第六話 『海の魔女』
御者台に乗っているのは虎獅狼だ。料理を任せられないなら御者を任せるしかない。虎獅狼も嫌がることなく任されているし、しょうゆも虎獅狼の言うことをしっかりと聞いている。虎獅狼の定位置は御者台で良いかもしれない。
馬車が通りやすい山の麓を過ぎると、トレステイン王国とマーヴァル王国の中間地点も過ぎる。高い壁のようなそれを抜けたからか、風が運ぶ空気が変わったような気がした。
「なんか変な匂いせえへん?」
「変? あぁ、海の匂いね」
海──海の魔女に使われている単語と同じ単語だ。
黒兎はそこまで考えて、途切れた木々の奥にある巨大な湖に目を奪われた。
「なんやあれ!」
思わず立ち上がる。黒兎が知る湖は向こう岸が見えていたが、目の前に広がるそれには向こう岸がない。
「海よ」
カラマは答え、黒兎を座らせた。
黒兎が海を知らなかったとは思わなかった。逆にハインツは知っていたのかと顔には出さずに驚く。
「海……あれがか!」
観察していると、何故か進路が海へと逸れた。見ると虎獅狼がわくわくとした表情で海を観察している。
「貴方御者もまともにできないの?!」
冒険者ならば逸れても問題ないだろうが自分たちは旅人だ。黄色いレンガ道では特に、道から逸れることは死を意味している。
「工藤! これでええ! 海行くで海!」
何も知らない黒兎は拳をぶんぶんと振って喜んだ。
手足のないハインツは狂人の虎獅狼を止められない。それができるのは同郷でもある黒兎だけだ。その黒兎が虎獅狼を止めないならば、この先二人の命が三つあったとしても絶対に足りない。
「馬鹿! 海にも魔獣がいるのよ!? 引き返しなさい!」
「む……海じゃと?」
昼御飯を食べた直後から昼寝をしていたアブラハムが目を覚ました。アブラハムはじっと海を眺め、ぎょっと目を見開く。
「何してるんじゃ!? わしの歌聞いておったか!?」
「歌ってへんやろ!」
ツッコみをして、ん? と思う。
「海の魔女ってまさか……」
興奮していて気付かなかった。
「気付くの遅いのよ!」
カラマに頭を殴られる。そうされても仕方がない。海から発生した霧は自然のものではなく、確実に黒兎たちを狙っていた。
「お前さんたち! わしの歌を思い出せ! 惑わされるな──」
アブラハムの声がそこで途絶える。すぐ傍にいたカラマも、ハインツも、霧に飲まれていなくなる。
黒兎は唾を飲み込んだ。あの時、ハインツはなんと歌っていたか。
「霧に包まれたら警戒しろ……仲間が消えても怯えるな……」
冒頭はこうだった気がする。今の状況とまったく同じだ。
「ハイ」
直後に女の声が聞こえた。当然カラマの声ではない。カラマの声だったとしてもこんな風に声を掛けることはないという確信がある。
「貴方の願いはなぁに」
霧の中から姿を現したのは綺麗な顔をした女だった。ヴァルトラウトも彫刻のように美しかったが、目の前に立つ女は美魔女という言葉がよく似合う。
アブラハムの歌詞を信じるならば、全身を黒いマントで覆った彼女が海の魔女だった。
「そんなんあらへん」
立ち上がって後退る。この空間には馬車さえない。だが、ここを乗り切ったら元の場所に戻れる。これはボーディルが見せる幻だ。
「願いがない人間なんていないわ」
ボーディルはゆっくりと黒兎に近付いた。歩いてきたのではなく浮いた状態で距離を詰めた彼女は幽霊か何かなのか。
「さぁ。貴方の願いはなぁに。私なら貴方の願いを叶える手伝いができる。だからほら、言ってみて?」
ボーディルが口角を上げると冷気を感じる。ドナトリア王国も、トレステイン王国も、そしてマーヴァル王国も北国だ。寒さを感じるのは今に始まったことではないのに凍えるように寒い。本当に幽霊なのかもしれない。抑揚のない声でそう尋ねるボーディルを「あらへん!」と今度は強く拒絶した。
「それはおかしいわ。私は願いがない人間の前に姿を現すことができないもの」
そう言ってどんな人間からも願いを吐き出させるのか。黒兎はボーディルを睨み付けた。
