第十三話 『フローラ・ラトゥールⅠ』
フローラ・ラトゥールの母が病死したのは、フローラが十二歳の時だった。
フローラの父がサンドラと再婚したのはフローラが十四歳の時であり、魔獣との戦いで戦死したのは、その数ヶ月後のことだった。
メルヒェン大陸に生きる王族や貴族にとって、十四歳という年齢は大切にしなければならない年齢の一つである。
入学を希望したにも関わらず入学手続きをしてもらえなかった十四歳のフローラは、十五歳になった時、魔法学校に入学することができなかった。独学で魔法を学ぶことも屋敷の外に出ることも許されなかった十五歳のフローラは、十六歳になった時、社交界に出ることさえ許されなかった。
十四歳になるよりも前にシンデリカ王国の王族や貴族と交流する機会があったとはいえ、王族も貴族も基本的には家で過ごす。そこで行われているのは遊びではなく教育で、公爵令嬢であるフローラは当然、侯爵令嬢だったジゼルとロザリーも貴族としてのすべてをその身に叩き込まれている。
貴族としてフローラに叩き込まれていないのは、魔法だけだった。
ラトゥール公爵家は魔法は魔法学校で学べば良いという教育方針だったが、メルテンス侯爵家は教育熱心なサンドラが魔法を叩き込んでいる。
杖を買い与えられていないフローラが義姉であるジゼルとロザリーに抵抗する術はなく。サンドラの言うことは、どんなに理不尽なことであっても聞くしかない。
フローラがラトゥール公爵家のメイドのような扱いを受けるのは、父が亡くなれば一瞬のことだった。
メルヒェン大陸には戸籍やそれに似たような物がない。王族や貴族と交流する機会があったとはいえ、社交界どころか魔法学校にさえ行かなかったフローラを思い出す人間はほとんどいない。
サンドラが屋敷の使用人をラトゥール公爵家の当主となったモーガンの屋敷に送り、自身の使用人を屋敷に置けば、フローラが公爵令嬢だと知る者はほとんどいなくなる。フローラはサンドラが新しく雇ったメイドだと思う者が大半の屋敷で、フローラはずっと、どの使用人よりも働いていた。
朝になると誰よりも早く起きて牛や豚を放牧地に出し、屋敷に戻ってキッチンの周辺に置いた鼠捕りの確認をし、サンドラが屋敷に来る前から飼っていた犬や猫の世話をする。
掃除をするのもフローラの役目だが、担当しているのは屋敷の最も汚い場所である暖炉と畜舎であり、フローラはいつも汚れていた。
動物の世話はしたことがなかったが、畜産業はサンドラが屋敷に来る前からフローラの父が使用人にやらせていたことだ。動物の世話は嫌だと今でも思っているが、サンドラに意味もなく殺されたり、何も知らないサンドラの使用人に任せて死なせてしまう方が耐えられない。
そんな日々を七年も過ごすと、友人はいなくなり哺乳類や鳥類はフローラにとって家畜以外の何者でもなくなる。
「……大丈夫よ、コンスタンス」
友と呼べるのは、屋敷に住み着いた爬虫類だけだった。
サンドラは鼠は見付け次第殺せと言うが、爬虫類の存在には気付いていない。鼠は殺して爬虫類を外に逃がしていたフローラは、ずっと屋敷から離れなかった──コンスタンスと名付けた蛇に微笑んだ。
コンスタンスは状況がわかっているのか、サンドラに鞭打たれて倒れたフローラの下へと這う。
蛇の言葉はわからない。逃がしても逃がしても屋敷に戻ってくるコンスタンスに愛着を持ち、勝手に友と呼び始めた自分の頭がおかしくなっていることには気付いている。
それでも、コンスタンスがいなければフローラはこの七年を耐えることができなかった。
「……だから、行って?」
状況はわかっているのに、自分がどうなっているのかはわからない。執拗に打たれた足の感覚はもうなくなっている。
「……お願い」
サンドラがフローラをこの部屋に閉じ込める気ならば、コンスタンスはフローラの目となってこの部屋の外に出てほしい。屋敷からも出て、この町で、この国で、誰よりも自由に生きてほしい。
そう強く願って目を閉じて、フローラを始末したサンドラが部屋から去る時、自分とロザリーが泣きそうな表情で部屋の外に立っていたことを思い出す。
その意味に気が付かない程鈍くはない。ロザリーの隣に立っていたのは、多分、ロザリーの実姉のジゼルだったのだろう。そして、これからはジゼルがフローラ・ラトゥールとして生きるのだろう。
「…………」
明日になったら、サンドラはジゼルを連れてジュリアンの下に向かう。そしてジュリアンにフローラ・ラトゥールを紹介するのだろう。
「……でん、か」
目を閉じていると、何度も自分に微笑みかけてくれた幼いジュリアンが思い浮かぶ。あれはジュリアンの好意だったのか。ただの社交辞令だったのか。その答えを聞くのは自分ではない。
あの時ジュリアンが結婚すると言ったフローラは、どのフローラなのだろう。
ジュリアンは、大陸一の聖女と同じ名前であることを嫌がったフローラを覚えているのだろうか。覚えていたとして、自分のどこにジュリアンが惹かれる要素があったのか。
……いずれにせよ、フローラにはもうジュリアンに会う資格がない。
フローラはもう何年も前から犯罪者なのだ。天と地が引っくり返ってもフローラ・ラトゥールが大陸一の聖女になることはない。城の保管庫に侵入してしまったら追われる身だ。
捜査の手がここまで来るかはわからないが、来てしまったらフローラはもうあの時のようには逃げられない。いや、もう、ここまで来たら捕まった方が良いのかもしれない。
何年も何十年もこの部屋で新しい薬物を作り続けるのと、ジュリアンに軽蔑されるのとでは、きっと後者の方が苦痛ではない。
そう思ったフローラは、思い切って自分の足に視線を向けた。
足元には血溜まりができているが、もう渇いているのかフローラの足に付けられた傷を撫でているコンスタンスには一滴も付いていない。
次第に足にコンスタンスの重みを感じ、フローラは恐る恐る足を動かす。
「ッ!」
動いた。痛くない。コンスタンスがフローラから離れると、そこには無傷の足があった。
「どうして……」
コンスタンスは長い間フローラの足の上にいたはずだ。コンスタンスの体で傷口が塞がることも、コンスタンスの重みで痺れないこともあり得ない。
戸惑っていると、部屋を照らしていた明かりが徐々に消えていった。窓の外に視線を向けると、カロリーナと出逢ったあの時と同じ色の空が広がっている。
そうか。もうカロリーナと出逢って二十四時間が経とうとしているのか。
フローラは明かりを点けようとランプの下まで歩こうとするが、サンドラにフローラが動けることを悟られたくない。
それに、いつも以上に部屋の中が見えている気がする。薬の研究の為に至る所に置いたままにしている薬草や道具が、明かりを点けなくても鮮明にわかる。
「まさか」
フローラは全身を上下左右に動かした。
驚く程にどこも痛くない。城から逃走していたあの時と同じ体の軽さまで感じる。
「北の魔女様の魔法だわ」
自分でも状況を把握する為にコンスタンスにそう告げた。コンスタンスの言葉はわからないが、フローラはコンスタンスが喜んでくれていることを信じて散らかったテーブルに向き直る。
「ありがとう、北の魔女様」
あと少し。それが終わればすぐにこの屋敷から出よう。
そして、この国で最も信頼できる魔女──カロリーナに会いに行こう。
「あと少しだけ、私のことを助けてください」
そう祈って、フローラは盗んだ薬草へと手を伸ばした。




