来ない。そんな時でもカレンはいつもヴィガがいる場所の下に寝そべっていた。
「カレン様! はしたないですよ!」
一番城外にいることが多いカレンの傍にはいつの間にかクラーケンがいる。
「えー、だめぇ?」
カレンはごろんと寝返りを打ち、甘えるようにクラーケンを見上げた。そう言えば甘やかしてくれる従者は大勢いる。
「駄目なものは駄目です! ほら、帰りますよ!」
だが、クラーケンだけはカレンを含めた六つ子の王女に厳しく接していた。それだけクラウスを敬愛しているのだ。王女たちを立派に育てるという使命感は誰よりも強い。カレンは渋々頷いた。
カレンはもう何年もヴィガを見ている。だから来ない時はいつまで待っても来ないと知っている。唇を尖らせたが、今日だけは大人しくクラーケンについて行った。
「あんた飽きないね」
部屋に戻るなり、咎めるでもなく呆れるでもなくペニーラが言う。
「なんで行くの? 見てるだけなんでしょ?」
話すことが何よりも大好きなドルテは見ているだけで充分と言うカレンが理解できない。
「一緒にいようよ! 何かあったら心配だし!」
六つ子なのに妙にカレンを妹扱いするのは五女のアンネだ。
こういう時、興味なさそうなグンヒルドと何も言わないイサベラが有難いと思う。
「どーせお姉ちゃんたちにはわかんないよーだ」
何もない時は構ってほしいが、ヴィガに関しては放っておいてほしかった。ヴィガを眺めるのはカレンの趣味だ。それ以外の生き甲斐はない。
陸の者に恋をしている訳ではない、見ているだけで充分なんだと言った時の不可解そうな表情はもう二度と見たくない。自分と同じ五つの顔がそんな表情をすることに耐えられなかった。
その気持ちに嘘はないと思っていた。
そうであってほしかった。
突然荒れた海にヴィガが落ちてきた瞬間、高鳴った胸がカレンを突き動かす。
人間は体がとても熱くて、腹が減れば魚を食べて、人魚やタコを化け物だと恐れる醜い生き物だ──だから近付いてはいけないよ。
老いた人魚がカレンたちにそう教えた時は言葉を返すことができなかったが、今ならば何故と言える。
貴方は何故それを知っているの? 人間に触れたことがあるの? 魚を食べる人間を見たことがあるの? 化け物と罵られたことがあるの?
──教えて。
願いを込めてヴィガへと手を伸ばす。ずっと見ていた愛しい顔がすぐそこにある。
幼さが消えたその顔を見ていると、止まることなく鼓動が高鳴った。
自ら落ちてきた訳ではないのに抵抗することなく海底に沈んでいくヴィガを抱える。右手でそっと頬に触れると、ヴィガは驚いたように目を開いた。
「……会いたかった」
ヴィガに触れて初めて自分の気持ちを理解する。
この人が好きだ。死なせたくない。
どんなに必死に泳いで近付いても心を通わせることができなかった。だからすぐには気付けなかった。
「……会いたかったよぉ」
カレンの声が聞こえないのか、ヴィガは不思議そうにカレンを見つめ返す。
カレンは一瞬だけ唇を噛んだ。
「だから教えて。ヴィガはずっと、この海で誰を探していたの──?」
ほとんど毎日見ていればヴィガの目的が海ではないことはすぐにわかる。
海の者であるカレンならばヴィガの尋ね人を探せるだろう。ようやくヴィガの役に立てる、だから教えてほしいと尋ねたカレンは突然苦しんだヴィガに驚いた。
「えっ、何?! どうしたの!」
ヴィガの口から泡が漏れる。こんなにも苦しんでいるのに体を丸めて耐えようとするヴィガが理解できなくて、「ねぇ!」と悲鳴に近い声を上げる。
「カレン様! 人間は海では呼吸できないんです!」
一瞬でカレンの下に駆け付けたクラーケンがそう言った。カレンはすぐにヴィガの頭を海上に出すが、上手く呼吸をしてくれない。
