第四巻 プロローグ 行けない朝
制服を着れば、学校へ行けると思っていた。
西村千尋は、ブラウスのボタンを上まで留めた。
鏡の中に、いつもの自分がいる。
黒い髪を整え、リボンを結ぶ。鞄には昨日のうちに教科書を入れた。江口梓から送られてきた時間割も確認してある。
あとは玄関を出るだけだった。
「千尋ちゃん、朝ごはんは?」
階下から伯母の声がする。
「いりません」
「少しでも食べないと」
「後で食べます」
後で、がいつなのかは分からない。
時計は七時十二分。
今出れば、いつもの電車に間に合う。
七時十五分。
まだ間に合う。
七時二十分。
走れば。
千尋は鞄を持ち、部屋の扉へ向かった。
廊下へ一歩出た途端、胸の奥が固くなる。
教室の扉を開ける光景が浮かんだ。
全員がこちらを見る。
誰も責めない。
昼休みになれば、隣のクラスから来た梓が笑って、昨日より綺麗にできた唐揚げを見せるだろう。佐久間真白は、いつもどおり少し厳しい顔で「おはようございます」と言う。小田ひよりは何も聞かず、お菓子を差し出す。
優しい。
それが怖い。
もし、誰かが一瞬だけ困った顔をしたら。
もし、話しかける前に目を逸らしたら。
もし、陰で「選挙に負けた子」と言われていたら。
何より、誰もそんなことをしなかった時、自分だけがまだ負けたことを恥じていたら。
足が動かない。
呼吸が浅くなり、鞄を持つ指へ力が入った。
「千尋ちゃん?」
階段の下に伯母がいた。
「行くの?」
「……分かりません」
「今日は休んでもいいんじゃない」
「昨日も休みました」
「昨日休んだからって、今日も休んじゃいけないの?」
「行かないと、もっと行けなくなります」
「そうかもしれないね」
「でも」
言葉が続かなかった。
伯母は階段を上がってこない。
千尋を引っ張りも、背中を押しもしなかった。
「朝ごはん、温めておくよ」
それだけ言い、台所へ戻る。
千尋は部屋へ引き返した。
制服のまま、ベッドへ座る。
スマートフォンが鳴った。
梓から、二段の弁当箱の写真。
『今日は焦げてない。たぶん』
ひよりから、丸いクッキーの写真。
『お昼まであります』
莉々香から、放送室のマイク。
『今日は部長と読むよ』
真白からは、短い文章。
『連絡は不要です。今日の配布物は保管します』
来て、とは書かれていない。
待っている、とも。
そのことに安心し、同時に寂しくなる。
千尋は返信欄を開いた。
『今日は行けません』
そこまで打ち、消した。
連絡は不要だと言われている。
だから返さなくてもいい。
スマートフォンを伏せる。
七時四十五分。
いつもの電車が駅を出る時間だった。
千尋は制服のリボンを解いた。




