幕間 『月の魔女』
輝夜は自室に籠り、たった一人で姿見鏡が映す世界を眺める。
黒兎は南の魔女のグリンダとも出逢ったようだ。今まで多くの軍人の記憶を奪ってメルヒェン大陸に送っていたが、大陸にいるすべての魔女に出逢ったのは黒兎と虎獅狼だけ。黒兎をメルヒェン大陸に送ったのは偶然だが、まさかここまで活躍してくれるとは。
黒兎がいなかったら、そしてドロシーがいなかったら、熾成の計画はこうも上手くいかなかっただろう。
「……変な奴」
そして、嫌な奴だ。黒兎はどこまで輝夜を翻弄すれば気が済むのだろう。
だが、そんな黒兎だから輝夜はきっとあの頃から目が離せないのだ。
黒兎をメルヒェン大陸に送った日は涙が止まらず、今でも時々思い出して泣いてしまうが、黒兎はいつ見ても大体何かやらかしている。
黒兎の話ができる人間は少ないが、そんな人間に会えばつい黒兎の話をしてしまうくらいだ。いつどこで誰に会っても話題が尽きない──そんな黒兎を、多くの人間が可愛がっている。
だから、現在メルヒェン大陸で生き残っている北の魔女カロリーナと南の魔女グリンダが黒兎を可愛がるのは当然だろう。
新しく誕生した水の魔女カレンと闇の魔女アリアドネも、黒兎に好感を抱いている。それはメルヒェン大陸で霧の魔女と呼ばれている輝夜も例外ではない。そして、その状況は正直まったく面白くない。
羨望、嫉妬、慟哭、憤怒──瞬間、姿見鏡にサラが映った。
サラは姿見鏡をじっと見つめている。サラは輝夜に見られていることに気付いているようだ。
『あっ?! おいサラ! 何してんねん! ハインツは食べ物ちゃうぞ!』
『ホー、ホー』
サラは輝夜に黒兎を見せているのだろう。ドナトリア王国の女王だかトレステイン王国の王妃だか知らないが、黒兎とよく話しているリタと違って輝夜のこれは盗撮だ。
『ぺッぺッぺッ! ぺッしい! ペェ!』
「沙羅は黒兎が思っている程間抜けじゃないぞ」
誰にも見られていない、そんな気の緩みがあったからか輝夜は思わずくすくすと笑う。サラは輝夜が飼っている梟の中で最も賢い梟だ。人間の言葉を理解し、輝夜を親のように想い、黒兎を全力で監視している。
『ん?』
黒兎は何かに気付いたのか、眉間に皺を寄せてハインツを覗き込んだ。
『どうしたの?』
すると、黒兎の背後から虎獅狼が顔を覗かせる。
『いや……。今誰かに笑われた気がしたんやけど』
『黒兎のことならみんな笑ってるでしょ』
『なんでやねん! 笑われる要素ないやろクソ!』
今輝夜が眺めているのは、輝夜の前では絶対に見せない黒兎の素だ。
見せてもいいのに見せてくれない。だが、輝夜も輝夜で今の笑顔を黒兎に見せることができない。
黒兎はもう輝夜が皇帝であることを知っている。
知られているなら気軽には笑えない。そもそも両親と妹を失ったあの日から笑った瞬間なんて数える程しかなかったが。
「……もういいぞ」
輝夜が声を掛けると姿見鏡は輝夜を映す。黒兎と共にいるのはハインリヒという鏡らしいが、輝夜が使っているのは昔母から教わった魔法の一つだ。
輝夜はソファにもたれかかって天井を見上げる。父から教わったことも、母から教わったことも、まだ覚えているが妹に繋がる何かはない。輝夜の中で少しずつ妹が消えていくのがわかる。
それに耐えることができなくて自分の白いスマホを取り出した。ロックを解除してアプリを開くと、父が撮った動画が表示される。
十年前──たった六歳で亡くなった舞夜の笑顔と声はもう思い出せない。記憶から消えて、動画だけが記録として輝夜に当時のことを繰り返し繰り返し教えてくる。
手を伸ばせば届く距離に、抱き締めても問題ない家族がいたこと。今は手さえ伸ばせないこと。動画を繰り返せば繰り返す程胸が苦しくなって輝夜の表情から笑顔が消える。
輝夜は朧に心を開いていない。抱き締めたいと思うのは黒兎だが、黒兎に素は見せられない。
それでも、時々寂しくて気が狂いそうになる。
ここまで来てしまったら黒兎を抱き締めることへの抵抗はない。今すぐ会いに行こうかと腰を上げる。
