第十四話 『フローラ・ラトゥールⅡ』
フローラはコンスタンスを首に巻き付けて廊下を走る。
屋敷の構造を熟知しているのはサンドラではなくフローラだ。人気のない廊下を選んで、使用人の気配を感じ取ったら身を隠す。そして、サンドラに気付かれることも魔法が解けることもなく、目的地である畜舎へと辿り着いた。
「あったわ」
呟いて、フローラは毎日のように使っている古い鞭を手に取る。それを強く握り締めて牛や豚を一瞥すると、彼らもフローラの存在に気付いていることに気が付いた。
放牧の時間なのだと勘違いして外へ出ようとする牛や、夜中なのに何故フローラがここにいるのかと不思議そうにしている豚。フローラが屋敷を出るということは、彼らを置き去りにするということだ。
フローラという名前を名乗れず、ラトゥールという姓も名乗れない。
生まれた時から過ごしている屋敷を捨てて、父から受け継いだ唯一の財産である家畜も捨てて。一体何が自分に残るというのだろう。
「…………」
フローラはそっと柵へと手を伸ばした。……これを壊すことや屋敷の柵を壊すことに一体何の意味があるのだろう。フローラはすぐさま首を左右に振る。
彼らは食べる為に育ててきたのだ。彼らがどうなろうとフローラの知ったことではない。
唇を噛み締めたフローラは、彼らに背中を向けて走り出した。
一日だけ──あと一日だけあれば世界は引っくり返るだろうか。
フローラは屋敷の外に出てカロリーナを探す為に街へと飛び出す。
街は広く明かりは少ない。夜中でも明かりが点いている屋敷しか知らないフローラは、その闇に戸惑い生まれて初めて貧富の差を思い知る。
長い間公爵令嬢として過ごせなかったのに、自分は公爵令嬢としての生き方しか知らない。
そのことが胸に刺さってフローラは思わず視線を伏せた。
闇のようにフローラを誘い込むこの街で、どのように溶け込めばこれからも生きていけるのかわからない。
いや。姓名を奪われ、顔も奪われ、家を捨てて、財産も捨てて。食べる為とはいえずっと育ててきた動物を殺してきただけではなく、この国に生きる人々の身を蝕んできた自分にこれからも生きる資格なんてない。
罪は、どこかで償わなければならないのだ。
フローラは意を決して屋根に飛び移った。
カロリーナがいる可能性が最も高いのはシンデリカ王国の城のような気がするが、城に戻れば今度こそ捕まってしまうだろう。捕まるならばカロリーナに会ってからだ。
遠くに見える城を一瞥すると、フローラの耳に不自然な音が届く。
複数の男の荒々しい足音のようだが、その声はほとんど聞こえてこない。足音の割りには静かな男たちの下へと忍び寄ると、貧弱そうな男が二人、屈強な男に縋っていた。
「た、頼む、少しでいいから売ってくれ……!」
「駄目だ。その金で買えるモンはねぇ」
「そこをなんとか……! あっ、そ、そうだ! 後で払う! それでいいだろ? な? なぁ……!」
縋る男の声は震えており、足元は覚束ない。屈強な男は盛大に溜息を吐き、いとも容易く二人の男を振り払った。
「ぐぁ……!」
片方は尻もちをつき、片方は腹から倒れて動かなくなる。
「た、頼む……」
それでも、どちらも縋ることをやめなかった。
「…………」
フローラにはわかる。これが自分の罪だ。
その罪の重さを感じながら立ち上がると、二つの月明かりがフローラを照らす。その影が男たちの間に落ちる。
「ッ! 誰だ!」
殺意を感じたのはこれが初めてだったが、自分でも驚く程にフローラは冷静だった。
屈強な男は相手がボロ雑巾を身に纏った若い女だと知るとすぐさま侮る。貧弱そうな男たちを蹴飛ばしてフローラに屋根から下りてくるように指示し、フローラがその通りにすると指の関節を鳴らす。笑ってはいるが人を不快にさせる笑い方だ。それが嘲笑であると気付けないくらい閉じ込められた世界で生きてきたフローラは、隠し持っていた鞭の持ち手を握り締める。
「わけぇ女が何の用だ? コイツの噂でも聞いてきたのか?」