「願いならある」
「ならば、さぁ」
ボーディルはさらに距離を詰めるが、黒兎には触れない。黒兎もわざわざボーディルには触れない。
「せやけど、こないなやり方で人を呪うお前の思い通りにはなりたない!」
叫び、腰のホルスターに入れていた銃を抜く。迷うことなく引き金を引いて出したのは銃弾と突風で、黒兎に纏わり付いていたボーディルの幻が霧と共に晴れる。
辺りを見回すと、全員が黒兎と同じようにそれぞれの無事を確認していた。
「なんや、無事やったんか」
「それはこちらの台詞じゃ。ひやひやしたぞい」
ボーディルの恐ろしさを知るアブラハムは全身の力を抜く。寿命を縮めさせてしまったかもしれない。報酬を全額受け取るのはやめておこうか。
「アブラのじーちゃん、ほんまおおきに。じーちゃんおらんかったら全滅やったな、これ」
銃をホルスターに戻し、傍に置いていた狙撃銃を手に取る。ローラから銃を貰っていて良かった。狙撃銃だったら近過ぎて使い物にならない。
「否定しないわ」
「俺は大丈夫だったけど?」
平気そうな顔でそう言う虎獅狼を「お前なぁ」と呆れる。今回は黒兎も悪かった。だから強く言えないが、虎獅狼だけが悪かったら確実に手を出していた。
「工藤はボーディルになんて言ったん?」
「だから、俺は大丈夫だったって。逆に何があったのか聞きたいんだけど」
虎獅狼としょうゆは不思議そうな表情をしている。黒兎は虎獅狼の言葉を理解しようと脳内で反芻し、虎獅狼が何を言ったのかを理解した。
「せや、お前陛下に呪われとるから呪われへんのか!」
輝夜がヴァルトラウトに呪われた黒兎を呪えなかったように、ボーディルは輝夜に呪われた虎獅狼を呪えない。
逆に黒兎はヴァルトラウトが亡くなった瞬間に呪いが解けた。だからアブラハムやカラマと同じようにボーディルに攫われたのだ。
「あぁ。俺呪われてるんだよね」
「せやで。何かあってボーディル倒すことになったらお前に任すわ」
虎獅狼は「了解」と返事をする。御者台にいるが、トロールやフェンリルの襲撃もあって刀は肌身離さず所持している。虎獅狼は警戒心を忘れていない。
「二人とも、こんなところに長居できないわ。早く離れるわよ」
「いや。少し待ってください」
「せやでねーちゃん。それはでけへん」
「は?」
黒兎と虎獅狼は目を合わせる。虎獅狼の瞳の中の黒兎も、黒兎の瞳の中の虎獅狼も、好奇心を隠し切れていない。
「海やー!」
「すぐ戻りますからー!」
「貴方たちもうぶつわよ?!」
太陽に照らされて輝く海を前にして無視できる人間がいるだろうか。いや、いない。黒兎と虎獅狼は初めて目にした海へと走る。
武器を置いて草原から砂浜に、靴を脱がないまま砂浜から海へと。
「冷たっ!」
「おぉ〜!」
二人で騒ぎながら奥へ奥へと進んでいく。奥に行く程深いことに気付いた二人は、深い風呂同然のそれに感動して肩まで浸かる。
「おもろい! 凄いなこれ!」
「ね。なんでベタベタするんだろう?」
虎獅狼は海水を掬って飲み、今まで以上に目を輝かせた。
「美味しい!」
「ほんま?! ……辛いやんけ!」
虎獅狼の味覚を信じた自分が馬鹿だった。ぺっぺっと吐き出して口を拭う。だが、なんとなく懐かしい味がした。
「タコ食べたなってきたな」
「タコ?」
黒兎の好物はたこ焼きの材料にもなるタコで、懐かしい味だと思ったのは月光国にいた頃に捌いた魚介類が泳いでいた水の味だ。ふざけて舐めて傍にいた宮殿職員の大野に怒られたのを何故か今でも覚えている。
「水の生き物やねん。知らんけど」
月光国には海も川もない。だから存在を知っていても見たことはなかった。
「あぁ……。そういえば俺、魚介類と甲殻類のアレルギーだったかも」
思い出したように虎獅狼が言った。
「ほんま? 俺牛乳アレルギーらしいで。知らんけど」
これも大野に耳に胼胝ができる程に聞かされていたことだ。アレルギーである実感はないが大野や石井の必死の形相を思い出せば飲む気もしない。
「あぁ、それも駄目な人多──」