ヴィガが咳き込むのは海水を飲んだからだった。
人間ではないカレンでもすぐに理解する。人間は水中では生きられないと。なのにヴィガは水中に沈むことを受け入れているように見えた。
「どうして」
信じられなかった。カレンは今でも人魚から疎まれている海の魔女ボーディルの優しさを覚えている。
デュアル王国がクラーケンに潰されても。クラーケンがクラーケンのままでも。人魚や魚たちはきっと何不自由なく生きていた。どんなに不自由でもクラーケンだって変わらず生きていただろう。
あの日一番救われたのはヴィガだ。
老いた人魚のように人間を嫌う人魚や魚たちは少なくない。
それでも人魚であり魔女でもあるボーディルはヴィガを救った。人魚であり国王でもあるクラウスはヴィガに生きてほしいと願った。
「死んじゃだめだよぉ!」
カレンだってヴィガには生きていてほしい。だから必死にマーヴァル王国へと泳いでいく。
「カレン様! 危険です! 戻ってください! そちらは人間の国ですよ!」
「大丈夫!」
ヴィガの体は熱いはずなのに冷え切っていた。それでもまだ生きている。カレンは絶対にヴィガの命を諦めない。
ようやく辿り着いた砂浜に気を失ったヴィガを上げる。その表情でさえ綺麗だった。
もう一度だけヴィガの頬にそっと触れる。陸でも呼吸できるカレンは息を吸い込んで、ヴィガの唇に自らの唇を押し当てた。
ヴィガが生きるか死ぬかの状態なのに、鼓動はまた高鳴ってしまう。人間にとってもキスは愛情表現の一種だろうか。そうであってほしいと邪な気持ちを抱いた。
「カレン様! もう行きましょう! 人間の気配がします!」
カレンはその気配がわからないが、クラーケンはわかるのだろう。言われるままに海に帰る。それでも何度も振り向いてしまう。
「駄目ですって!」
「ちょっとだけ!」
頭を出すと、ちょうど城から飛び出してきた人間が砂浜に倒れたヴィガを保護していた。
「良かったぁ」
本心のはずだが胸が痛みを主張する。
カレンはもう、見ているだけでは満足できない。
デュアル王国に帰っても四六時中ヴィガのことを考えていた。あんなことがあった後だ。ヴィガはもう沖に出てこなかった。
本人に出る気があっても周りが止めるだろう。クラーケンがいるカレンだからよくわかる。
耐え切れなくなってマーヴァル王国まで向かったが、ヴィガの姿が見えることはなかった。
「やだ……さよならはやだ……」
物事を悪く考えると涙が溢れる。明るい未来に涙を流したクラーケンが羨ましい。どうしてもそう思ってしまう。
暗い気持ちを吹き飛ばしたくてヴィガを想い歌を歌うが、その想いはいつまで歌っても届かなかった。
どうにかしてヴィガの傍に行きたい。その為ならばなんでもする。
涙を拭ったカレンはこの近くにボーディルが住んでいることを思い出した。詳しい場所はわからないが、同じ人魚だ。予想は付く。
休む間もなく探し続けたカレンは遂に海藻に隠れていたボーディルの住処を見つけた。逸る気持ちを抑えて無理矢理中に入ると、ボーディルは海上に突き出た岩に腰掛けている。
恐る恐る海から顔を出すと、辺りを照らす光の粒が双眸を刺激した。眩しくて思わず目を細める。ボーディルの住処は洞窟の中にあったらしい。
地上の物が溢れるその場所で杖を振りながら鍋の中に何かを入れていたボーディルは、カレンを見もしないままこう尋ねる。
「何しに来たの」
ボーディルの声色は予想通り冷たかった。
初めて会った時と同じように歓迎されていない。それでも叶えたい願いがある。
「私を人間にしてください!」
頭を下げた。心臓が早鐘を打つ。ヴィガと共にいる時に感じた高鳴りと比べると、それはとても嫌なものだった。
挿入歌
『私が貴方を好きな理由』
歌唱:カレン・クラウセン
作詞作曲:告白