「ごめんなさい、何も聞いていないわ」
素でそう返したが、屈強な男が見せてきた皮の袋の中身には心当たりがあって一歩歩を進めた。
一方、屈強な男は不可解そうに顔を顰めて「あぁそうかよ」と踵を返す。自分よりも遥かに力のある男や蹴られて息絶えた男たちを見ても一切動じず、自分が持っている物の噂を聞いて来た訳でもない。ならば、今自分の目の前にいる女は自分とはまた別の意味で近付かない方が身の為になる女ということだ。
「待って。それは三よね?」
「ちげぇよ」
その上意味不明なことまで口にする。力でなんとかすることができるとはいえ、危ない女からは離れた方がいい。
「三よ。匂いがそうだもの」
「だから三ってなんだよ! これはダイヤモ……」
屈強な男が振り向いた刹那、フローラの鞭が皮の袋を持つ男の右腕を熾烈に打った。
「ぎゃああぁあぁああぁッ?!?!」
屈強な男の皮膚はどんな殴打にも耐えてきた自慢の分厚い皮膚のはずだ。耐えきれない痛みは武器によるものとしか考えられないが、フローラが武器を持っているようには見えなかった。
一体何が──困惑する男の目に飛び込んできたのは、肉の大部分が抉り取られた右腕だった。
「あっ、あっ、あっ……」
もう使い物にならないそれから覗くのは男の骨で、それを見ても一切動じないフローラは男の手から離れて地面に落ちた皮の袋を拾う。
「三……」
袋の中身は、フローラの予想通りフローラが三番目に製作した薬物だった。
「……貴方は平気なの?」
フローラは屈強な男に尋ねるが、屈強な男はフローラと会話をする余裕がない。フローラが何を言っているのかもわからない。
フローラは痛みに苦しむ屈強な男を眺め、男が三を使用していないことを判断した。
「お願い、教えて。これを保管している場所はどこなの?」
「し、知らね……そんなことより、助け……」
「ごめんなさい、私、聖女じゃないの」
フローラは自分が聖女ではないという引け目を感じてそう答えたが、思えばフローラが落馬した時はジゼルとロザリーが回復魔法で助けてくれた。辺りを見回すと何人かがフローラたちを遠巻きに眺めているが、誰も助けに来てくれない。
ラトゥール領を治めるラトゥール公爵家の一人娘だったフローラでさえ魔法を使うことができないのだ。彼らが魔法を使えるとは思えない。
「ごめんなさい、私……魔女じゃないの」
謝って、立ち上がったフローラは痛みのあまり息絶えた男を見下ろした。
この男は何を思って三を持ち歩いていたのだろう。三を男に返す訳にはいかないフローラは皮の袋を持って歩き出す。
遠巻きに自分たちを眺めていた人々は人間のことも殺してしまったフローラを避けるかと思ったが、意外なことに全員がフローラの行く手を阻んでこう言った。
「た、頼む、売ってくれ……!」
公爵令嬢として過ごせなかったとはいえ、早く寝て早く起き、満足になるまで食事をして働いていたフローラの体は健康そのものだ。その上人間のことも殺しているフローラに、武器を持たない痩せ細った男女が必死になって縋る理由がわからない。
「駄目よ」
薬物を得られないならば死んでも構わないと思っているのだろうか。
彼らをそうさせてしまったのは自分だとフローラの胸は酷く痛む。
「駄目なの」
遠慮なく伸びてくる手を軽く払った。それだけで倒れてしまうくらい彼らは弱く、脆く、呪われた今のフローラは誰よりも強く、人を傷付ける。……サンドラと何も変わらない。
「目を覚まして!」
叫び、フローラは全力でその場から逃げた。今のフローラの全速力に付いて来れる人間はいない。傷付けたくないならばこうするしかない。
早く、カロリーナに会わなければ。
泣きたくないのに泣きそうだ。心は乱されて壊れそうだ。
「止まれぇえーーッ!」
そんなフローラに誰かが追い付く。
フローラの目の前に飛び出してきたのは巨大な鳥で、その鳥は──カロリーナと共にいたシルヴァンだった。