虎獅狼の声が消えて振り返るが、虎獅狼はどこにもいなかった。
「くど──」
声を掛けた瞬間に体が沈む。水が目に入ってくる。というか息がまったくできない。
何が起こったのかわからず藻掻く。とにかく水上に顔を出さなければ死ぬ。
「あばばばば!」
虎獅狼と同時に水上に顔を出したが、足が地面につかなかった。このままではまた沈む。
「何溺れてるのよー!」
遠くの方からカラマの怒鳴り声が聞こえてきた。
「コノエ坊! クドウ坊! 待っていろ、今助ける──あばばばば!」
「なんで自分は泳げると思ったのよ!」
必死に顔を上げてハインツの無事を確かめる。カラマは浅瀬で溺れたハインツを持ち上げ、狼狽えるアブラハムに手渡し頭を抱えていた。
溺れる男二人を救助する為、どちらにも気絶してもらわなければならない。ただ、溺れているのは複数の棘に全身を貫かれても戦えた無敵の黒兎と黒兎と同郷の虎獅狼だ。簡単に気絶してくれるとは思えない。
「力を抜きなさい! そしたら浮くから!」
とりあえず指示するが、ハインツにタラを呼んでもらった方が生存率が上がるかもしれない。だが、迷っている間に二人が消えた。
「う、うそ……」
今度は上がってこない。黒兎と虎獅狼は大人しく海底へ沈んでいくが、生きることを諦めた訳ではない。試していたのは風属性の魔法だった。
掌に魔力を送るとぶくぶくと泡が発生する。呼吸問題は何とかなりそうだが、陸に戻る道はまったく見えなかった。
「──ッ?!」
風呂以外で水中に入ったことがない二人は海流を知らない。動いていないのに黒兎と虎獅狼は引き剥がされていく。
工藤、と叫びかけて息が漏れた。脳に酸素が回らなくなる。
思考が徐々に鈍っていく。
視界も徐々に霞んでいく。
そんな黒兎の腕を引く誰かがいた。カラマか。顔を上げると、カラマでもタラでもローラでもない青系の瞳が沈む黒兎を見つめていた。
「────?」
その瞳の持ち主である少女は眉間に皺を寄せ、黒兎を水上へと連れて行く。
虎獅狼も連れて行ってほしいと腕を引くが、少女は海底を指して首を振った。そこには別の少女に腕を引かれる虎獅狼がおり、安堵する。だが、少女はどちらも人間ではなかった。
「がはっげほっ! げほっ!」
砂浜に放り投げられたようだ。咳き込んで飲んでいたものを吐き、空気を吸う。良かった。生きている。慌ただしい足音も聞こえてきた。
「コノエ! クドウ!」
「無事か二人とも!」
「はぁ〜! 心臓が止まるかと思ったわい!」
駆け寄ってきたカラマとアブラハム、そしてハインツに片手を上げる。
「貴方たち呼吸できる?! タラを呼んだ方がいい?!」
「大丈夫です」
虎獅狼は起き上がって髪を掻き上げた。黒兎も起き上がり息を整える。
「もう一生入らん」
「最初から入らないでくれる?」
カラマはぶつ気力もないのか、黒兎と虎獅狼の首根っこを捕まえて引き摺る。置いていた武器を回収し、目的地であるマーヴァル王国の方角へと視線を向けて黄色い壁を見つけた。
「あれか」
スコープを覗くと肉眼よりもはっきりと見える。マーヴァル王国は崖の上に建っているようで、崖の下に向かって一艘の小舟が進んでいた。
「なんやあれ」
ぶつかる、そう思ったが小舟は崖の中に消えていった。
「何が見えたんじゃ?」
「乗り物があそこの崖の中に消えてん」
黒兎は船を知らない。乗り物がなんなのかも知りたかったが、崖の中に消えた理由の方が気になる。
アブラハムは険しい表情を見せた。
「あそこじゃ。海の魔女の住処は。その乗り物、誰か乗っておったじゃろ」
「男が一人乗っとった」
「……大馬鹿者じゃな」
アブラハムはぽつりと呟き、しょうゆが待つ馬車へと歩く。
黒兎も虎獅狼ももう懲りた。カラマに引き摺られる前にアブラハムを追い掛ける。
「ちょっと! 貴方たち服くらい乾かしなさい! 風属性と火属性なんでしょ?!」
カラマは慌てて乾かし始める二人を見ながら溜息を吐く。そして、あともう少しだと自分を鼓舞した。




