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第七話  『姓も名も』

「フローラぁ?」


 その名前は、メルヒェン大陸の誰もが知っている大陸一の聖女の名前だ。黒兎くろとが眉間に皺を寄せると、「馬鹿を言うのも大概せい!」とエバートが怒鳴る。


「フローラがどこにいるのか知らんのじゃろう! 今日ここに来ておらん者はこの国にはおらん! さっさと諦めて別の女と結婚するんじゃ!」


「ッ! そんなの……まだわからないだろう!」


 ジュリアンはエバートが伸ばした手を払って階段を上がろうとし、ジゼルとロザリーに塞がれていることに気付く。ジゼルとロザリーは喜んでジュリアンに手を伸ばすかと思ったが、二人は何故か、目を見開いたまま硬直していた。

 フローラには人柄でも名声でも敵わないとはいえ、彼女が失踪してから二十年の時が経っている。周りの招待客はそんな女と本気で結婚しようとしているジュリアンに困惑こそすれ、硬直はしない。サンドラはジゼルとロザリーの背後で怒りに震えており、ジゼルとロザリー以上に理解できない反応だと黒兎は思った。


「退いてくれ!」


 ジュリアンはジゼルとロザリーを避けて大広間に向かう。


「フローラは来ません!」


 声を上げたサンドラは、真横を通り過ぎたジュリアンを見上げてジゼルとロザリーに手を向けた。


「殿下、私の娘たちは魔法学校で優秀な成績を収めました! 公爵令嬢としての教育も充分過ぎる程受けています! どうか一度だけでも……」


「俺はジゼルのこともロザリーのことも知らない!」


 その言葉は舞踏会において相応しい断り方なのだろうか。


「そして、貴方のことも! 貴方たちが公爵家だというのは嘘だ!」


 ジュリアンは、ラトゥール公爵家の三人を一瞥することなく騎士たちに連れられて大広間の中へと入っていく。最初からジュリアンの眼中にないジゼルとロザリーの母、サンドラは、呆然と人混みの中に消えていくジュリアンの背中を眺めていた。


「失礼、デスメット夫人! アブラハム、また後でな!」


 エバートは、フローラに会う為とはいえ舞踏会に参加する気になったジュリアンの後を嬉しそうに追い掛けていく。


「わしらも行こう」


 アブラハムは人混みの隙間から見え隠れしている豪勢な料理が気になるらしい。オラティオは既に中にいるリサとシルヴァンに追い付く為にもアブラハムに付いていく。


「カロリーナ様、申し訳ございません。ここで失礼してもよろしいでしょうか」


 そんな中、グリーズがカロリーナにだけそう言った。


「えぇ、勿論。お互いに楽しみましょう! 帰りに迎えに行くわね!」


「いえ、大丈夫です。一人で帰れますので」


「そうなの? 街までかなり距離があるわよ?」


「カロリーナ様から魔法をいただきましたから」


 振り返ると、グリーズは柔らかく微笑んでいる。それでも心から笑っているように見えないのは何故だろう。


「では、失礼致します」


 グリーズは一礼して去っていく。


「あっ! 待って! その魔法! 午前零時になったら解けちゃうから! それまでに帰るのよー!」


 カロリーナは、遠ざかっていくグリーズの背中に必死になって声を掛ける。グリーズはきちんと聞こえていたらしく振り向いてもう一度だけ一礼したが、それ以降は人混みに隠れて見えなくなるまで振り向くことは一度もなかった。


「それにしても、なんでジュリアンはフローラと結婚したいんやろなぁ」


 フローラは生きていたら四十歳を超えているだろう。ジュリアンは三十歳にもなっていないだろうが、いくら相手が大陸一の聖女とはいえ本当にフローラと結婚したいのだろうか。


「憧れているんじゃない? やっぱり」


「うーん、それだけで結婚したいと思うのかしら? 昔一度会っているのかもしれないわ」


「昔っていつやねん」


「多分ジュリアンがこれくらいちっちゃい頃ダァー」


 ダーさんはエレンを指差す。エレンはダーさんの指を叩いたが、それで痛がるのはダーさんではなくエレンだった。


「会えるはずがないのぅ。ジュリアンがどの頃だろうと、聖女フローラはジュリアンが二歳の時に行方不明になっておる」


 ジュリアンの恋心を一番理解することができないのは、フローラとジュリアンを知っているアブラハムだけ。


「いると思いますよ、フローラさん」


 そして口を挟んだのは、フローラのことを知らないはずの虎獅狼こじろうだった。


「「「えっ?!」」」


「何言うてんねん」


「知っているような口振りだったじゃん、デスメット夫人」


 言われてサンドラの言動を思い返す。


「『フローラは来ません』って、フローラさんのことを知っている人じゃないとなかなか出てこないでしょ」


「それは……せやなぁ」


 聖女フローラを直接であれ間接であれ知っている人間は、一様にジュリアンが何を言っているのかを理解できずに困惑する。サンドラも、ジゼルも、ロザリーも、そんな反応はしていない。


「フロー嬢はいる」


 シンデリカ王国のすべてを知っているのは、国王のエバートではなく魔法の鏡のハインツだ。


「「「えっ?!」」」


「ほんまか!」


「同名のな」


「勘違いやないかい」


 期待して損した。そう思うのは同名のフローラに対して失礼だろうが。


「それもそれで変だけどね」


 と言いつつ、虎獅狼はそんなに興味がないのか大広間の料理に視線を移す。


「何がや」


「舞踏会に招待されているのは、この国のすべての未婚の女性でしょ」


 そしてそれは。


「来ないってことは、同名のフローラさんは国王の命令に背いたってこと」


 エバートは恐ろしい国王には見えないが、舞踏会に傾ける情熱は誰よりもある。ジュリアンが結婚したがっていなければ確実にフローラを罰しただろう。


「デスメット夫人はどうしてフローラさんが来ないことを知っているんだろうね」


「ジュリアンがフローラと結婚したがっていることを知っているから……フローラを閉じ込めたってこと?!」


 カレンでさえ想像することができるが、真実を語るのは虎獅狼ではない。


「フロー嬢を嫌っているからフロー嬢のドレスを破いたんだ」


 サンドラはジュリアンがフローラと結婚したがっていることを知らなかった。

 サンドラはただ、憎きフローラを舞踏会という輝かしい場所に出したくなかっただけ。


「運がええんやな」


 フローラが舞踏会に来なければ、ジュリアンはこれからもフローラを探し続ける。ジュリアンがフローラを諦めれば、ジゼルとロザリーがジュリアンの視界に入る可能性はある。

 ジゼルとロザリーが本当に公爵家の令嬢ならば。


「何それ、酷い!」


「フローラが可哀想ダァー!」


「私、ちょっとフローラのところに行ってくるわ。ハインツ、フローラの居場所を教えて」


「いや、行かんでええやろ」


「俺もそう思います」


「私もそう思います」


 虎獅狼とエレンも、黒兎と同じように察したようだ。


「あぁ。キャロル嬢は既にフロー嬢に会っている」


 同じような目に遭って泣いていた若い女がいたことを忘れた訳ではないだろうが、女の本名がフローラならば、女は何故ジュリアンの告白を聞いた時に名乗り出なかったのか。


 女は何故、楽しみにしていない舞踏会に足を運んだのか。



「──フローラ・ラトゥール」



 その女の姓も名も、黒兎は既に知っている。


「それがグリ嬢の本名だ」


 その女は姓も名も、自分に相応しいものではないと思ったのだろう。偽名を名乗ったグリーズは、大広間のどこを探してもいなかった。

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