第四章 好きと言われた子
二月下旬の昼休み、生徒会室へ一人の生徒が訪ねてきた。
一年四組の園芸委員。胸元の名札を何度も指で押さえ、椅子へ座ってからも視線を上げようとしない。
「相談したことは、ほかの人に知られませんか」
「必要がない限り、名前は出さないよ。急がなくていいから、話せるところから聞かせて」
私は生活相談用の用紙を机へ置いた。ひよりが少し離れた席で、ほかの書類を整理している。相談者が緊張しないよう、文香先輩は席を外していた。
「宮本莉々香先輩のことで」
予想していた名前だった。
「どんなこと?」
「先週、花壇で水やりをしていたら、宮本先輩が通りかかって」
相談者は、膝の上で手を握った。
「人が見ていなくても花に水をあげてるところ、好きって言われました」
「うん」
「それで……友達に話したんです」
ここから先も、おおよそ想像できた。
友達は、彼女が以前から莉々香先輩を好きだったことを知っていた。最初は一緒に喜んでくれた。しかし翌日、その友達が突然冷たくなった。
理由を聞いても、「よかったね、莉々香先輩に選ばれて」としか答えない。
「その友達は、あなたへ好意を持っている可能性は?」
「分かりません。でも、ずっと一緒だったから。卒業しても一緒にいようって話してて」
莉々香先輩の一言によって、もともとあった感情が表へ出たのかもしれない。
さらに問題を悪化させたのが、ファンクラブだった。
誰が流したのか、莉々香先輩の「好き」という発言が会員の間で共有され、“今月最有力”と呼ばれているらしい。園芸委員の仕事を見に来る生徒まで現れた。
「私、宮本先輩に、そんなつもりじゃないって言ってほしいんです」
「それでいいの?」
彼女は答えなかった。
告白ではないと分かれば、友達との関係は元に戻るかもしれない。代わりに、ずっと大切にしていた莉々香先輩への気持ちは行き場を失う。
「宮本先輩に事実を確認する。ただ、先輩があなたの望む答えを言うとは限らないよ」
「分かってます」
「友達とも、できれば自分で話してみて。宮本先輩の言葉だけが原因じゃないと思うから」
相談者はしばらく俯いたあと、小さく頷いた。
放課後、放送室には莉々香先輩一人しかいなかった。
窓の外は薄い曇り空で、机の上に午後の白い光が落ちている。先輩はマイクの前で、翌日の原稿へ鉛筆で印を付けていた。
「宮本先輩。お話があります」
「真白ちゃん、今日は早いね」
「また相談がありました」
「私?」
「先週、花壇で園芸委員の一年生へ、好きだと言いましたか」
先輩は鉛筆を置いた。
「水やりしてた子?」
「そうです」
「言ったよ」
「どのような意味で」
「誰も見てなかったのに、寒い中で一人でやってたから。そういうところ、いいなって」
「本人は告白だと思っています」
莉々香先輩の表情から笑みが消えた。
「また?」
「今回は、本人の友人との関係まで悪くなっています。ファンクラブも騒いでいる」
「私、あの子に何もしてないよ」
「好きと言いました」
「でも、それだけ」
「先輩にとっては、それだけでも、相手にとっては違います」
「じゃあ、何て言えばよかったの」
初めて、先輩の声に苛立ちが混じった。
「頑張ってるね? えらいね? それなら勘違いしない?」
「言葉を選ぶことはできたと思います」
「どの言葉なら大丈夫か、真白ちゃんには分かるの?」
「それは」
「私は、好きだと思ったから好きって言っただけ。付き合ってとも、私だけを見てとも言ってない」
「それでも、相手にどう届くかを考える必要はあります」
「受け取った人が何を考えるかまで、私の責任なの?」
答えに迷った。
すべてが莉々香先輩の責任だとは思わない。園芸委員の友人の嫉妬も、ファンクラブの騒ぎも、本人が命じたものではない。
けれど、知らないでよいとも思えなかった。
「褒めるなとは言いません」
私は言葉を探しながら続けた。
「でも、“好き”という言葉を投げて、相手だけに意味を考えさせるのは、無責任です」
「……私は、そんなつもりで言ってない」
「つもりの話ではありません」
言った瞬間、強すぎたと気づいた。
放送室の時計の針が、一つ進む。廊下では運動部の掛け声が遠く響いている。
莉々香先輩は視線を落とし、原稿の端を指でなぞった。
「分かった」
「宮本先輩」
「その子に謝る。どういう意味で言ったかも、ちゃんと話す」
「先輩だけで会わないでください。余計に期待させる可能性があります」
「真白ちゃんも来て」
「私がですか」
「監視役でしょう」
いつもの軽い調子ではなかった。
「……分かりました。日程は私が調整します」
「お願い」
先輩は再び鉛筆を持った。しかし、原稿へ印を付ける手は動かない。
私は扉へ向かい、取っ手へ手を掛ける。
「宮本先輩」
「何?」
「言いすぎました」
「真白ちゃんが?」
「はい」
「そうかな」
先輩は少しだけ笑った。
「本気で怒ってくれる人、あんまりいないから。嫌じゃなかったよ」
「それも、誤解される言い方です」
「真白ちゃんは誤解しないでしょう」
「しません」
すぐに答えた。
答えたはずなのに、胸の奥へ細い棘が残った。
数日後、生徒会室で園芸委員の生徒と莉々香先輩が向かい合った。
私は二人の間ではなく、長机の端へ座った。会話へ必要以上に口を挟まないためだ。
「ごめんね」
莉々香先輩は最初に謝った。
「好きって言ったのは、あなたが寒い中でも花の世話をしてるところが素敵だと思ったから。付き合ってほしいって意味じゃなかった」
「……はい」
「でも、あなたが勘違いしたのが悪いとは思ってない。私の言い方が、分かりにくかった」
園芸委員の生徒は膝の上で拳を握り、やがて顔を上げた。
「私、先輩のこと、好きでした」
「うん」
「いまも好きです」
「ありがとう」
「それだけですか」
莉々香先輩は一度、私を見た。
助けを求めているのではない。自分の答えが間違っていないか、確かめるような視線だった。
私は何も言わない。
先輩は自分で向き直った。
「それ以上は、返せない。ごめんね」
相談者の目に涙が浮かんだ。それでも、頷いた。
「分かりました」
別れ際、莉々香先輩は彼女の制服にも、髪にも、いつものような褒め言葉を添えなかった。
生徒が出ていったあと、先輩は長く息を吐く。
「難しいね」
「はい」
「真白ちゃん、いつもこんなことしてるの?」
「いつもではありません」
「疲れない?」
「今日は少し」
「私のせいだ」
「半分くらいは」
「半分なんだ」
「残りはファンクラブです」
莉々香先輩は困ったように笑った。
「私、そのファンクラブって、一度も見たことないんだよね」
「存在は知っていたんですか」
「何人かが応援してくれてるとは聞いた。でも、そんなに大きいの?」
「私も全体は把握していません」
「じゃあ、二人で知らないんだ」
「一緒にしないでください。私は調査中です」
「真白ちゃん、頼りになるね」
「褒めても何も出ません」
「褒めたら、怒る?」
「内容によります」
先輩は少し考え、今度は何も言わなかった。
その沈黙がなぜか寂しく感じられて、私は自分の方から書類を集め始めた。




