第三巻 第十九章 閉じた箱
西村さんの伯母の家は、学校から電車で三駅の住宅街にあった。
住所は、緊急連絡先として学校へ届けられている。
生徒会長だから知った情報を、友人として使ってよいのか。
駅から歩くあいだ、何度も考えた。
会長からは逃げられない。
友人からも逃げたくない。
玄関前に着き、呼び鈴を押す。
返事はなかった。
もう一度。
中で、かすかに足音がした。
「西村さん。佐久間だけど」
沈黙。
「退部届、見た」
言ってから、先輩の許可なく話すべきではなかったと思う。
でも、もう遅い。
「宮本先輩と梓も、心配してる」
扉の向こうから、声がした。
「帰ってください」
「顔を見せて」
「嫌です」
「じゃあ、ここで話す」
「近所迷惑です」
「小声で話す」
「そういう問題では」
少しだけ、いつもの西村さんだった。
「学校へ、来て」
「命令ですか」
「お願い」
「嫌です」
「明日だけでも」
「行きません」
「なぜ」
しばらく返事がない。
「怖いからです」
扉越しの声は、ひどく小さかった。
「誰も、何も言わないかもしれない。それでも、私が皆さんの目を見られません」
「何をしたんですか」
「会長選へ出ました」
「規則に従って」
「宮本先輩へ告白しました」
「相手を尊重して」
「負けました」
「本気で戦って」
「それが恥ずかしいんです!」
声が震える。
「欲しいものへ手を伸ばして、何も得られなかった。父にもついていかず、会長にもなれず、宮本先輩にも選ばれなかった」
「私たちがいる」
「それを言わないでください!」
私は口を閉じた。
「皆さんがいるのに、こう思う自分が嫌なんです。江口さんが泣いてくれたのに、佐久間さんが公約を残すと言ってくれたのに、私は負けたことしか考えられない」
扉の向こうで、何かが擦れる音がした。
座り込んだのかもしれない。
私も玄関前へしゃがんだ。
木の扉一枚を挟み、背中を合わせるように。
「私も、勝ったことを喜ぶのが怖かった」
「どうして」
「西村さんが傷つくと思ったから」
「喜べばよいでしょう」
「うん。今は喜んでる」
「なら」
「西村さんも、ちゃんと悔しがって」
扉の向こうが静かになる。
「二百四十三票も取った、ではなく。私に負けて悔しいと」
「悔しいです」
「うん」
「会長になりたかった」
「うん」
「江口さんを、勝たせたかった」
「うん」
「私を選ばなかった二百六十九人が、嫌いです」
「それは困る」
少し間が空く。
「冗談です」
「西村さんの冗談は分かりにくい」
「この学校で覚えました」
「誰から」
「あなたたちから」
扉越しに、ほんの小さな笑いが聞こえた。
「明日、来られる?」
「分かりません」
「分かった」
「帰るのですか」
「帰ってほしいって言われたから」
「今さら」
「一つだけ、伝える」
立ち上がる。
「生徒会室の扉は、開けておく」
扉の向こうで、息を呑む音がした。
「今すぐ来て、って意味じゃない」
「では、どういう意味ですか」
「前に、私が会長になる学校を見たいって言ってくれたでしょ」
「言いました」
「会長になった。だから、いつか見に来て」
「同情ですか」
「違う。西村さんの公約を借りたいからでも、二百四十三票を取り込みたいからでもない」
「では、なぜ」
「まだ、全部は言葉にできない」
「会長なのに?」
「会長でも、できないことはある」
「頼りないですね」
「知ってる」
「自分で言うのですか」
「先輩の応援演説で、全校に知られた」
また小さく笑う声。
「明日、答えを聞きには来ない。生徒会室へ来るかも、今は決めなくていい」
「はい」
「学校へ来なくても、梓は弁当を作る」
「どうして」
「食べない日もあるから、無理はしなくていいと話した。でも作るって」
「焦げていますか」
「今日は少し」
「食べたのですか」
「うん」
「物好きですね」
「友達だから」
返事はなかった。
「じゃあ、帰る」
「佐久間さん」
「うん」
「会長就任、おめでとうございます」
扉は開かなかった。
「ありがとう」
「よい会長になってください」
「一人ではなれない」
「それ、開票の時も言いました」
「何度でも言う」
「しつこい」
「必要なら」
「そういうところ、宮本先輩に似てきました」
「不本意」
「好きなくせに」
今度は、はっきり笑っていた。
「また明日」
「学校へは行かないかもしれません」
「それでも、また明日」
返事を待たず、玄関を離れた。
駅へ向かう途中、梓から写真が届いた。
少し焦げた唐揚げ。
『明日は今日よりましにする』
宮本先輩から。
『退部届、部長が保留にしてくれた』
ひよりからは、生徒会室の棚へ新しい湯呑みを一つ置いた写真。
『誰のものとは、まだ決めていません』
私は立ち止まり、三人へ同じ返事を送った。
『今日は、これで十分です』
十分かどうかは分からない。
西村さんは明日も学校へ来ないかもしれない。
放送部を、本当に辞めるかもしれない。
副会長にならないかもしれない。
私が差し出した手は、届かなかったかもしれない。
それでも、扉の向こうで彼女は笑った。
今夜は、それだけを持って帰ることにした。