そして、ヴァルトラウトという敵が消え、呪いが消え、黒兎が消えた今、自分が月光国にいる理由がないことに気が付いた。
皇帝を背負い続ける理由もない。熾成がいるなら熾成がやればいい。熾成の計画は自分がメルヒェン大陸にいてもできるはずだ。
輝夜は自室を飛び出して宮殿を走る。軍人や職員が何事かと輝夜に視線を向けるが、追い掛けてくる人間は半分もいない。止められても輝夜は魔法で対抗できる。
「っはぁ! っはぁ!」
「姫様ーッ! 姫様ーッ! 何してはるんですかーッ!」
振り返ると、朧があっという間に体力のない輝夜に追い付いた。
輝夜は無言で朧を見上げ、朧を振り解くことを諦める。
「無視?! 姫様! 無視しんといてください!」
走っている最中に話すことができないだけだ。輝夜は少しずつ速度を落とした。
「姫様、その先どんつき! どんつき!」
わかっている。輝夜は足を止めて、宮殿の最深部に位置する扉とそれを護る二人の軍人を見上げた。
「通せ」
軍人たちは朧を一瞥する。
「中大路は戻れ」
輝夜は朧に命令する。朧を巻き込むつもりはない。素直に下がると思ったが、朧は「嫌です」と言ってその場から頑として動かなかった。
「ウチは姫様を護ります」
「学校の中での話だろう」
「そんなん今更やないですか!」
朧は、宮殿の中に部屋を用意した日から公私共に輝夜の傍にいる。
「姫様はウチの何が不満やの?! 同じキョウト生まれやのに! 小さい頃からまぁまぁ一緒やったのに! 同じ魔女に呪われて、親も亡くして、今までずっと一緒におったのに! 何があかんの?! ウチと黒兎クンの何が違うん?!」
朧が輝夜と過ごした時間は黒兎以上だろう。そう考えたら黒兎と過ごした時間はあまりにも少ない。
輝夜は溜息を吐いて、朧も中に通すことを命じた。
「姫様……!」
朧は輝夜の想いを知っているのかいないのか。完全に輝夜を信用しているという表情で背後から輝夜を抱き締める。
軍人も軍人で幼馴染み同士の戯れだと思っているらしい。輝夜が考え過ぎているだけなのだろうか。輝夜は朧を引き摺りながら中に入った。
「姫様、なんですの? ここ」
「見たらわかる」
「ほんまや、外丸見えやん」
輝夜を追い越して部屋の中心にある穴を覗いた朧は驚く。その穴は五十メートル程だろうか。穴の下の窓には果てない青が広がっていた。
「えっ?! 姫様待って! あの青いの何?!」
「海」
月のように浮かぶ惑星は月と違って青く輝く。
「海?! あれが?!」
教科書には載っていても肉眼で見たことがある人間はほとんどいないだろう。空は幾らでも見れるが、空に浮かぶ月光国を支えている大地がある以上、そう簡単には海は見れない。
「綺麗やなぁ。行ってみたいわぁ」
「やめた方がいい。溺れて死ぬ」
生命力のある黒兎や虎獅狼でさえ海には敵わなかったのだ。人工の湖しかない──水に入る必要性がないが故に泳ぎ方を忘れた月光人が行っていい場所ではない。
「確かに、風呂よりも大きいと怖いなぁ」
赤子だけではなく、大人でさえ風呂で溺れて死ぬことはある。朧は身震いをして海が見えない位置まで下がり、「あっ?!」と汚い声を上げた。
「まさか、黒兎クンあそこにおんの?!」
「そうだ」
月光国から遠く離れた小さな惑星。遠い昔にメルヒェン大陸以外の大陸が見捨てた、輝夜たち人類の故郷の惑星。
輝夜は朧の代わりに穴に近付き、朧に手首を掴まれた。
「姫様、まさか黒兎クンに会いに行くん?」
「そうだ」
「行ったらあかん!」
朧は何故輝夜の体に気軽に触るのだろう。手首を掴まれたと思ったら今度は正面から抱き締められる。
「会いたいなら連れ戻してや!」
朧は何故輝夜の考えていることがわかるのだろう。輝夜は朧を残してメルヒェン大陸に堕ちるつもりだった。それを言葉にされたら追いかけてきた軍人や職員も輝夜を全力で止めるだろう。
「馬鹿。冗談だ」
そう答えながら、輝夜は筆舌に尽くし難い表情を浮かべる石井や庫田、阿倍や大野を一瞥した。




